第82話:枝と名
授業が終わる。
椅子が引かれ、
ざわめきが一気に広がる。
「ふぅ……少し、外の空気を吸ってきます」
ユーリスはまだ少し落ち着かない様子で、
杖を抱えながら席を立った。
「……すごかったじゃん」
後ろの席の少年が声をかける。
「え、あ、いや……」
ユーリスは慌てて首を振る。
「たまたまで……」
「いやいや、たまたまで二属性同時は出ねぇよ」
笑いながら言う。
「普通にすげぇって」
「そ、そんな……」
褒められることに慣れていない。
それが見ていて分かる。
教室のあちこちからも声が飛ぶ。
「ユーリス、もう一回見たい」
「火と水って反発するのに、どうやったんだ?」
「やっぱ干渉しないようにするのって大変?」
素直な興味。
だが――
その空気が、すっと冷えた。
前列の白服が立ち上がる。
三人。
中央の宗教国家の信徒だ。
白い上着。
胸元の紋章。
彼らはゆっくり歩いてきた。
周囲の生徒が、
自然と道を開ける。
一人が、ユーリスの前で止まる。
長い金髪。
細い目。
口元だけ笑っている。
「……すごいね」
柔らかい声。
だが、温度はない。
ユーリスが戸惑う。
「え……」
「火と水を同時に出すなんて」
視線が、ユーリスの杖へ落ちる。
「普通じゃない」
一拍。
「まさに――」
薄く笑う。
「混ざりものらしい才能だ」
教室の空気が止まる。
ユーリスの指が、わずかに強く杖を握った。
「……私は」
言い返そうとする。
だが言葉が出ない。
白服の男は続ける。
「火は神の証だ」
指を立てる。
「純粋であることが大事なんだ。混ざるほど、濁るからね」
小さな笑い。
「中央では常識だ」
後ろの二人も笑う。
「まぁでも」
肩をすくめる。
「芸としては面白かったよ」
そう言って、
わざとらしく拍手する。
ぱち、ぱち。
周囲は誰も笑わない。
むしろ視線を逸らす。
面倒事だからだ。
ユーリスの肩が、
わずかに下がる。
怒っているわけではない。
ただ――慣れている。
その顔だった。
「……ありがとうございます」
小さく言う。
否定もしない。
反論もしない。
それが余計に気に入らないのか、
白服の男の眉が少し動く。
「礼を言われるとは思わなかったな。まぁいい」
ちらりと、
こちらを見る。
「……君の友人も」
エア。
俺の席だ。
「無色、だったね。
あの陣を壊した」
口元が歪む。
「変わり者同士、気が合うのかな?」
周囲がざわめく。
ユーリスが慌てる。
「ち、違います! エアさんは――」
俺は立ち上がる。
椅子が静かに鳴る。
白服の男がこちらを見る。
「何か?」
俺は少し考える。
それから、首を傾げた。
「……中央では」
ゆっくり言う。
「火が神の証なんだろ?」
「そうだが?」
「じゃあ、ちょうどいい。
聞きたいことがある」
肩をすくめる。
「水は誰の証だ?」
一瞬、言葉が詰まる。
「……何?」
「火だけが神なら」
淡々と続ける。
「水は誰が作った?」
白服の男は、ほんの一瞬だけ固まった。
笑みが止まる。
答えが出ない。
――当然だ。
中央の教義では、火が絶対の神。
エンラだけ。
水は、神の外。
語る必要がない。
それを神話の一部と語れば異端になる。
白服の男は、誤魔化すように鼻で笑った。
「……くだらない。火以外は単なる枝だ。
神からこぼれ落ちた物に他ならない」
「枝……」
俺はその言葉を反芻する。
枝――つまり、端。
本体ではない。
(そういう形にしたのか……)
記憶の底に、夢みたいな光景がよぎる。
燃える夜。
灰の匂い。
遠い未来。
俺がいない世界を、
俺の子供が歩いていた。
そのさらに先で、
知らない誰かが生まれ、
増え、
分かれ、
争い、
祈っていた。
あの時――まだ水はなかった。
少なくとも、俺の手の中には。
火だけだった。
槍と火だけ。
それでも世界は続いて、
今は水がある。
混ざる者がいる。
(だから、聞きたかった)
皮肉ではない。
侮辱でもない。
ただの確認……。
俺の知らない先を知りたい。
俺は白服の男を見たまま、静かに言う。
「……枝でもいい」
白服の男が眉を寄せる。
「……は?」
「枝が伸びて、森になることもある」
俺はそれだけ言った。
ユーリスの肩が、わずかに震えている。
「混ざりもの」という言葉が、
彼女の皮膚の内側に染み込んでいる。
俺はそこに手を伸ばさない。
撫でない。
抱き寄せない。
守るのは簡単だ。
叩き潰すのはもっと簡単だ。
だが、それをやれば、ユーリスは自分で立てなくなる。
自分の足で立つ機会を奪う。
(孫は、孫の足で歩け)
俺はユーリスを見ずに、言う。
「ユーリス」
「……はい」
小さな返事。
