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第83話:枝分かれ


ユーリスは、ただ黙って俺の後ろをついてくる。


向かう場所は決まっていた。


中央塔の影が石床を横切る。


学院の中心へ向かうほど、

建物は古く、重くなっていく。


白い石。

高い窓。

壁一面のツル。


今は派手には動けない。

だが、俺は何も知らない。


中央の教義。

火の神。


そして――火以外のこと。


俺の知らないところで、

世界がどう枝分かれしたのか。


それを知るには、

たぶん人に聞くより、この方が早い。


つまり……本だ。


「……ここです」


ユーリスが立ち止まる。


巨大な扉。


両開きの木扉には、

細かい彫刻が刻まれていた。


本。

杖。

羽根ペン。

そして――火の模様。


「図書塔です」


ユーリスの声が、

少しだけ弾んでいた。


俺は扉を押す。


重い音。


中は静かだった。


高い天井。

円形の空間。


壁一面が本棚だ。


上の階へと続く回廊。

梯子。

階段。


古い紙の匂い。


「うわ……」


ユーリスが小さく息を漏らす。


それから。


次の瞬間には、

もう歩き出していた。


まっすぐ本棚へ向かう。


「エアさん!」


振り向く。


目が輝いている。


「古史概論がここです!」


俺は椅子に腰を下ろす。


一緒に探そうと思っていたが、その必要はなさそうだ。


ユーリスはもう、

本を引き抜いていた。


ぱらぱら。


ページをめくる。


「これです!」


机に本を置く。


『アルケシア古史学概論』


「まず基本はこれなんですけど――」


ページを開く。


指で文章を追う。


「エンラ神話です」


声が少し速い。


「火を最初に扱った存在で、

 火の神とか文明の始祖とかって言われてて」


ぱらっ。


次のページ。


「で、エンラの後に

 火を扱う民が現れたって書いてあります」


「ふむ」


「これが人間の祖っていう説ですね」


ユーリスはもう次の本を取っていた。


二冊目。


三冊目。


机の上に並ぶ。


「でもですね」


一冊を開く。


「ここで問題が出るんです」


ページを叩く。


「獣人。起源不明。

 いろいろな説がありますが、

 その中でも共生進化説っていうのが有力なんです」


別の本を開く。


「でもこっちは違う説なんですよ!」


「ほう」


「古い壁画だと

 “人に似た獣”って書かれてるんです」


ページを見せてくる。


粗い絵。


確かに。


人の形の狼。


「だから」


ユーリスの声がさらに速くなる。


「人間から進化した説と、

 そもそも別種族説があるんです」


次の本。


「それに次がネレイディア」


ぱらぱら。


「海の種族。これも起源不明で、

 人間変異説と、

 海洋適応説と、

 精霊種説」


三つ指を立てる。


「これだけでも三説です!」


机の上の本が増えていく。


四冊。


五冊。


六冊。


「あとこれ」


「属性魔法」


「火が起点っていうのが

 いまの通説なんですけど」


別の本を開く。


「でも!」


指を叩く。


「水の起源が説明できないんです!」


机の上の本を順番に叩く。


「こっちは火起源説、

 こっちは自然発生説、

 こっちは精霊共鳴説。

 全部違います!」


息が少し上がっている。


ユーリスは一瞬だけ止まった。


それから。


静かに言う。


「……全部、矛盾してます」


机の上には本が山のように積まれていた。


古史概論。

獣人研究。

海洋種族誌。

属性魔法論。


俺はその山を見る。


ユーリスを見る。


「つまり」


ユーリスが小さく言う。


「誰も、本当のところは分かってないんです」


静かな図書塔。


遠くでページをめくる音。


俺は背もたれに体を預ける。


天井を見上げる。


高い。


古い梁。


窓から光が落ちる。


(エンラ……火の神、か)


文明の始祖。


人はそう呼ぶ。


皆が火を見たからだろう。


だが――


俺が持っていたのは、

影に抗う力であって、

特別何かを生み出せるものではない……。


ただ、それだけだった。


それが枝分かれして


水になり、

風になり、

土になった。


そういうことかもしれない。


人は力を神話にする。


学者は理屈にする。


だが世界は


そのどちらでもない。


俺は本の山を見た。


ユーリスはまだページをめくっている。


真剣な顔。


必死に世界を俺に説明し、理解しようとしている。


「……エアさん?」


顔を上げる。


「なんですか?」


俺は肩をすくめた。


「ユーリスがいて助かる……」


「え?」


「もっと教えてくれ」


一瞬。


ユーリスが目を丸くする。


それから。


ぱっと笑った。


「はい!」


立ち上がる。


また本棚へ走っていく。


俺はその背中を見る。


(……楽しそうだな)


