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学園の庭園に咲く白いアネモネの花びらが、緩やかな春風に乗って舞い散っていた。
レンガ造りの重厚な校舎が建ち並ぶ王立ヴァルハイト学園。ここは国内の貴族子弟や一握りの優秀な平民が集う知識と社交の場である。午後の日差しが柔らかく降り注ぐ回廊の片隅で、男爵令嬢ライラ・レーベンは、小さな木製ベンチに静かに腰掛けていた。
ライラの容姿は、お世辞にも華やかとは言えなかった。栗色の柔らかな髪を低めの位置で束ね、丸みを帯びた小ぶりな瞳は穏やかな焦げ茶色。派手な装飾品や着飾ったドレスよりも控えめなものを好み、愛らしい雰囲気はあるものの、煌びやかな貴族の令嬢たちの中に混ざれば一瞬で見失ってしまうほど平凡である。
しかし、その周りには不思議と温かな空気が満ちていた。
「——それでね、ライラ様。私、どうしてもお父様の期待に応えられなくて……試験の点数も、お姉様と比べられてばかりで……」
ライラの隣で、泣きじゃくりながら胸の内を吐露しているのは、同じ男爵家の令嬢だった。肩を震わせ、手巾で何度も目元を拭う少女の言葉を、ライラは口を挟むことなく、静かに聞き続けている。
「あなたならできる」だとか「きっと大丈夫だよ」といった安易な励ましの言葉は、ライラの口からは出てこない。ただ、相手の言葉に耳を傾け、うん、うん、と頷き、時に深呼吸を促すように静かに寄り添うだけだ。
「そう……お父様は、お姉様と比べられるのね。……あなたは、その言葉を聞いたとき、どう感じたの?」
ライラの低く落ち着いた声が、泣きじゃくる少女の心に優しく染み込んでいく。
「……すごく、悲しかった。私だって、私なりに努力しているのに。でも、お父様の理想の娘にはなれなくて……だからせめて私、次の試験は自分の得意な歴史学の分野に絞って頑張ろうと思うの。でも、それって逃げなのかな……」
ライラは否定も肯定もせず、ただ少女の不安を受け止めるように、小さく首を横に振った。
「あなたが自分で考え抜いて、歴史学を深めようと決めたのね。それが『逃げ』かどうかを決めるのは、あなた自身じゃないかしら。私は、あなたが自分の進む道を選んだことを、とても尊いことだと思うわ」
そう言って、ライラは少女の震える背中にそっと手を添え、ゆっくりとなでた。温かく、穏やかな掌のぬくもりが伝わり、少女の肩からすっと力が抜けていく。
「……ありがとう、ライラ様。私、やってみる。聞いてくれて、本当に良かった」
少女が涙を拭い、晴れやかな笑顔を見せて立ち去っていくのを、ライラは最後まで静かな笑みを浮かべながら見送った。
その一連の光景を、回廊の柱の陰から、じっと見つめている人物がいることには気づかずに。
◇
「……あのような者が、いたのだな」
柱の陰で息をのんでいたのは、この国の王太子、ヴァルフリート・ディートリヒ・ヴァルハイトであった。
金糸のような輝く髪に、深く澄んだ碧眼。整った顔立ちと立ち振る舞いは、誰もが認める「理想の王子様」そのものだ。文武両道であり、誰に対しても公平で心優しいヴァルフリートは、学園内でも圧倒的な人気と尊敬を集めている。
だが、その完璧な微笑みの裏で、ヴァルフリートの心は今、限界まで摩耗していた。
王太子という重責。次期国王として一言一句、一挙一動に完璧を求められる日々。失敗は許されず、弱音を吐く場所などどこにもない。
王立学園は若者の学び舎として開設されたものではあるが、実は王太子の経営手腕を鍛える側面もある。学園長のもと、王族がいない年では専門の経営陣が伸び代のある優秀な生徒を補佐につけて運営していくが、王族が入学した場合には、王太子教育の一環として、その入学当初から学園の運営の中心に王族を置き、物資の手配や費用の交渉、人員の配置転換、学生からの要望に対しどのように解決するか、それを学びつつ実施していくことになる。そして、卒業年ともなれば実際の王領から一部を任され、その運営に携わって行くのだ。
