17.同じ香り
いつも通り湯船に浸かるリヒト様が、あの方に同意していないのだけは分かります。少なくとも、ここに居て良いよって、背中で言ってくれてる気がする……。
私は、与えられた仕事を全うしたい。
リヒト様の髪に馴染む新しい洗髪剤も、少し目線の高い所にある羊の置物も、ここにある何もかもが私の安らぎになっているのが分かるくらい、心が満たされるのです。
それを与えて下さるリヒト様の役に立ちたい……!
「ここで働く者たちは、濡れても良い服を持ち合わせているの? いつも着替えてるよね?」
「水仕事用のお仕着せがあります。今、私が着ているのもそうですが」
「それは丁度良い」
「え? わわっ……リヒト様!?」
湯船から立ち上がったリヒト様が、バスローブを羽織り、なぜか私を横抱きに抱えるのです。そして、わざと湯船に下ろしたではありませんか!
「リヒト様っ、なにをされるのですか!」
「いつも気持ちよく洗ってくれる礼がしたいんだ。だから今日はエマの頭を僕が洗う。頭をリラックスして」
「そ、そんな……」
水仕事用のお仕着せとは言え、服を着たまま湯船に入るなんて……。驚きと恥ずかしさで顔が真っ赤になった私に「エマの選んだ香りを堪能するのも悪くないだろ?」と、ヘッドレストをポンポン叩いてイタズラっ子みたいです。こちらの焦りなんて梅雨知らずのリヒト様は、頭を置くまで諦めてくれなさそう。
仕方なく頭を下ろした私に「下手くそだったらごめん」と言ってお湯を流し始めました……。
***
いつも、エマがしてくれる真似なら出来る自信がある。
指の腹で丁寧に泡立てれば、先程まで自分を包んでいた優しい香りが、エマにも広がるようで何だかくすぐったい。
それに初めて触れる柔らかなエマの髪は、いつまでも触っていたくなるほど触り心地が良い。これは……癖になりそうだ。
「どう? 気持ちよく出来てる?」
「……はい、あの……」
「ん?」
「リヒト様のような美しい髪ではないので、恥ずかしくて。ですが、いつも気持ち良いと言って下さる理由がよく分かります」
「それは良かった。エマ……変なこと聞いても良い?」
「はい?」
「元婚約者殿のこと、好きだった?」
「『はい』か『いいえ』で答えるなら、いいえです。幼心に親しさはありましたが、価値観の違いや色んな相違で私から婚約の解消を願い出ました。実家を助けることが、私のここで働く理由ですから」
気を許したら、すぐ顔が緩んでしまう。
「ご両親や領地のため、それはなかなか出来ることじゃない。僕は、エマをとても尊敬しているよ」
「勿体ないお言葉です。私には、この道しかありませんでした。仕事に出ることでしか実家を助けられないと、悩んだことも確かにあります。ですが、こうして雇って下さった御恩は一生掛けてお返ししたいです」
「エマの仕事ぶりに文句を言う奴が居たとすれば、この公爵家には不要な人間だと断言できる。そんな君を、僕は手放そうと思わないし、出来るならそばにいてほしい。エマのことは全面的に信用してるし、だからって訳じゃないけど僕のことも信じて欲しい」
どうか、伝わってくれ。
「僕は、リーゼルと婚約しない」
「ですが今日――」
「エマと同じように、幼心に親しさはあったが恋心ではない。今まで異性として意識したことも無いし、この先もない」
「…………」
「洗い流すから念の為、目を閉じて」
そっと瞳を閉じたエマの顔。
優しく顔にお湯がかからないよう慎重に泡を流し、迫り来る終わりを惜しむようにエマの髪に触れた。
もっと触れていたい。もっと話したい。そんな欲ばかりが溢れ出てくるんだ……。
「洗い終わったよ、無理に入れて悪かったね。僕は先に出るからきちんと入浴して上がっておいで」
「宜しいのですか?」
「当たり前だろ、と言いたいけど代わりに一つだけお願いしたい」
「何でしょうか」
「その髪を乾かす役目を、僕に頂戴」
意外な願いだったんだろうか、一瞬目を瞬かせたエマは、クスっと笑いながらも了承してくれた。
浴室から出て支度をする間、少し強引だった自分の行動を反省した。意識して欲しいと願う余り……呆れられただろうか。
もうこれ以上は、抑えよう。
そう自分に言い聞かせていると、濡れた髪をタオルで拭うエマが戻って来た。
「エマ、おいで」
渋々ドレッサーの前に腰掛け、なかなか鏡に映る自分に目線を持ってこれず下を向いたまま。風呂上がりの艶っぽい姿で恥じらいを見せる君を、どれだけ見つめたって目は合わない。
「エマの髪はずっと触っていたくなるね」
「そ、それはリヒト様の髪です……」
「私はエマの髪を触っていたい。今も、これからも――どういう意味か伝わる?」
「……それは」
ついさっき、抑えようと決めたはずなのに。
「君が好きだ、エマ」
「リヒト様、私はっ」
「メイドと言いたいんだろう? でも、君も立派な貴族の令嬢だ。僕は初めてエマが邸に来た日からずっと……ずっと心を奪われてるんだ」
「……っ、」
「出来るならエマを妻に迎え入れたい。領地のことも僕が共に支えてあげられる。どうか、エマに溺れた憐れな男を救ってくれないだろうか」
「身の丈に合いません……」
「そう? 僕の専属メイドが務まるほど長けたマナーや、領地経営に必要な知識も、人望も、そのどれもが魅力的だ。誰にも渡したくない……誰にも触れさせたくない……これが君を専属にした理由だよ」
恥じらいに俯くエマが、必死にこちらを見ようとする微妙な上目遣いが、また鼓動を早める。
「返事は今じゃなくて良いんだ。僕が好みでないなら、その時は仕方なく諦める努力をしなくてはいけないけど、少しでも異性として意識して欲しい。だからといって無理に風呂に入れたのは本当……ごめん。でも、後悔はしてない。君の髪に触れるのも、この空間にいてくれるのも全部、エマが良いって知って欲しい」
「……ありがとうございます」
同じ香りを纏って、こんなに近くにいるのに。
「終わったよ」と告げれば、いつものように「お休みなさい」だ。エマから望んで欲しい、僕から離れたくないと……望んで欲しい!
「……あっ……リヒト様……」
しまった、そう思った時にはもう遅かった。
「エマ、待ってっ」
混濁した瞳はギフトによるもの。
あまりに強く念じた僕の欲が、視線支配によって暗示が掛かったのは一目瞭然だった。あまりに力強く掴まれた襟口、どんどん近付くエマの顔。いっそ、このまま僕に支配されたエマに口付けされたら――
だけど、僕はすぐに肩を掴んで離した。
――解けろ
「今日は遅くまですまなかった。もう部屋に戻ってくれ」
まるで突き放すような言い方しか出来なかったのは、そうじゃないと僕の理性が限界だったから。
本当は、ここにいて欲しい。強く抱きしめて、もっと君が好きだと伝えたいのに。
いっそ、口付けを……なんて一瞬でも思った自分を恥じた。そんな形でエマを手に入れたいわけじゃない。互いを慈しむ唯一無二になりたいのに、これじゃエマに思われる資格なんて……。
――出ていけません
震える手で差し出された走り書きの紙には、そう記されていた。見上げるその姿に、僕は何も考えず、強く抱きしめてしまった――




