第91話:白と日常のあいだ
訓練棟の廊下。
石の床に、足音が響く。
外よりも静かで、
少しひんやりしていた。
隣で、ユーリスが歩いている。
少し俯きながら、
何かを考えている顔だった。
やがて、小さく口を開く。
「……まさか、杖が壊れるとは思いませんでした」
俺は前を見たまま答える。
「そうなのか?」
ユーリスが立ち止まりかける。
「そうなのか、じゃないです」
振り向く。
「普通、壊れませんから」
少し間。
「むしろ安定するのが触媒なんです」
「ふむ」
歩きながら考える。
「なら、あれは不良品か」
「違います!」
即答だった。
「完全にエアさん側の問題です!」
廊下に声が少し響く。
ユーリスは慌てて口を押さえた。
周囲を見て、
誰もいないことを確認する。
小さく息を吐く。
「……はぁ」
それから、こちらを見る。
「本当に自覚ないんですね……」
「ないな」
「ですよね……」
諦めたように呟く。
少し間。
ユーリスの視線が、
ふと俺の腕に落ちた。
止まる。
「……エアさん」
「なんだ」
「それ」
俺も自分の腕を見る。
制服の袖が、焼け落ちていた。
黒く焦げて、
肩口まで露出している。
「そこ、まだ燃えてます」
「ん?」
自分の腕を見る。
黒く焦げた布の端で、
小さく火が揺れていた。
それを、少しだけ見つめる。
――すっと。
火が消えた。
ユーリスはそれを見て、
小さく息を吐く。
「……ですよね」
慣れたような声だった。
少し間。
それから、改めて俺の腕を見る。
「今さら驚きませんけど」
一歩近づく。
「なんで無傷なんですか?」
視線が肌に向く。
「熱くないんですか?」
少し考える。
「特に感じないな」
ユーリスが固まる。
数秒。
「……そういう問題じゃないんですね」
額に手を当てる。
深いため息。
「普通は火傷どころじゃすまなかったですよ、あれ……」
「そうなのか?」
「そうです」
即答だった。
ユーリスはゆっくり顔を上げる。
「もう一回言いますけど」
指を立てる。
「エアさんが基準はだいぶ今と違います」
少し間。
「全部、ズレます」
俺は少し考える。
「なら、基準を変えればいい」
ユーリスが止まる。
「……はい?」
「お前たちの方を変えればいい」
そのまま言う。
「その方が早い」
沈黙。
ユーリスはしばらくこちらを見ていたが、
やがて――
「……無茶言わないでください」
小さく笑った。
呆れと、少しの納得が混ざった顔だった。
廊下の先に、
外の光が広がる。
風が流れ込む。
ユーリスは前を向いたまま、ぽつりと言う。
「……でも」
少しだけ、声が軽くなる。
「それ、本気でやりそうだから怖いんですよね」
俺は答えない。
ただ、歩く。
その先で――次が、待っている。
――――――――
教室。
ざわめきはすでに収まりかけていた。
椅子が引かれ、
生徒たちは席についている。
俺とユーリスも席に戻る。
少し遅れて、
前方の扉が開いた。
ガレスが入ってくる。
無言で教壇に立つ。
一度だけ教室を見渡し――
その視線が、
俺で止まった。
数秒。
静止。
それから、
小さく息を吐く。
「……おい」
低い声。
教室の空気が少しだけ張る。
「エア」
名を呼ばれる。
「なんだ」
「制服はどうした?」
周囲の視線が一斉に集まる。
俺は自分の腕を見る。
「吹き飛んだ」
一瞬。
教室が止まる。
ガレスは無言でこちらを見ていた。
数秒。
それから――
目頭を押さえる。
「……後で聞く」
低く、短く。
それだけ言うと、
チョークを取った。
黒板に向き直る。
「授業を続ける」
何事もなかったように書き始める。
だが、教室の空気は戻らない。
視線だけが、
まだこちらに残っている。
ユーリスが横で、
小さく呟いた。
「もう……何も言いません」
諦めきった声だった。
俺は何も言わない。
黒板に書かれる文字を見る。
それは、この時代の理。
だが――
俺にとっては、
それは後から付けられた“説明”でしかない。
―――――
授業が終わる。
ガレスはそのまま出ていった。
今すぐお説教ではなかったようだ。
椅子が引かれる音。
ざわめきが戻る。
ノートを閉じる音と、ため息が混ざる。
俺は立ち上がる。
ユーリスも少し遅れて席を立った。
「……さっきの、後で絶対聞かれますよ」
「そうか」
「そうです」
教室を出る。
廊下は昼の光で満たされていた。
人の流れがゆっくりと動く。
その中で――
不意に、空気が一段沈んだ。
ざわめきが、消える。
前方。
白。
数人。
講堂でも、教室でも見た、
あの白服の三人だった。
そのうち二人は、
訓練棟の後でユーリスに絡んできた連中でもある。
だが――今回は、止まっていた。
待っているように。
視線が、こちらに向く。
ユーリスの足が、わずかに止まる。
「……」
何も言わない。
ただ、一歩後ろに下がる。
白の一人が、静かに口を開いた。
「……その制服」
視線が俺の腕に落ちる。
焼け落ちた袖。
露出した肩。
「酷いな」
感情のない声だった。
だが、敵意はない。
「替えを用意しよう」
そう言って、後ろの一人が何かを差し出す。
布。
白い。
折り畳まれた衣。
受け取る。
手触りが違う。
軽い。
だが、妙に整っている。
俺はそれを見る。
「……学院のとはだいぶ違うな」
白の男が、わずかに口元を歪めた。
「当然だ。
それは、我らの衣だ」
静かに言う。