周囲の期待に応えれば、「さすがです」と賞賛されど、その目にはまさか「出来ない」と言われるとは思っていないことが明らかで、それは彼にとって目に見えない重石のように重くのしかかっていた。
第三者から見ればもっと素直になって周りを頼っても良いのにと思えることだろう、しかし、悲しいかな当事者であるヴァルフリートはなまじ人より秀でていたために、どうしたら良いかわからないと言う機会が極端に少なく、それ故周りもだんだん王太子のことだから…という雰囲気になっていってしまっていたのだ。
(拙い話でさえ否定せず、ただあのように静かに受け止めてくれたなら……どれほど救われることだろう)
木漏れ日の中で、傷ついた令嬢の背中を静かに撫でていたライラの姿が、ヴァルフリートの脳裏に鮮明に焼き付いて離れなくなった。
派手さのない、つつましい少女。だがその佇まいには、傷ついた者を一切の偏見なく包み込む、深海のような穏やかさがあった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
(いけない……私には、メルティールという婚約者がいるのだ。それに、あの令嬢にもしかるべき相手がいるはずだ。このような想いを抱くなど、王太子として、ひとりの男として絶対に許されない)
ヴァルフリートは激しい罪悪感に苛まれ、強く拳を握りしめた。想いに蓋をしなければならない。忘れなければならない。そう自分に言い聞かせるのだが、一度覚えてしまった心の渇きは、容易には消えてくれなかった。
それ以来、ヴァルフリートは気づけば学園の敷地内で、無意識にライラの姿を探してしまうようになっていた。
庭園の木陰で読書をする姿。食堂で婚約者と仲睦まじくお弁当を食べる姿。同級生の話を熱心に聞いている姿。
遠くからその姿を目で追うたび、胸の奥に灯る温かな光と、同時に押し寄せる酷い罪悪感に、ヴァルフリートは一人苦しんでいた。
◇
学園の中庭にある大きな楠の木の下。ライラは一人の青年と向かい合って座り、手作りのサンドイッチを口に運んでいた。
青年の名はキリル・ハルシオ。ライラと同じ男爵家の令息であり、二人は幼い頃からの婚約者同士であった。
キリルの見た目もまた、ライラと同様に地味で平凡だった。少し跳ねた茶髪に、丸い眼鏡。しかし、その目元にはいつも柔らかい笑みが浮かんでおり、物腰はどこまでも穏やかだった。彼もまたライラに負けず劣らずの聞き上手であり、派手さはないものの、周囲の人々からは「誠実で信頼できる人柄」として深く慕われている。
「ライラ、今日も誰かの相談に乗っていたのかい?」
キリルは自分の水筒から紅茶を注ぎ、ライラにカップを渡しながら尋ねた。
「ええ。今日は、将来の進路について悩んでいる方だったわ。でも、話をされている内に優先順位が整理できたみたいだったの。ねえ、キリル、このたまごサンド、すごく美味しくできたの。食べてみて」
「ありがとう。……うん、すごく美味しいよ。ライラはいつも、最後までじっくり聞いてくれるから、みんな安心して心を開くんだろうね」
キリルは優しい微笑みを浮かべ、ライラの頭を撫でた。
「私はただ、みんなが自分の心と向き合うお手伝いをしているだけよ。アドバイスなんてできるほど、できた人ではないもの。でも、そう言ってもらえると嬉しいわ。……キリルこそ、昨日もクラスの男子たちの喧嘩を、うまく収めたんでしょう?」
「双方の言い分をしっかり聞いて、お互いが納得する着地点を探しただけだよ。二人とも、根は悪いやつじゃないからね」
二人の間に流れる空気は、穏やかな小川の水面のように静かで、波立つことがない。お互いを深く理解し、高望みをせず、日々の小さな幸福を慈しみ合う。ライラにとってもキリルにとっても、この関係こそが揺るぎない日常であり、かけがえのない宝物だった。
「キリルといると、本当に心が落ち着くわ」
「僕もだよ、ライラ。早く卒業して、小さな家で静かに暮らしたいね」
二人は微笑み合い、静かに手を重ねた。
◇
一方、ヴァルフリートには公爵令嬢メルティール・フォン・ローゼンベルクという婚約者がいた。
