16.赤の他人
振り返らず遠ざかるエマを追いかけようと、リーゼルを突き放した。
「リーゼル……さっき話したことが全てだ」
「リヒトのお父さんは違ったわよ? 二ヶ月後、リヒトのお誕生日までに相手が決まらなかった時は、私と婚約すると約束してくれたわ」
「……そうか。ならば、二ヶ月はどうか放っておいてくれ。父さんの言葉を真に受けるなら、誕生日に決着を付けよう」
「どうしてそんな冷たいこと言うの? 私はこんなに貴方が好きなのに、リヒトはちっとも応えてくれない……ねぇ、愛がある結婚がしたいんでしょう? それなら私にも努力させてよ」
「努力ね……努力してるよ、僕は僕なりの努力をね。それじゃ」
「ちょっ、待ってよリヒト! 話を」
「必要ない」
美しく着飾ったエマを一人にしてしまった。
もし途中で変な男に止められていたら? どこか連れて行かれてしまったら……大きくなる不安を抱えて、急いで馬車に戻った。
「エマ、ごめん!」
勢いよく扉を開けたそこには荷物だけが積まれていて、御者にエマのことを聞いても「戻ってません」と。歩いて帰ったのだとしたら、早く追いつかなくては。
「急いで邸へ戻ってくれ」
どう謝罪しよう。
リーゼルとは何でもないと必死に説明して信じてもらえるだろうか。とにかく分かってもらうまで話すしかない、なんて思ってた僕の目の前にまた問題が立ちはだかった。
到着した自邸の玄関前には知らない馬車が停まり、エマに来客だと言う。しかもレジスタン曰く、男性と言うから急いで客間の扉に手を掛けかけた。
『君は僕の婚約者だろう! 下働きの様な真似は辞めて、俺と帰るんだ』
中から聞こえた『婚約者』の響きに、心臓が跳ねた。
僕やトルナードが婚約者の打診をしても、快諾してくれなかったのは婚約者がいたから……なのだろうか。それにしても随分威勢のいい話し声に違和感を抱き、多少なりエマが心配になったのは余計なお世話だろうか。僕もリーゼルに対してキツい物言いだったかもしれないが、婚約者に対して怒鳴り声を上げると言うのは……。
だが、今はどんな現実も受け止めなければいけない。
覚悟を決めて、ドアを叩いた。
振り返ったエマの何とも不安そうな顔に、心臓をギュッと握られたような切ない気持ちになる。
直接話したいこともあるだろう、そう思って婚約者殿には悪いが接触出来る距離に座らせてもらった。
「大丈夫」
突いて出た言葉に深い意味なんてない。
とにかくエマの表情がいつもの穏やかなものになって欲しかった。
『エマは他人の甘い蜜をすぐ吸おうとするんですよ。ここだってどうせ給金が良いから働かせてもらってるたけで、別に彼女が自分の領地で努力すれば良い』
『何故我が家が稼いだ金を他家に渡さなきゃならないんでしょうか? 慈善事業じゃあるまいし』
『甘えたら甘えただけつけ上がるんですよ、女って。リヒト殿も気をつけた方が良いですよ? こういう教育は最初が肝心ですから』
さっきから目の前の男は、誰の話をしてるんだ?
エマが甘い蜜を吸う? つけ上がる?