ユーリスの背中を見送ったと思ったら、すぐにその背中は立ち止まる。

迷わず一冊の本を抜き取り、こちらに戻ってきた。


「エアさん、これ見てください」


ユーリスが一冊の本を置いて開く。

表紙には『四属性』という文字までは読み取れたが、その後の字は俺には読めなかった。


「ユーリス、この本の題名は?」


「四属性起源考です。

 これは古い研究なんですけど」


ページを指でなぞる。


「属性ごとに“最初の人物”がいるっていう説です」


「火はエンラ。

 これは有名ですね」


ページをめくる。


「でも他にもいるんです。

 土の始祖。

 獣人神話に出てくる人物で――ラルド」


さらにめくる。


「水はネレイディアの伝承に出てくる、

 海巫女ネレイア」


最後のページ。


「風はエルフの祖、

 森語りエイル」


ユーリスが顔を上げる。


「もちろん全部伝承です。

 でも……」


少しだけ考える。


「エアさんの話を聞く限り」


本を指で叩く。


「この説が一番近い気がするんです」


俺は腕を組んだ。


「なるほどな……」


ユーリスがこちらを見る。


「多分、俺もそんな気はする」


「本当ですか?」


「ああ」


俺は本を指で叩いた。


「火が最初で、そこから枝分かれしたって考え方は、

 筋が通ってる」


ユーリスがうなずく。


「はい。私もそう思います」


俺は少しだけ考えた。


それから、ぽつりと呟く。


「……ただ」


ユーリスが首を傾げる。


「ただ?」


「リヒトの子孫は、

 どこで混ざったんだろうな」


「……混ざった?」


ユーリスの眉が寄る。


俺は本のページをめくる。


ラルド。

ネレイア。

エイル。


神話の名前。


だが俺の頭に浮かんでいるのは、

別の顔だった。


「リヒトは火を持ってなかった」


「え?」


「生まれた順番の問題だ」


俺は椅子にもたれた。


「俺が火を持つ前に生まれてる」


ユーリスが目を瞬かせる。


「そ、そうなんですか?」


「だから火はない」


俺は本のページをめくる。


ラルド。

ネレイア。

エイル。


神話の名前。


俺は続けた。


「ただ……あいつは狼族のラァと仲が良かった」


「狼族?」


ユーリスが小さく呟く。


「ザハクさんの種族ですね」


食堂でパコダたちと一緒だった、犬耳の男の名前だ。

顔や身体つきは少し大柄な人間の男。

だが、瞳の中の形が獣に近く、尻尾もあった。


「いや、違う」


「え?」


ユーリスは目を丸くして俺の顔を覗き込む。


物語の続きを待つ子どもみたいな顔だった。


俺は少しだけ笑う。


「今はあれが狼族の形なんだな」


本を指で軽く叩く。


「俺の時代はもっと獣の姿だった」


ユーリスの目がさらに大きくなる。


「獣……ですか?」


「ああ」


俺はゆっくり思い出す。


森の匂い。

焚き火。

獣の群れ。


「ほとんどが獣の姿だった。

 必要な時だけ人の形になる」


一緒に水を引いたり、畑を作った時は、そうやって人型になって手伝ってくれた……。


「戦う時とか、

 作業する時とかな」


ユーリスがぽかんと口を開ける。


「じゃあ……」


「はい?」


「獣人って、

 最初から今の形じゃないんですか?」


俺は首を振った。


「多分、全然違うだろうな。

 俺の知る限り、昔は獣だった。

 今は人に近い」


ユーリスはしばらく考え込んだ。


それから本を見て、また俺を見る。


「……それ、共生進化説に近いですね」


「だろうな」


俺は肩をすくめた。


「リヒトはよくあの連中と一緒にいた。

 だからまぁ、今の獣人の形は分かる」


ユーリスはゆっくり本を閉じた。


「……なるほど」


それから少しだけ笑う。


「じゃあこの本、

 思ってたより外れてないのかもしれませんね」


「だな」


俺も笑った。


「たまには間違えないことも書いてあるらしい……しかし……」


「しかし?」


「いや、俺が気になってるのは力のことだ……ナハトは火の力を受け継いだ。

 二人ともゴブリンから生まれたが、形は俺に近くなったからな」


ユーリスの肩がびくりと跳ねた。


「……ゴブリン!?」


思ったより大きな声が出たらしく、