メルティールは、誰もが息をのむほどの美しい銀髪と、凛とした紫水晶の瞳を持つ絶世の美女であった。頭脳明晰で学術の誉れ高く、社交界での立ち振る舞いも完璧。包容力があり、気品に満ち溢れた彼女は、「未来の王妃としてこれ以上の人物はいない」と満場一致で称賛されていた。
この日も、生徒会室でメルティールは山のような書類を完璧に処理していた。
「ヴァルフリート様、こちらの来月の式典に関する予算案ですが、精査が終わりました。学園側の要望も取り入れつつ、領民への負担を最小限に抑える形に修正してあります」
「……あ、ああ。ありがとう、メルティール。いつも完璧な仕事をさせてしまって、申し訳ない」
ヴァルフリートは疲れの滲む顔で書類を受け取った。
「申し訳ないだなんて、とんでもございません。私はあなたの婚約者であり、将来の王妃となる身です。ヴァルフリート様のお力になるのは当然の務めですわ」
メルティールは凛とした笑みを浮かべる。その表情には一切の隙がなく、あまりにも完璧だった。
(メルティールはこんなにも優秀で、弱音一つ吐かずに努力している……。それなのに、王太子である私が『疲れた』だの『苦しい』だのと弱音を吐けるはずがない。そんな情けない姿を見せたら、頑張ってくれている彼女に申し訳なさすぎる……)
ヴァルフリートは胸の内でそう思い、固く口を閉ざした。
実は、二人の関係がギクシャクし始めたのは、ここ数年のことだった。幼い頃はもっと無邪気に笑い合い、何でも話し合えていたはずなのに、成長し、周囲から「理想の王太子と王太子妃」としての完璧さを求められるにつれ、ヴァルフリートはメルティールに心の内を明かせなくなっていったのだ。
優秀すぎる婚約者の隣に立つプレッシャー。
それが、ヴァルフリートをますます孤独へと追いやっていた。
「…それでは、せっかく精査してくれた予算案だ。早速先生に提出してくるよ」
「一緒に行きますわ」
「いや、提出するだけだ。私一人でも大丈夫さ。目を酷使しただろう?休んでいてくれ」
そう言って、ヴァルフリートが去った後、生徒会室に残されたメルティールは、深く静かなため息をついた。
(ヴァルフリート様……最近、また少しお痩せになったかしら。お顔色も優れないわ……)
メルティールは、繊細な指先で胸元をギュッと握りしめた。
実は、メルティールもまた、限界ギリギリまで無理を重ねていたのだ。
彼女にとってヴァルフリートは、単なる政治的な婚約相手ではなかった。幼い頃からずっと尊敬し、誰よりも誇りに思い、心から愛している男性だった。王太子という過酷な立場に立ち、国の未来のために必死で奮闘する彼の姿を、メルティールは誰よりも近くで見つめてきた。
(ヴァルフリート様は、本当に素晴らしく優秀な方。王太子として完璧であろうと、日々どれほどの努力をなさっているか……。だからこそ、その隣に立つ私が完璧でなければ、ヴァルフリート様のお顔を潰してしまう。私がもっとしっかりして、少しでも背負われている重荷を減らさなければ……!)
メルティールは「ヴァルフリートのために」完璧であろうと努力し続けていた。しかし、その張りつめた完璧さが、結果としてヴァルフリートに「情けない姿を見せられない」という更なる圧迫感を与えていることには、彼女自身も気づいていなかったのである。
◇
すれ違う二人の想いが破綻をきたすまでに、時間はかからなかった。
メルティールは、時折ヴァルフリートの視線が誰かを探していることを、目ざとく察知していた。
学園の回廊で、庭園で、ヴァルフリートの碧眼が切なさを含んで追っているのは、いつも同じ少女——男爵令嬢ライラ・レーベンであった。
(ヴァルフリート様がまた……あの方を、ご覧になっている……)
メルティールの胸に、刺すような痛みが走る。
メルティールはライラという少女について調べさせた。授業態度、生活態度ともに良好ではあるが、特に何かが優秀だとか才能があるというわけではない、しがない男爵家の令嬢。
しかし、どこかの派閥に属するでもないのにこれといった敵を作らず、誰とでも話をし、時折相談を受け、その誰もが晴れやかな顔で去っていくという。