「外の空気、吸うんだろ」
「……え?」
「行け」
それだけ。
突き放すようでいて、
逃げ道を渡す言葉。
ユーリスは一瞬だけ迷って――
小さく頷いた。
「……はい」
白服の男が笑う。
「逃げるのか」
ユーリスの足が止まりかける。
俺は何も言わない。
止めない。
代わりに、ユーリスが自分で息を吸う。
肩を上げる。
そして、歩き出す。
教室の外へ。
ひとりで。
扉が閉まる音が、やけに大きい。
白服の男の視線が俺に戻る。
「君は、面白いな。混ざりものを連れて歩く……」
そして目を細めて続ける。
「何をしたい?」
俺は少し考える。
答えは一つではない。
槍。
塔。
アンカー。
ルクナス。
ルゥの魂。
だが今ここで言う必要はない。
俺はただ、さっきの問いをもう一度置く。
「水は誰の証だ」
白服の男の顔が歪む。
「答える必要がない」
「必要がないと思うなら」
俺は肩をすくめる。
「お前は一生、火しか見えない」
その言葉に、白服の後ろの二人が一歩前に出る。
空気が張る。
だがガレスはいない。
授業は終わった。
この場の規律は、薄い。
白服の男は、手で制した。
「……いい」
笑みを作り直す。
「無色の異端に付き合うほど暇じゃない」
踵を返す。
三人は去っていく。
残った教室は、妙に静かだった。
誰も俺に近づかない。
話しかけもしない。
ただ、目だけが動いている。
(正しい反応だ)
人は、火が強い場所から離れる。
燃え移るのを恐れる。
俺は教室を出る。
廊下は明るい。
窓から風が抜ける。
外階段へ向かうと、
踊り場にユーリスがいた。
壁に背を預けて、
顔を伏せている。
泣いてはいない。
ただ、息を整えている。
俺は隣に立つ。
距離は詰めない。
「……すみません」
ユーリスが小さく言う。
「何がだ」
「私が……目立ったから」
「目立つのは悪いことか?」
「……でも」
言いかけて、止まる。
自分で飲み込む。
それが成長だ。
俺は短く言う。
「さっきの奴ら」
「はい」
「お前を“混ざりもの”って呼ぶんだな」
「……はい」
「なら、俺が聞く」
俺は窓の外を見る。
空が高い。
「お前は、何だ」
ユーリスが言葉に詰まる。
自分のことを、
自分の言葉で言うことに慣れていない。
「……私は」
少しだけ唇が震える。
「私は……ユーリスです」
絞り出すみたいな声。
それでも言った。
「火と、水が……あります」
「混ざってます」
顔を上げる。
少しだけ強い目。
「でも……消えません」
俺はそれを聞いて、
小さく頷いた。
「それでいい」
慰めない。
褒めすぎない。
ただ、肯定する。
ユーリスは、胸の奥の何かが少しだけ軽くなるのを感じた。
――きっと、まだ怖い。
でも。
逃げずに立った。
それは確かだ。
その時、廊下の奥から足音が来た。
白い上着が視界に入る。
一人だけ。
さっきの三人ではない。
白服の中の、別の奴。
静かな歩き方。
視線を落とし、
周囲と目を合わせない。
だが。
すれ違う瞬間、
その男――いや、女か。
白服の一人が、
ほんの一瞬だけユーリスを見た。
すぐに視線を落とす。
表情はない。
何も言わない。
だが――
目の奥だけが、わずかに揺れていた。
その光り方は……。
(迷い?)
あるいは、躊躇。
ユーリスはそれに気づかない。
だが俺は見ていた。
(……)
白服はそのまま通り過ぎる。
足音は静かで、
振り返りもしない。
やがて廊下の角で消えた。
ユーリスが小さく息を吐く。
「……さっきの人」
「何だ」
「同じ白服なのに……」
言葉を探す。
「少し、違う感じでした」
俺は短く答える。
「群れでも、全部が同じ顔じゃないってことかもな」
「ふふふ、群れって」
ユーリスは少し笑ってから、小さく頷く。
それから、窓の外を見る。
学院の庭。
遠くに中央塔。
風が吹き抜ける。
「……エアさん」
「何だ」
「さっきの質問」
少しだけ笑う。
「水は誰が作った、って」
「うん」
「怒らせるためじゃなかったんですよ、ね?」
俺は少し考える。
それから肩をすくめた。
「単純に知りたかった。
俺の知らないところで出来たものだからな」
ユーリスは一瞬ぽかんとして、何かを理解したようにはにかんだ。
「やっぱり」
「ユーリス、この後は暇か?」
「はい? 特に何もありませんね」
「なら少し手伝ってくれ」
「あ、エアさん。まってぇ」
俺は歩き出す。
ユーリスも並ぶ。
廊下を進む。
中央塔の影が、
石床の上に長く伸びていた。
この学院には、
まだ俺の知らないものがある。
火だけじゃない。
水も。
土も。
風も。
そして――
人も。
(……面白い)
小さくそう思った。