本人が慌てて口を押さえる。


静かな図書塔の空気が一瞬だけ揺れ、

遠くの席の生徒がちらりとこちらを見る。


「す、すみません……」


小さく頭を下げてから、

ユーリスは声を落として身を乗り出した。


「い、いま……ゴブリンって……」


「ああ」


俺は淡々と頷く。


「森の民だ」


ユーリスは目を見開いたまま、

しばらく言葉を失っていた。


それから、はっとしたように顔を上げる。


「……あ」


小さな声。


「あ、だからあの時……」


「あの時?」


「酒場で、エアさんが……」


ユーリスの視線が宙を泳ぐ。


記憶をたどっている顔だった。


「“森の民はいないのか”って聞いた時です」


俺は少しだけ目を細めた。


確かに聞いた。


耳が長く、

小柄で、

緑の肌をした連中のことを。


この時代では、

あれはもう“民”ではなく

“魔物”として扱われていた。


ユーリスは続ける。


「あの時、私はただの知識の話だと思ってました。

 でも……違ったんですね」


そう言って、真剣な顔で俺を見る。


「エアさんにとっては、

 昔の話だった……」


俺は肩をすくめる。


「そういうことになるな」


ユーリスは机の上の本と俺の顔を交互に見た。


驚きと、

納得と、

少しの戸惑い。


全部が混ざった顔だった。


「じゃあ……」


小さく呟く。


「ゴブリンは、本当にただの魔物じゃなくて……」


「昔は、違った」


短く答える。


「少なくとも俺の知る連中はな」


静かな返答。


だが、それだけで十分だった。


ユーリスは本の端を指でなぞる。


「……なるほど」


それから、

また思考が回り始める。


いつもの顔だ。


「じゃあナハトさんは、

 火を持っていた」


「ああ」


「しかも母親はゴブリン……森の民」


「ああ」


「で、リヒトさんは火を持っていない。

 でも狼族と近かった」


「そうだな」


ユーリスの目がみるみる鋭くなる。


知識を線で繋げる時の顔だ。


「それなら……」


ふたたび本を開く。


「土と水は、

 リヒトさん側の血だけじゃ説明しきれない」


指で文字を追いながら、目が開いていく。

そして声が確信を持ち始める。


「でも、ナハトさん側には火の干渉がある。

 だからどこかで!」


俺は小さく笑った。


「多分な。それならいろいろ説明もつきそうだしな」


ユーリスが顔を上げる。


「やっぱり!」


「リヒトの血だけじゃ、今の獣人やネレイディアの“力”までは届かない」


ユーリスはゆっくり頷いた。


「……はい」


「土や水は、後の時代に混ざって初めて

 強く出たと考えた方が自然です」


俺は窓の外を見る。


中央塔の上を、

白い雲が流れていく。


「ナハトは火を受け継いだ。

 リヒトは受け継がなかった。

 なら、その先で混ざるしかない」


ユーリスはしばらく黙って考え込んでいたが、

次の瞬間にはまた立ち上がっていた。


「エアさん、少し待ってください」


「どこ行く」


「混血史です」


早口だった。


「種族婚姻史と、

 地方神話集と、

 古血統論……多分この辺りに――」


もう聞こえていない。


本棚の間へ消えていく。


俺はその背中を見送る。


(……忙しいやつだな)


だが、

悪くない。


本に埋もれながら、

世界の形を繋げようとしている。


ああいうのは嫌いじゃない。


机の上に残った本へ視線を落とす。


エンラ。

ラルド。

ネレイア。

エイル。


人は名をつける。


神話にして、

分かりやすい形に整える。


リヒトはリクトに、ナハトはナトルに。


だが、その奥には

確かに別の名があった。


リヒト。

ナハト。

ミア。

ラァ。


リル、そして……ルゥ。


もうこの世界のどこにも残っていない名。


それでも、

血は続いている。


形を変えて、

枝分かれして、

まだここにある。


俺は小さく息を吐いた。


「……ちゃんと、残ってるんだな」


あの場所は、

俺の知らないところで

勝手に続きを作っていたらしい。

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