ヴァルフリートがライラに向ける視線は、決して不純な欲情などではない。ただ助けを求めるような、心の拠り所を欲するような、痛々しいほど切ない眼差しだった。
(ヴァルフリート様は……私には見せないあのようなお顔を、あの令嬢に向けていらっしゃる。私は……私は、ヴァルフリート様を支えられていると思っていたのに。私は、お側にいながら、ヴァルフリート様の心を救えていなかったのだわ……)
メルティールは自室の鏡の前で、一人涙を流した。
凛とした公爵令嬢としての仮面が剥がれ落ち、ただの一人の恋する少女としての絶望が彼女を襲う。
(私は、ヴァルフリート様をお慕いしている。ヴァルフリート様の幸せこそが、私の願い。もし……もしヴァルフリート様のお心が私から離れ、あの令嬢の温もりを求めていらっしゃるのだとしたら……)
メルティールは唇を噛み締め、苦渋の決断を下した。
(私は、王太子妃。責務を果たさねばならない。ヴァルフリート様の心を安らげる存在が必要ならば……ライラ・レーベンを、側妃として王室に迎え入れよう)
それは、メルティールにとって身を切られるような決断だった。愛する人の隣に、別の女性を置くことを自ら画策するのだから。しかし、ヴァルフリートを愛するがゆえに、彼の心が壊れてしまうのを恐れたメルティールは悲痛な結論を出したのだった。
当然、このメルティールの動きはヴァルフリートには一切知らせない。今はまだそのときではない。メルティールは一人でその痛みを抱え込み、密かにライラを側妃に召し上げるための根回しを始めようとしていた。
◇
それがキリルとライラの知るところになったのは、ライラの父である男爵からの手紙だった。定期的な近況報告とは別の手紙。なんだろうと不思議に思いながら開いたライラが、側妃という文面に驚き、思い切り握って手紙の端をひしゃげさせてしまっても仕方がないことだった。今はまだ内々の段階だが、と前置きがあったようだが、父に打診が来たのは紛れもない事実なのだから。
「……ライラを、王太子殿下の側妃に?」
放課後、誰もいない図書室の奥で、キリルは珍しく眉をひそめ、真剣な面持ちでライラに向き合っていた。二人の間には件の手紙が置かれている。
「ええ。ローゼンベルク様が、そのように動こうとされているみたいなの」
ライラも困惑の表情を浮かべていた。ライラにとって、ヴァルフリートは遠い雲の上の存在であり、直接話をしたことすらほとんどない。なぜ自分が突然そのような話に巻き込まれているのか、本当に理解できなかった。だが、打診の手紙はどうやらメルティールの直筆のようで、それによればヴァルフリートはライラのことを目に留めているというではないか。メルティールからは端的ではあるものの、自分にはできなかった精神的な献身を望むと記載があったようだ。
「困ったな……。この話が進んだら、僕たちの婚約などあっという間になかったことにされてしまう。本当に困る」
キリルは静かな声で言った。今後どのように動くのか思考を巡らせているのだろう、その瞳に強い意志が宿っていた。
貴族社会の噂網というのは想像以上に早い。特に王室の側妃人事ともなれば、水面下で蠢く動きを完全に隠し通すことはできないだろう。今まではメルティールが優秀すぎて側妃なぞ、話すら出ていなかったはずだ。こんなことが表沙汰になれば、側妃の地位を狙う王室の権力争いに巻き込まれ、しがない男爵領など途端に吞み込まれてしまう。
「ええ、キリル。私も同じ気持ちよ。私はあなたと結婚して、穏やかな人生を送りたいの。王室に入って側妃になるなんて、私には務まらないわ、それに何より……私はキリルが好きだもの」
「ライラ……」
キリルはライラの手を優しく握り返した。
「指をくわえて待っているわけにはいかないね。ローゼンベルク嬢も、王太子殿下も、何か大きな誤解をされているのかもしれない。難しいが…、幸いここは学園だ。爵位で考えれば到底できないが、平等を謳うこの場所でなら、僕たちが直接お話しをしたいとお声がけしても不敬に処されることはないだろう」
「ええ、そうしましょう」
