18.香りと嫉妬
「――もう部屋に戻ってくれ」
髪を乾かしてもらい、立ち上がった後……視界が滲んで間も無く、リヒト様から言われた……一言。
突き放された肩に残る痛みに、驚きもしましたが……それよりも何かに耐えるような、我慢するリヒト様をこのまま残して部屋を出て良いのか分からないのです。
今日は二人で街へ出て、リーゼル様に少し戸惑い、グート様に困惑し、リヒト様の浴室で入浴する、とんでもない一日でした。
けれど、どれをとっても優しさで溢れていたのは間違いなくて、お側にいれる感謝と安心が私を包んでる。
……今日、だけじゃありません。
リヒト様の言葉は、いつだって優しさで溢れてたのを私は知っています。好きだと言ってくれたリヒト様が、こうして突き放す理由を、私は知らなきゃいけない。
突き放されたからこそ、気付いた自分の感情がある……から。
――出ていけません
メモを見たリヒト様に強く抱きしめられた後、恐る恐る私の頬に手を伸ばして「ごめん」と仰いました。
「教えてください……私、なにか気に触ることを――」
「違う! そうじゃなくて……一緒にいたいのに、出来ないって言うか、格好悪い自分にはなりたくないって言うか……」
「……どうして、私なんですか?」
そんなことを聞いて、どうするんでしょう。
聞いたところで、相手は次期公爵。
「好きだ」と言ってくださるリヒト様に、応える資格……私なんかにないって初めから分かってるんです。分かってるのに、聞いてしまう自分もどうかしてるんですけど。
「初めてエマを見つけた日、本当に疲労がピークだったんだ。休むしか方法がなかった僕に、気力が回復出来る場所を見つけられた気がしたんだ。だからいつも厨房の前に座ってた」
「もしかして、厨房を見てたのって……」
あの時感じた視線は、リヒト様だったのですね。
「ごめん。でも、君を見るにはそれしかなくて。声をハンデともしない動き、先を読む感覚、あっという間に覚える記憶力、本当に驚いたよ。だから自分の目に届く場所に来てほしくて、メイド長の采配がとても嬉しかった」
「リヒト様……」
「……でも今度は目に入るのに、手に届かない距離に焦ったくなってしまってね。数多いるメイドの中で、エマだけが全ての動きに意味を持ってるように見えた」
穏やかに微笑む様子に、胸がキュッと痛くなる。
意味を持って働いても、気付かれることって少ないと思うのです。でも、リヒト様は気付いてくれてた。
「ハンデがある人間とは思えないなって思ったら、目が離せなくなって、誰にも取られたくないなって……そんな風に思ったのは生まれて初めてだった。使用人としてのエマが、僕の一番近くに来るならそれは専属のメイドだと思ったし、本人の意思も尊重しない自分勝手な異動になってしまって、本当に申し訳なかったと思うけど――」
「だから倍、なんですか?」
「倍?」
「レジスタン様が、リヒト様の専属メイドになるなら給金が倍になると……てっきり激務で過酷な倍かと」
「ははっ、それは知らなかった。いや、どんな方法でも良いからって言ったからだろう。主人に愛でられる倍、だ」
「め……愛でられるって……」
主人とメイドの分際で、許されないって分かってます。
だけど、満たされる感覚が理性を溶かしていく。今まで抱いてこなかった温かい感情に名前を付けるなら、何になるかくらい本当は分かってるんです。
この時の私は、同じ香りを纏ったメイドが、周りからどう言われるかなんて……考えもしませんでした。
***
吐息交じりの声を意識しながら、「逃げないで」と、エマに囁いた。
「明日から泊まりで会議ですよね、早く休まないと。わ、私はこちらで帰りを待ちますから。それに、もう……心臓が――」
「心臓が、何?」
ちょっと意地悪かもしれない。
だって、エマが何を言いたいか分かっての問いかけだから。
「ち……近いです……」
「……離れたくない」
「聞こえて、ます?」
「このまま一緒に寝よう?」
「寝るわけありません!」
「じゃあ、名前で呼んで。そしたら離してあげる」
「いつも、リヒト様と名前で呼んでます」
「様なんて、いらない」
「……っ」
「ん? 主人の命令が聞けない?」
「ズ、ズルいです」
強制はしたくない。けど、やっぱり名前で呼ばれたい。
エマだけの特別だと、感じて欲しいから。
「エマ」
「……リヒト」
「よく出来ました。最後にこれだけっ、んっ」
前髪を少し上げて、額にキスをした。
目を丸くして真っ赤になる姿を見てたら、やっぱり離れがたくて、思い切り抱き締めてしまった。
「明日から、暫く寂しくなるね」
「そんな事……ない、とはもう言えないかもしれません」
「うん、知ってる。領地の手伝い、頑張ってね」
「はい。リヒト様がお帰りになられる時までには必ず帰ります」
「リヒト」
「……リヒトが――とにかく、お仕事頑張って下さい」
はぁ……堪らなく満たされる。
エマ、本当に君なしで生きてきた時間が、嘘のようだ。