「光火派に属する者の装束」
少し間。
「礼装であり、信仰の証でもある」
廊下の空気が、また一段静かになる。
周囲の生徒たちは、完全に距離を取っていた。
関わらないように。
見ないように。
男は続ける。
「知っているはずだ。
我ら光火派――正統光火教」
その言葉には、疑いがない。
前提としての確信。
「神の火を継ぎ、
神意を正しく扱う者たちだ」
視線が、俺に刺さる。
「お前のそれは、偶然ではない」
一歩、近づく。
圧はない。
だが、逃げ場もない。
「神杭が応じたと聞く。
火も、お前を傷つけなかった……」
金髪の男はいぶかしげに俺を見ている。
「それが何を意味するか――分からないはずがない」
俺は少し考える。
「分からんな」
沈黙。
男の目が、わずかに細くなる。
怒りではない。
測っている目だ。
「……そうか」
それだけ言う。
そして、ゆっくりと続ける。
「……覚えているだろうが、
私はレイヴァルトだ」
わずかに顎を引く。
「後ろの二人も見覚えはあるはずだ」
冷たい目の白服が、微かに顎を動かす。
もう一人は、口元だけで笑っていた。
「これからは共に立つ」
レイヴァルトはそう言って、再び俺を見る。
「お前は、本来こちら側の存在だ」
そう言って、手を差しのべる。
「そこにいるべきではない」
「ほう……?」
レイヴァルトの視線が一瞬だけ、ユーリスに向く。
「……我々は、それには触れない」
それだけ。
何も評価しない。
何も言わない。
ただ、切り捨てる。
そして再び俺へ。
「正しい場所に来い。
その力は、正しく扱われるべきだ」
差し出された白い衣。
「それを着ろ、それが第一歩になる」
静かな声。
強制ではない。
だが、拒めば何かが変わると分かる声音。
俺はそれを見る。
少しだけ、重さを確かめる。
それから――
「必要ない」
返した。
レイヴァルトの手が、わずかに止まる。
数秒。
空気が張る。
その時だった。
「……やめた方がいい」
横から声が入る。
柔らかい声。
だが、不思議と通る。
視線がそちらへ向く。
マリスだった。
いつの間にか、すぐ横に立っている。
蒼の帯。
静かな目。
レイヴァルトが、わずかに眉を動かす。
「……蒼か」
軽い声音。
だが、観察が混じる。
マリスは一歩前に出る。
俺と白服の間に入る形。
「――関わらない方が賢明」
柔らかい声。
だが、はっきりと言い切った。
俺に向けての言葉だった。
一瞬、空気が止まる。
続けて、
「この人に、深入りしないでほしい」
今度は白服へ。
穏やかだが、明確な拒絶。
レイヴァルトの目が、わずかに細くなる。
「……蒼が、口を出すか」
軽い声。
だが、先ほどよりもわずかに温度が低い。
マリスは表情を変えない。
「……ここは、アルケシア」
それだけ。
余計なことは言わない。
空気が張る。
一歩でも踏み込めば、何かが起きる距離。
その時だった。
「うわ、空気悪っ」
場違いな声が割り込んだ。
空気が崩れる。
廊下の奥。
パコダが手を振りながら歩いてくる。
ザハク、ミリカ、オルドも一緒だ。
そのまま距離を詰める。
躊躇いがない。
白服のすぐ横まで来て、止まる。
「何やってんだよ、こんなとこで」
白服の連中を一瞥する。
「……あぁ、また中央か」
興味なさそうに言い捨てる。
ミリカがぼそり。
「しつこい」
ザハクが肩をすくめる。
「空気が悪いな」
オルドが腕を組む。
「昼前にやる話じゃない」
完全に、場を食いに来ていた。
セラフィンの目が、
あからさまに険しくなる。
だが、レイヴァルトが片手でそれを制した。
その視線が、わずかに動く。
「亜人種か……随分と騒がしいな」
パコダが笑う。
「そりゃどうも」
親指で後ろを指す。
「で、そんなことより飯だ」
「行くぞ、エア」
パコダは軽い調子で俺の肩に腕を回した。
「こんな連中と立ち話してる時間じゃねぇだろ?」
ユーリスが一瞬だけ戸惑う。
「パコダさん?!」
「飯の時間だ!」
ミリカが頷く。
「いつもの、仲間」
ザハクが小さく言う。
「付き合え」
オルドも続く。
「もう決まってる」
気づけば、自然と囲まれていた。
逃げ場はない。
白服と対峙していたはずの位置が、
いつの間にか、日常の側に引き戻されている。
レイヴァルトが、それを見て目を細める。
「時間はある」
一拍。
「――選べ」
視線が一度だけ俺に戻る。
それだけ言う。
踵を返す。
白が、廊下の奥へ消えていく。
空気が、完全に戻る。
パコダが肩を鳴らした。
「はいはい、もう終了」
手を叩く。
「飯だ、腹減った!」
そのまま歩き出す。
当然のように、俺の肩を叩く。
「来るだろ?」
「ああ」
ユーリスも苦笑しながらついてくる。
「……もう逆らえませんね」
その時。
パコダがふと振り向いた。
マリスを見る。
「今日はそっちもだな」
指を向ける。
「お前も来いよ、マリス」
マリスが少しだけ目を瞬かせる。
「……え?」
「さっきの、見てたぜ?」
にやりと笑う。
「なら無関係じゃねぇ」
一拍。
「今日から仲間だ」
ミリカが頷く。
「増えた」
ザハクがため息をつく。
「……勝手に決めるな。
だが、その通りだ」
オルドは苦笑する。
「もう決まってる」
マリスは少しだけ迷い――
それから、静かに頷いた。
「……では、お言葉に甘えて」
そのまま、自然に並ぶ。
さっきまでの張り詰めた空気は、
もうどこにもなかった。