二人は頷き合い、それぞれの相手へと直談判に向かうことを決意した。
◇
放課後、ライラは一人、生徒会室で残業をしていたメルティールを訪ねた。
「失礼いたします、ローゼンベルク様。男爵令嬢ライラ・レーベンでございます。ご多用なところ、申し訳ございません」
扉を開けて入ってきたライラに対し、メルティールは一瞬だけ驚きの表情を浮かべたが、すぐに完璧な公爵令嬢の微笑みを貼り付けた。
「お入りなさい、レーベン男爵令嬢。……私に何かご用かしら?」
「突然の無礼をお許しください。ですが、どうしてもお伝えしたいことがあり、参りました。……私が、ヴァルハイト殿下の側妃に推挙されようとしているという話についてです」
メルティールの紫水晶の瞳が、僅かに揺れた。
「……聞いたのね。ええ、その通りよ。まだ正式な決定ではありませんが、この打診は正式に動くためのもの。私はあなたを殿下の側妃として迎えるべく、準備を進めたいの。もちろん、足りない爵位はしっかりとした受け入れ先を用意するわ。男爵では愛妾が限度だものね。こちらが無理を言うのだから、我がローゼンベルク公爵家が後ろ盾になって、あなたに肩身の狭い思いをさせないよう配慮いたします。あなたの生家も、現在婚約関係にあるハルシオ家にも相応の補償をお約束いたしましょう」
メルティールから流水のごとく言葉が紡がれる。それはどこか自分に言い聞かせるような、そしてこちらに口を挟ませないような静かな圧力があった。
ライラは静かに首を振った。
「ローゼンベルク様、大変勝手ながら、そのお話を辞退させていただきたいのです。私には、キリル・ハルシオという大切な婚約者がおります。私は彼との婚約を解消したくありませんし、王城に上がる意思もございません」
メルティールは静かに立ち上がり、窓辺へと歩いた。夕振りの光が、彼女の銀髪を寂しげに照らしている。
「……あなたのお気持ちは分かります。ですが、これは殿下の『お心』に関わる問題なのです。あの方は……ヴァルフリート様は、日々膨大な重圧と戦っていらっしゃる。そんな中で、最近、あなたをどれほど切実な目で見つめているか、あなたは知らないでしょう。あの方は決して私には言わなかった。けれど、言われなくとも動くこと、それも王太子妃となる者の務めです」
メルティールの声が、僅かに震えた。
「あの方以外、次期王となれる方はいない。けれど、私ではヴァルフリート様の心を救えなかった。私がいかに完璧に書類を処理し、政治的な補佐をしようとも、あの方の求めている安らぎを与えることはできなかった。……私は、ヴァルフリート様をお慕いしております。だからこそ、あの方の心が壊れてしまわぬよう、あなたを側に置きたいのです。殿下の心の拠り所として。あなたも貴族でしょう。国のため、貴族の務めと思い受け入れてほしいわ」
メルティールは、自分の胸を切り裂くような痛みを耐えながら、ライラに向き直った。その瞳には、溢れ出そうな涙が溜まっていた。
ライラは、そんなメルティールの姿を、黙って静かに見つめていた。
反論も、苦言も、懇願もせず、ただただメルティールの瞳をじっと見つめ、ライラは目を伏せた。
メルティールの心の叫びと、ヴァルフリートへの深い愛に思いを馳せ、まるで自分の悲しみであるかのように顔をくしゃりとさせる。
そして、一度深呼吸をすると、ライラはゆっくりと問いかけた。
「ローゼンベルク様。あなたは、ヴァルハイト殿下のことを、とても深く愛していらっしゃるのですね。……昔から、ずっとそうだったのですか?」
その温かい問いかけに、メルティールは一瞬息をのんだ。いつもなら「公爵令嬢として王太子妃教育を受けた者として当然です」と突き放すはずだった。しかし、ライラの包み込むような眼差しを前にして、メルティールの固く閉ざされていた心が、ほろりと解けていく。
「……ええ。ずっと...。あの方の隣にいたのだもの」
思わず込み上げるものがあったのだろう。メルティールの呼吸が一瞬呼大きくなる。
「けれど、幼い頃とは、もうあの方との関係性は変わってしまったわ」
ぽつりぽつり。吐露するようにメルティールは遠い思い出を語り始めた。
