26.均衡の話
――翌日。
重厚な扉が閉まると同時に、外の喧騒が嘘のように遮断された場所こそが――文化財保管局。
机越しに向かい合う男性は、柔らかな口調とは裏腹に、こちらを値踏みするような視線を隠そうともしません。
「マゼル公爵家のご子息が、こちらに何のご用件で?」
「エリアス・フェルメールについて、少し確認したいことがあってね」
リヒト様はいつも通り穏やかに微笑みながら、私の指先を僅かに包み込んでいます。
「……どのような内容でしょう」
「この国に存在する作品の数と、その所在だ。無論、真作の話をしている」
一瞬、目元がピクリと動いたのを、見逃しはしません。その仕草が、恐れを含むようで、少しばかり呼吸がしづらい……。
「……それは、一般には公開していない情報です」
「承知の上だよ。だからこうして、直接来ている」
相手は、公爵家。観念したように小さく息を吐いた。
「……エリアス・フェルメールの真作は、この世界に二十三点のみ存在します」
「二十三……」
思っていたよりも、ずっと少ない数字です。
「その全てが登録され、王都および各領に分散して管理されています。配置にも意味があり、無作為ではありません」
「意味、とは?」
「――簡単に言えば、安定です」
少し口調が穏やかになりつつある男性が、数枚の資料を広げました。
「真作は、見る者の感情や精神に微細な影響を与えるとされています。過度な興奮や混乱を抑え、均す……いえ、整える役割を担っているのです」
「もし仮に、その均衡が崩れれば――」
「人心は乱れます。争いが増え、疑心が広がる。小さな歪みが、やがて国全体へと波及するでしょう」
……それを聞いたリヒト様は、何か思い出すように口元に手を置きました。忙しくされる日々の中に、思い当たる節が……あるのかもしれません。
「もう一つ聞こう」
「何でしょうか」
「現在、市場に出回っているフェルメールの数は?」
「……記録上の真作を、大きく上回っています」
「贋作、か」
「通常の贋作であれば、ここまで問題にはなりません。しかし――」
言葉を選ぶような、少しの間。
するとそこへ、ノックの音と共に、別の男性が入ってきました。朗らかそうな笑みは、部屋の空気を少しだけ変えてくれるような、不思議な方です。
「遅れてごめん」
「いや、来てくれて良かった。エマ、こちらは僕の学友でシリウス」
「シリウスです。初めまして」
失礼とは分かりながら、リヒト様に手を握られたまま挨拶を交わす。微笑みの奥で、何かを鑑定するような熱のある瞳……。
「後は、僕が引き受けるから。君は自分の仕事に戻って良い」
「……ありがとうございます」
ジッとこちらを見た男性は、「またお会いしましょう」と外に出た。
「話の内容は、察するにフェルメールの件かな」
「そうだ。贋作が出回ってると知って、事情を聞きに来た」
「それは……また、通な情報をお持ちのようだ。ところで、貴女は……ギフト持ち、だよね」
私……のこと、ですよね。
「ギフト持ちが二人も揃って、今回の件に辿り着いた理由を知りたいね」
「その前に、一つ聞きたい。真贋を感覚で見抜くギフトについて、記録はあるか?」
目を見開いて、フッと薄く笑うシリウス様が「なるほど」と口にしました。
「ごく稀に。ただ――確認された者は、例外なく記録から消えてるんだ」
「……理由は?」
「不明だ。何せ、希少性の高い稀なギフトだから。ただ一つ言えるのは……その力が、都合の悪いギフト、だということに違いないね」
その視線が、私に向けられる理由――
"ある種の人間には毒になる。一人で身を守れないうちはギフトを隠すことを勧めるよ"
館長の言葉が、ふと蘇ります。
一人じゃない今なら、このギフトを隠さずとも良い――そう言われてる気がして。
「私の存在は、彼らにとって都合が悪い、のですね。……思想を壊す存在、ということでしょう」
「エマ……!」
「良いのです。シリウス様は、既に認識されていますから」
頭を下げたシリウス様が、胸に手を当てた。
「今世で、貴女のような方にお会いできて、とても光栄です」
「いえ、私は……」
「こう言っては何だが、差し迫った危機にこそ現れる存在だと思っているのです。それを人は、運命と呼ぶのではないかと」
「運命……」
握る手が、強くなったのは、リヒト様が私のことを思って……ですよね。
「贋作が増え続けた場合……真作の影響はどうなる?」
「……弱まる。正確には、“埋もれる”かな。本来の働きが、発揮されなくなる可能性が高くて、今調査に当たってる」
私が美術館で聞こえた声、そのものの表現です。力が弱まれば、声も弱くなる……。
やはり、あの感覚は間違いじゃなかったんですね。
「……副局長として、忠告しておきます。今、君たちが触れているのは、単なる贋作の問題ではありません。国家規模で秘匿されてきた均衡の話。これ以上深入りすれば、命の保障はありませんよ。特に――大切な人なら、尚更ね」
その言葉が落ちた瞬間、リヒト様の手が強く私を引き寄せた。
「……エマには、絶対に指一本触れさせない」
低く、押し殺したような声。
……それが恐れではなく、怒りだと分かるのに、そう時間は掛かりませんでした。




