第81話:並ぶ火と水
昼食を終え、食堂を出る。
人の流れは緩やかに分かれ、
寮へ向かう者、講義棟へ戻る者、
それぞれの道へ散っていく。
俺とユーリスも並んで歩く。
しばらく無言だった。
足音だけが、石床に規則正しく響く。
「……そういえば」
俺が口を開く。
ユーリスが少し驚いたように顔を上げた。
「はい?」
「登録のときだ」
一拍。
「“ここまで反発しないのは珍しい”って言ってただろ」
歩調が、わずかに揺れる。
ユーリスは視線を前に戻す。
「……はい」
「何が、だ?」
責める声ではない。
ただの確認。
ユーリスは少し考え、
やがて小さく息を吐いた。
「属性の干渉です」
「干渉」
「火は、拡張の属性です。
広がろうとします。押し出そうとします」
指先を軽く開く仕草。
「水は、循環の属性です。
包み込み、流し、冷やします」
逆の動き。
「方向が違うんです。
同時に展開すると、普通はどちらかが主導権を奪います」
「奪う?」
「はい。
火が勝てば、水は蒸発します。
水が勝てば、火は消えます」
淡々とした説明。
「それを“反発”と呼びます」
俺は少しだけ思い返す。
水晶の中の光。
赤と蒼。
確かに、混ざらなかった。
だが、ぶつかってもいなかった。
「お前は?」
ユーリスの歩みが、わずかに遅くなる。
「たぶん……私は、どちらも消えません」
小さな声。
「主軸は火です。
でも、水も退きません」
「普通は退くのか」
「はい。
副軸は、主軸に吸収されるか、押し出されます」
少しの沈黙。
廊下の窓から、陽が差し込む。
ユーリスは視線を落としたまま、続けた。
「……でも」
小さな声。
「二属性同時では、まだ使ったことがなくて……」
「同時?」
「はい。
火と水を、ちゃんと一緒に出す状態です」
少し困ったように笑う。
「理論上はできるはずなんです。
でも……」
指先が、無意識に揺れる。
「まだまだ未熟者なので……」
はにかむような、曖昧な笑み。
やれないわけではないが、自信がない。
確かめてもいない……そんな感じだな。
俺は少しだけ思い出す。
水晶の中の光。
赤と蒼。
ぶつからず、
消えもしなかった。
「すごいな」
ユーリスの足が止まる。
「……え?」
「なんとなくだ」
肩をすくめる。
「水晶に写っていた赤と蒼、
あれは……本当に」
それだけ。
「綺麗だった」
ユーリスは、目を瞬かせる。
数秒遅れて、頬が赤くなる。
「き、きれいって……」
「嫌か?」
「いえ、そうじゃなくて……」
言葉が続かない。
歩き出す。
ユーリスは慌てて並ぶ。
「でも、本当にまだなんです。
ちゃんと同時に出したことはなくて……」
「なら、出せばいい」
簡単に言う。
「え……」
「ユーリスなら、できるはずだ」
根拠はない。
ただの感覚。
ユーリスは少し黙る。
それから、小さく笑った。
「……エアさん、そういうところずるいです」
「何がだ」
「根拠がないのに、信じてくれるところ」
ユーリスはうつむきながら前髪をいじって、恥ずかしがっていた。
俺は少しだけ歩調を落とす。
陽が、廊下の床に細く伸びている。
「親はな」
ぽつりと。
少しだけ視線を前に向けたまま。
「どんな時でも、子供を信じてやるもんさ」
歩きながら、軽く息を吐く。
「かわいい孫のこともな?」
―――――
エアはそう言って歩き続けた。
だが――
ユーリスは一瞬だけ、足を止める。
「……孫」
小さく、繰り返す。
エアは気づいていない。
歩きながら、ただ前を見ている。
ユーリスは、慌てて歩幅を合わせた。
傷ついたわけじゃない。
嫌だったわけでもない。
むしろ――あたたかい。
守られているような、
包まれているような言い方だった。
それなのに。
胸の奥に、ほんの少しだけ、
引っかかるものが残る。
(……孫、か)
自分でも分からない。
嬉しいはずなのに、
少しだけ、違う。
エアを異性として意識しているわけではない。
そういう感情だとも思っていない。
けれど。
“孫”と線を引かれた瞬間、
何かが、
そっと置いていかれた気がした。
名前のない違和感。
風が、廊下を抜ける。
ユーリスは小さく首を振る。
(変だな……分からない……これ、なんだろ?)