「幼い頃の私たちは、こんな風に息を詰まらせてはいなかった。ヴァルフリート様は昔からお優しくて、王太子妃教育を受ける前の、無作法な私が摘んだ名もなき野の花も『かわいいね』と言って笑ってくださった。私も、ヴァルフリート様が『将来は立派な国王になって、みんなを幸せにしたいんだ』と夢を語る姿を、ただ嬉しくて、大好きで……何時間でもお話しを聞いていたの」
メルティールの頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
「けれど、成長するにつれて……周りの期待もそれに付随する責任も大きくなっていった。『王太子の婚約者として恥ずかしくない存在になれ』よく言われたものだわ。ヴァルフリート様も、日々王太子としての重荷を背負れ、笑顔を失っていった。……だから私、決めたの。何があってもヴァルフリート様を支えようって。誰よりも勉強して、社交を覚えて、ヴァルフリート様の重荷を預けてもらえるような完璧な存在に!って……奮闘してきたの」
メルティールは手巾で涙を拭い、自嘲気味に笑った。
「なのに……頑張れば頑張るほど、ヴァルフリート様との距離が開いていってしまった。いつの間にか、幼い頃のように笑い合うことも、お互いのくだらない話を聞き合うこともできなくなっていたわ……」
ライラは静かにメルティールの元へ歩み寄り、その手にそっと自分の手を重ねた。
「ローゼンベルク様。あなたがどれほどヴァルハイト殿下を想い、努力されてきたか……今のお話を聞いて、痛いほど伝わってきました。あなたは、ご自分を責める必要なんて、どこにもありませんわ」
「…レーベン様…」
「ローゼンベルク様が今でも殿下を心から愛していて、幼い頃のように殿下のお話を聞きたいと願っていらっしゃるのなら……そのお気持ちを、どうして殿下に直接お伝えにならないのですか?」
ライラの真っ直ぐで優しい瞳が、メルティールを射抜く。
「殿下が真に求めていらっしゃるものが何なのか、私にはわかりません。ですが、ご自分の身を削ってまで殿下の幸せを願うローゼンベルク様のお心が、殿下に届いていないのだとしたら……それはあまりにも哀しいことだと思うのです」
メルティールは目を見張り、言葉を失った。
ライラは否定しない。メルティールが「側妃を迎えよう」と考えた酷な決断も、完璧であろうとして無理をしてきた生き方も、何一つ否定しなかった。ただ、メルティールの愛の深さを認め、彼女自身の願いに光を当ててくれたのだ。
◇
時を同じくして、学園の応接室では、キリルが王太子ヴァルフリートと対峙していた。
男爵家の令息が王太子に個人的な面会を求めるなど、通常ではあり得ないことだったが、キリルの持つ誠実で揺るぎない雰囲気に、ヴァルフリートも思わず部屋に通してしまったのだった。
「さて、ハルシオ男爵令息。私に急ぎの話とは何かな?」
ヴァルフリートは疲れを隠しながら、務めて穏やかに尋ねた。
キリルは深く一礼した後、真っ直ぐにヴァルフリートの碧眼を見つめた。
「殿下、単刀直入に申し上げます。私の婚約者であるライラ・レーベンを、側妃としてお迎えになるという話を白紙に戻していただきたいのです」
「……っ!?」
ヴァルフリートは絶句した。
「な、側妃……? 一体何を言っているのだ、私はそのような話は聞いていない!」
「殿下ご自身が出されたお話ではないことは承知しております。ですが現在、殿下の婚約者であられるローゼンベルク嬢が、ライラを側妃に迎えるべく水面下で動いておられます」
「メルティールが……!? なぜ、彼女がそのようなことを……!」
ヴァルフリートの頭の中が混乱で真っ白になった。
キリルは静かに語りかけた。
「殿下。ローゼンベルク嬢は、殿下が日々の重圧に苦しまれ、疲れ切っていらっしゃることを気にかけておられます。そして、殿下がライラを遠くから見つめ、憎からず思っているようだとも……」
ヴァルフリートの顔から血の気が引いた。
(見られていた……? メルティールに、私のあの見苦しい下心と執着を……!?)