トドメが、まさか――
『元婚約者の貴方が振る舞う言動ではございません。婚約は両家の同意の下、破談されております』
世の中、すごい男がいたもんだ。
いや、今は感心してる場合じゃないか。
経緯はどうあれ、僕の目に映ってきたエマが全てで、目の前のエマが全てだ。
扉の前で『婚約者』と聞いた時の絶望感は、もうない。
「さて、元婚約者殿。君はエマを愛しているのか?」
「無論、私の婚約者はエマだけですから。リヒト殿に、エマと呼ばれるのが腹立つくらいにね」
「奇遇だな、私もだよ」
「ふ、ふざけるな。赤の他人であるリヒト殿に、そんなこと言われる筋合いなどないでしょう!」
「赤の他人か。共に出掛け、共に暮らす僕らなら、少なくとも貴方より赤の他人度は低そうだ」
「エマは、一体ここで何の仕事をしているんですか」
「彼女は私の専属メイドだ。私の全てを把握している。こう言うとあれだな、もはや赤の他人は貴方一人のようだ」
「なっ……!?」
「せっかくエマを笑顔にしたくて外出したんだ。曇らせるようなら容赦しない。エマの仕事の丁寧さ、誠実さ、全てがここには必要であり、それが実家を助けていると分からないような奴に、エマを譲るつもりは無い。それが愛だと言うなら、私には理解出来ないからね。さぁ、お帰り願おうか」
偉そうに説くけど、エマを笑顔にしたくて……エマに少しでも僕を見て欲しくて外出したのに、結局曇らせたのは僕も一緒だ。だからと言って、こんな奴に譲る気なんて毛頭無いけどね。
……が、少々ムキになってしまった自分も、なかなかに恥ずかしい。
「きょ、今日の所はこれで失礼します! だけど俺は諦めない、エマは俺のものだ! クソッ……」
立ち上がり、威勢よく出て行った元婚約……いや、元が付いても婚約者の響きだけで苛つくからグート殿にしておこう。扉の向こうに控える誰かが、見送りぐらいするだろう。
エマは、きっと一人思い悩むはずだ。
酷い言葉でも、あの男の言う通りかもしれないと。
忙しなく動くエマを見つけた。
呼び止めるべきか迷った末に、思わずその腕を取ってしまった。
一瞬僕を見た後、ほとんど目を合わす事はない。だけど、今はそれが都合良い。目が合えば僕の欲望がエマに伝わってしまうと思うから……抑えられる自信がないんだ。
「今日は一人で帰したりして、ごめん」
「き、気にしてません」
「エマ、僕は気にして欲しくて言ってるんだよ」
「……婚約されるリーゼル様との邪魔は、したくありませんでしたので。それより、私事とは言え、お手を煩わせるような訪問があったこと、心よりお詫び致します」
「元婚約者が訪問するなんて、誰も予想出来ないだろう? もう通すことはないから、今後は気にしなくて良いよ。近付こうものなら容赦はしないけど、それともエマは会いたかった?」
「いえ……出来ることなら二度と会いたくありません」
きっぱり言い切るエマの気持ちに、ニヤけそうな顔を隠しきれているだろうか。
「今日買った物はどうした?」
「片付けは終えています。入浴剤も選べるように浴室に置いてますが……ご覧になりますか?」
「いや、さすがだなと思って。夕食後すぐに準備して」
湯気が立つバスタブと、並べられた入浴剤、そしてエマが可愛いと手に取った羊の置物。
いつもと同じ様に、湯船に入った私の背後からエマの手が伸びて優しく触れた。
……ふと、エマが笑った様な気がした。
「――笑った理由を教えて?」
「失礼しました。良い香りに良い手触りで、嬉しくて。それに、さっきの訪問でグート様が言った事を、もしリヒト様が肯定されていたら……こうした時間すら失っていたかと思うと、幸せだなと」
確かに、あの男が言っていた内容に同意していれば、領地に帰れと追い出していただろう。
予想通り、あんな戯言でもエマにとってみれば思い悩む種となってしまったわけだ。不安にならないはずもない。そんな不安を抱えても、いつも通りに仕事が出来ることを幸せだと言ってくれる。頭を洗われるこの体勢では、その笑顔を見れないけど……声色だけで分かる。
今日、出掛けた意味を見出したい。
変化を起こしたい、本気でそう思ってる。
幸せの矛先が、僕じゃなくてメイドそのものなんだろう。そうじゃない。エマの幸せが、どうか僕自身であってほしい。
少し強引かもしれない。
お願いだから、僕を意識してくれ。
「今度は、僕がエマの髪を流すよ」