そう心の中で呟いて、
前を向く。
エアの背中は、
いつも通り、変わらない。
だからこそ、
そのもやは、余計に静かだった。
―――――
夜。
寮の部屋は静かだった。
窓の外に、学院の灯りが点々と揺れている。
ベッドに腰を下ろし、天井を見上げる。
(……隠す理由はなかった)
教師――ガレスに話したこと。
槍を取りに来たと。
あれは事実だ。
嘘は言っていない。
だが――
全部を言ったわけでもない。
この世界での俺は、冒険者として登録されている。
保証人はフィアだ。
俺が問題を起こせば、保証人に責任が及ぶ。
原初だろうと関係ない。
今の俺は、この社会の中にいる。
それは鎖ではない。
責任だ。
ガレスは言った。
武器にもなるが、標的にもなる。
もう目立った。
無色。
陣を壊した。
槍を取りに来たと言った。
中央の信徒がいる。
(問題が多くなりそうだ……)
窓の外を見る。
学院の中央塔が見える。
あの中心部。
アンカーは、そこにある。
だが、生徒は立ち入れない。
学院の中枢。
許可のない者は近づけない区域。
ルクナスと話すなら、あそこに行く必要がある。
聞きたいことはいくらでもある。
なぜ俺を戻したのか。
どこまで見えているのか。
ルゥの魂はどこにあるのか。
だが、今は行けない。
動けば目立つ。
目立てば中央が動く。
迷宮は年に一度。
そこまで、生徒でいる必要がある。
それが最短だ。
力で押し潰すのは簡単だ。
だが、それでは槍に辿り着く前に騒ぎになる。
生徒として動く。
学院の規律の中で動く。
余計な波は立てない。
「……出来る限りはな」
小さく息を吐く。
ユーリスの顔が浮かぶ。
あれは目立った。
本人は平気だと言うだろう。
だが、放ってはおけない。
父として……いや、先祖か……。
何にせよ、守る。
それだけだ。
瞼を閉じる。
夜は静かだ。
だが、中央塔の灯りは消えない。
あそこに、答えがある。
今は、まだ届かない。
―――――
翌日、ユーリスと講義室に向かった。
そして静かに授業が始まる。
円形の床。
中央に簡易陣。
赤帯の教師――ガレスが、板書を終えて振り返る。
黒板には二重の円と、交差する線。
「詠唱とは、力を増幅するものではない」
淡々とした声。
「魔力は常に体内にある。
詠唱は、それを外へ出す許可ではない」
線をなぞる。
「意識の位相を揃える行為だ」
(位相?)
……難しい言葉だ。
……だが、言っていることは分かる。
意識を“向ける”ということだろう。
「単属性なら単純だ。
一つの指向に集中すればいい」
線が一本、伸びる。
「だが複属性は違う」
もう一本、逆向きに引かれる。
「異なる指向性を同時に揃えなければならない。
揃わなければ干渉が起きる。
代表的なもので言えば、火と水だ」
火は外へ。
水は内へ。
確かに、逆だ。
「適性を備えていようとも、わずかでも基本は反発し、流れを乱す。
そして結果、どちらかが崩れる、もしくは飲み込まれる」
一拍。
「だが、稀に干渉せず並ぶ例がある」
ガレスの視線が止まる。
「ユーリス」
びくり、と肩が跳ねる。
「え……!?」
教室が静まる。
「前へ」
「で、でも……」
立ち上がりながら、声が震える。
「まだ……実際に、二属性を同時に出したことはなくて……」
正直だな、と思う。
ガレスは短く言う。
「だからこそだ。
理論を理解しているなら、試せる」
逃げ場はない。
「で、でも……」
ユーリスが、こちらを見る。
俺は何も言わない。
急かさない。
背も押さない。
ただ、見ている。
それだけでいい。
ユーリスは中央へ出る。
杖を構える。
手が、わずかに震えている。
火の詠唱。
空気が温む。
間を置かず、水の詠唱を重ねる。
「何事にも最初はある。
やってみなさい」
ガレスの言葉を受け、
ユーリスは深呼吸をして目を閉じた。
意識を二つに割る。
空気が歪む。
赤と蒼が、同時に灯った。
確かに、両方。
だが――
火が膨らむ。
輪郭が荒れる。
外へ出ようとする。
水の縁を押し広げる。
(……前より火が暴れてるな)
放っておけば、水を弾く。
ガレスの手が、杖へ伸びる。
止める気だ。
(なら……その前に)
俺は、意識をユーリスの前の火へ向ける。
押さえ込まない。
叩き潰さない。
ただ、火に“中心”を思い出させる。
(広がるな……静かに燃えろ……)
一点で。
火が、静まる。
輪郭が整う。
水も崩れない。
ガレスの手が止まる。
教室がざわめく。
ユーリスの背が、わずかに揺れる。
視線が俺に向いている。
(気づいたな……)
ユーリスの前に浮かぶ火と水は、揺れながらも形を保っている。
火は広がらず、
水は押し返さない。
ぎりぎりの均衡。
教室のざわめきが、ゆっくり広がる。
ガレスはしばらく黙って見ていたが、
やがて短く言った。
「……十分だ」
杖が下がる。
ユーリスの肩から、力が抜ける。
火が小さくなり、
水がほどける。
消える。
一瞬の静寂。
次の瞬間――
ぱち、ぱち、と拍手が起こった。
それはすぐに広がる。
「すげぇ……」
「本当に二属性同時だろ、今の」
「干渉してなかったぞ」
素直な声。
興奮。
円形教室の空気が、明らかに変わる。
一方で。
前列の白服の数人が、わずかに顔を歪める。
小さな舌打ち。
「……偶然だろ」
「安定はしてなかった」
「混ざりものだから当たり前だ」
低い声。
だが、その否定は弱い。
見ていた全員が分かっている。
確かに、同時だった。
ガレスは教室を見渡す。
「反発は起きかけた」
一拍。
「だが、並んだ。
両属性の適正がなければ数秒も持たない」
視線がユーリスへ向く。
「見事だったぞ、ユーリス」
それだけで十分だった。
ユーリスは、まだ中央に立っている。
頬が赤い。
だが、どこか誇らしそうだった。
視線が、こちらへ向く。
俺は、ただ座っている。
何も言わず、目を閉じた。
(火はまだ荒い。だが……上出来だ)
その後、ユーリスは小走りで俺の隣に戻った。
頬はリンゴのように赤くなり、俯いている。
こちらの視線に気がついて少し笑った。
……嬉しそうに。
その中で、視界の端で白服がこちらを睨んでいるのが見えた。
静かな、敵意の視線だ。