「ローゼンベルク嬢は、殿下を深く愛しておられます。ライラへの打診には、殿下への精神的な献身を望むとありました。本来であれば自分がしたかったが自分にはできなかったからと」
キリルは続けた。
「だからこそ、ご自分の身が引き裂かれるような想いを抱えながらも、殿下の心を救うために、ライラを側妃にしようと決断されたのでしょう。殿下を安らげることができなかったと、ご自分を責めながら……」
「そんな……そんなバカな……!」
ヴァルフリートは頭を抱え、膝から崩れ落ちそうになった。
自分自身の不甲斐なさ、情けなさ。婚約者であるメルティールにどれほど酷い思いをさせていたのかを知り、胸が激しく締め付けられる。
「ヴァルハイト殿下」
キリルは静かに、しかし力強い声で言った。
「ライラは確かに素晴らしい女性です。人の話を批判せず、静かに耳を傾け、寄り添ってくれる。ですが、ライラが提供できる安らぎは、あくまで『第三者』としてのものです。本当に殿下の孤独を埋め、痛みを分かち合えるのは、殿下と同じ歩幅で歩み、殿下を愛している方だけではないでしょうか」
キリルの言葉が、ヴァルフリートの胸の奥深くに突き刺さった。
「今の名声を鑑みれば、ローゼンベルク嬢は完璧な王太子妃として殿下を支えようと、血の滲むような努力をされてきたはず。それは殿下に誇らしい自分を見せたいからであり、殿下のお役に立ちたいからではないのですか?……殿下、殿下とローゼンベルク嬢は幼少のみぎりより仲睦まじかったと聞いております。貴族の末端である私のところまで届くのです。真実なのでしょう?幼い頃は屈託なくお話をされていたはず、あなたはローゼンベルク嬢と、最後に腹を割ってお話しされたのは、いつですか?」
「幼い……頃……?」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァルフリートの脳裏に、すっかり忘れていた記憶の破片が鮮烈に蘇ってきた。
◇
幼い頃の風景。
王宮の庭園で、まだ小さかったメルティールが、泥でスカートを汚しながら野の花を摘み、走ってくる姿。
『ヴァルフリート様! 見てください、とっても綺麗な花が咲いていたのです!』
少女だったメルティールは、輝くような笑顔でそう言い、ヴァルフリートの言葉に目を輝かせて耳を傾けていた。
ヴァルフリートが『僕、大きくなったら立派な国王になるんだ。みんなが笑って暮らせる国を作るんだ』と拙い夢を語ると、メルティールは胸の前で手を組み、優しい、どこまでも愛おしそうな眼差しで自分の話を聞いてくれていたのだ。
——『まあ、素敵ですわヴァルフリート様! 私はずっと、ヴァルフリート様の一番近くで応援しておりますね』
(あぁ……そうだ……)
ヴァルフリートはハッと目を見開いた。
自分がライラの「話を聞いて寄り添ってくれる姿」に心を惹かれた理由。
それは、ライラそのものを愛していたからではない。
ライラの持つその温かな雰囲気に……かつて自分を優しい眼差しで見つめ、嬉しそうに自分の話を聞いてくれていた、幼い頃のメルティールの面影を重ね合わせていただけだったのだ。
自分が重圧から逃げ出し、メルティールに弱音を見せるのを恐れて心を閉ざしてしまったから。
メルティールが自分に追いつこうと必死で背伸びをして、完璧な仮面を被るようになってしまったから。
二人の間にある溝を作ったのは、他の誰でもない、自分自身の弱さだったのだ。
メルティールは昔も今も、変わらず自分を愛してくれていた。自分が「完璧な王太子」であろうとする陰で、彼女もまた「完璧な王太子妃」であろうと、一人で血を流しながら戦ってくれていたのだ。
「私……私は……何という愚かなことを……!」
ヴァルフリートの目から、溢れ出る涙が止まらなくなった。
本当に愛していたのは、最初からずっと、メルティールだったのだ。
◇
「ハルシオ男爵令息……感謝する!」
ヴァルフリートは叫ぶように言うと、応接室を飛び出した。目指すは生徒会室。今すぐにでも、彼女に会わなければならなかった。
廊下をなりふり構わず走り抜け、生徒会室の扉を激しく叩き開ける。
「メルティール!!」
そこには、ライラと向き合っていたメルティールがいた。驚きに目を見開くメルティールのもとへ、ヴァルフリートは一直線に駆け寄り、彼女の華奢な身体を強く抱きしめた。
「ヴァ、ヴァルフリート様……!? 一体どうされたのですか、このような場所で……」
突然のことに混乱するメルティールを、ヴァルフリートはさらに強く抱きしめた。その肩が、激しく震えている。
「すまない……すまない、メルティール……! 私はなんて愚かで、情けない男なんだ……!」
「殿下……?」
「ハルシオ男爵令息から全て聞いた。お前が私のために、どれほどの想いでレーベン嬢を側妃に迎えようとしていたか……! お前にそこまでの酷い想いをさせていたなんて、私は……私は王太子としても、男としても失格だ!」
ヴァルフリートはメルティールの身体を離し、彼女の両肩を掴んだ。その美しい顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、かつての「理想の王子様」の完璧な面影などどこにもなかった。
だが、メルティールにとって、それは何年ぶりかに見る「生のヴァルフリート」の姿だった。
「メルティール、私は間違っていた。お前が優秀すぎるからと、情けない姿を見せまいと勝手に壁を作り、一人で重圧に押し潰されそうになっていた……。そして、お前が陰でどれほど努力し、私を支えてくれていたのかにも目を背け、愚かにも他の女性に安らぎを求めてしまったんだ……!」
ヴァルフリートは溢れる涙を拭おうともせず、胸の内を全て吐き出した。
「だが、気づいたんだ! 私が求めていた安らぎは、昔のお前が私に向けてくれていた、あの優しい眼差しだったんだ! 私は……私はレーベン嬢に、かつてのお前の面影を見ていただけだった! 本当に愛しているのは、昔も今も、これからもお前だけなんだ、メルティール!」
「ヴァルフリート……様……」
メルティールの紫水晶の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「お前を傷つけて本当にすまなかった……! もう二度と、一人で抱え込んだりしない。弱音も吐くし、情けない姿も見せる。だから……お願いだ、私を見捨てないでくれ。私と共に歩んでほしい……!」
情けなく自分に乞う王太子の姿。しかし、メルティールがずっと望んでいたのは、まさにこの「完璧ではない、自分だけに弱さを見せてくれるヴァルフリート」だった。
「……バカな方……」
メルティールは涙で顔をくしゃくしゃにしながら、ヴァルフリートの胸に飛び込んだ。
「バカな方ですわ、ヴァルフリート様……! 勝手に壁を作って…!私…、私では役不足なのかと……ただ、あなたのお隣に立つにふさわしい人間になりたかっただけなのに……! 私も、勝手に思い詰めて、情けない姿ばかりお見せして、ごめんなさい……!」
「メルティール……!」
二人はお互いを強く抱きしめ合い、声を上げて泣いた。
長年積み重なっていた誤解とすれ違いが、涙と共に溶けていく。完璧であることを強要された重圧の檻から、二人はようやく抜け出すことができたのだ。
その光景を、部屋の入口近くで静かに見守っていたライラは、心からの温かな微笑みを浮かべた。
「よかった……」
ライラは静かに足音を忍ばせ、感動的な再会を果たしている二人の邪魔をしないよう、そっと生徒会室を抜け出した。
◇
廊下に出ると、そこにはキリルが待っていた。
「ライラ」
「キリル……」
二人は顔を見合わせ、同時にふっと息を抜いた。
「うまくいったみたいだね」
「ええ。殿下とローゼンベルク様、本当の胸の内を話し合えたわ。もう大丈夫よ」
ライラが微笑むと、キリルも優しく微笑み返し、ライラの小指に自分の小指を絡めた。
「これで、僕たちの婚約も無事だね」
「ええ。私、本当に安心したわ。だって……キリルと離れるなんて、絶対に嫌だったもの」
「僕もだよ、ライラ。君が誰かの背中を撫でて寄り添う姿はとても素敵だけど、その手が僕以外のところへ行ってしまうのは、本当は少し寂しかったんだ」
キリルの珍しい独占欲に、ライラはパッと頬を染めた。
「まあ……キリルったら」
「ふふ、本当のことだよ。さあ、帰ろうか。今日はお祝いに、美味しい紅茶を入れよう」
「ええ、楽しみだわ」
夕暮れ時の学園の回廊を、二人は仲良く手を繋いで歩いていく。
王太子と公爵令嬢のような華々しさも、劇的なドラマ性もない。だがそこには、静かで、穏やかで、誰にも壊すことのできない確かな幸せが存在していた。
側妃の話は完全に立ち消えとなり、ヴァルフリートとメルティールは互いの弱さを認め合える最高のパートナーとして、新たな歩みを始めた。
そしてライラとキリルは、これからも変わらず、お互いの静かな会話に耳を傾けながら、つつましくも幸福な未来へと続いていく道を、二人揃って歩んでいくのであった。




