第80話:色と席
廊下に出ると、光が少しだけ眩しかった。
昼が近い。
窓から差し込む陽が、
床に長く伸びている。
静かな廊下の端に、
ユーリスが立っていた。
壁にもたれ、
少しだけ俯いている。
気配に気づき、顔を上げた。
「……終わりましたか?」
「終わった」
短く答える。
ユーリスは小さく息を吐いた。
「……良かった」
その表情には、
安堵がはっきり浮かんでいる。
「食堂、行きませんか?」
少し遠慮がちに言う。
「お昼、だし」
確かに、腹は減っている。
「行くか」
歩き出す。
ユーリスが一歩後ろから付いてくる。
廊下は穏やかだ。
他の生徒たちも、
同じ方向へ向かっている。
だが。
途中で、空気が変わった。
ざわめきが消える。
足音が止まる。
自然と、人の流れが左右に割れた。
誰かが来る。
前方から、
白い制服の集団が歩いてきた。
黒ではない。
純白。
この学院の色ではない。
だが、
誰よりも堂々としている。
道を開ける生徒たち。
恐れているわけではない。
顔色から、
ただ、関わりたくないだけだと分かる。
その空気が伝わってくる。
中央の信徒。
人間だけの集団。
視線は前を見たまま。
周囲など見えていない。
自分たちの場所だと、
疑っていない歩き方だった。
ユーリスの足が止まる。
小さく、
こちらの後ろに下がった。
完全に隠れるわけではない。
だが、距離を取る。
白の集団が近づく。
先頭の男が、
こちらを見た。
赤の帯。
火の適性。
そして、
ゆっくりと立ち止まる。
「……噂に聞いた無色とは貴様だったか」
口元だけが歪む。
周囲の空気が、少しだけ重くなる。
「初日から随分と目立ったらしいな」
声は静かだが、
侮りがはっきり混じっている。
「陣を壊したとか」
否定はしない。
男の視線が、
横に流れる。
ユーリスへ。
一瞬で表情が変わる。
「……混合か」
吐き捨てるような声。
「珍しいな」
もう一歩、近づく。
「人間の中に混ざりものとは」
ユーリスの指が、
背中で小さく握られる。
「二つの適性、とはな……」
見下ろすような目。
「だったら何だ?」
俺の言葉に、目の前の男は小さく笑う。
「純粋な火を持てぬ者に、
価値はない」
周囲の空気が凍る。
この場にいる誰もが、
言葉の意味を理解していた。
男はゆっくりとこちらを見る。
「エンラは、人間に火をもたらした」
静かな確信の声。
「純粋な火の適性を持つ人間だけが、正統だ」
一歩近づく。
「それ以外は、ただの劣化」
廊下が静まり返る。
視線が集まる。
ユーリスは動かない。
だが、震えている。
「……平気です」
小さな声。
俺は一歩前に出る。
男の目が、少しだけ細くなる。
「……何だ」
「下らん」
それだけ言う。
男は一瞬、言葉を失った。
周囲の生徒が息を呑む。
俺は続ける。
「貴様らが何を信じるかは勝手だ。
だが、歩きたいなら歩け」
静かな声。
「止まりたいなら、
端に寄れ」
男の眉が動く。
「……貴様ッ」
「往来の邪魔だ」
遮る。
「ここは、お前の家じゃない」
空気が張りつめる。
数秒の沈黙。
やがて男は、
小さく息を吐いた。
「っくははは。
流石、辺境……火の加護を理解できぬとは……。
だが……面白い」
口元が歪む。
「覚えておけ、無色……」
一歩、退く。
「その顔は、忘れない」
振り向く。
白い制服が再び動き出す。
通り過ぎる。
視線は一度も外さない。
だが、
触れはしない。
白が遠ざかる。
廊下の空気が、
少しずつ戻ってくる。
ざわめきが再開する。
ユーリスが、ゆっくり顔を上げた。
「……大丈夫か」
小さく聞く。
「……はい」
だが、声は少し震えている。
「すみません」
「何がだ」
「……私のせいで」
首を横に振る。
「違う」
短く答える。
「勝手に絡んできただけだ」
ユーリスは少しだけ目を見開いた。
「……でも」
「気にするな」
それだけ言う。
少しの沈黙。
やがて、ユーリスは小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
食堂の扉が見えてきた。
昼の光が差し込んでいる。
騒がしい声も聞こえる。
日常の音だ。
だが。
さっきの言葉は、
まだ廊下に残っている。
その顔は、忘れない。
なら――
俺も、忘れない。
(そのうち、尻でも叩いてやるさ……)
―――――
食堂に入ると、空気がひとつ段を下りた。
講堂の張り詰めた空気とは違う。
人の声と、皿の触れ合う音。
湯気の匂い。
だが――整っている。
食堂は円形だった。
中央に赤。
その周囲を、
蒼、黄土、翠が取り囲む。
火が主軸。
誰が命じたわけでもない。
だが自然と、そうなっている。
赤帯の人間が中央に多い。
その外周に、各属性と種族が固まる。
混ざる席はある。
だが、少ない。
ユーリスが小さく呟く。
「……やっぱり、中央は赤ですね」
「あぁ」
「学院は統合を掲げていますけど……」
「現実は……か」
中心と外側。
それだけの話だ。
そのとき。
「エア!」
聞き慣れた声。
赤の中央席の端。
パコダが手を振っていた。
「こっちだこっち!」
ユーリスがほっとする。
「パコダさん……」
門前で中央と揉めた獣人。
あの時、“ここは学院だろ”と割って入った張本人だ。
歩く。
中央の赤を抜け、
黄土の席の縁へ。
主流から半歩外れた位置。
パコダが笑う。
「大目玉か?」
「いいや。警告だ」
向かいに座る獣人が目を向ける。
「はじめてだな。
俺はザハクだ」
灰色の犬耳。
落ち着いた目。
「門でのことは覚えている」
短く名乗る。
そう言えば、確かパコダに味方してたもう一人がいたな。
その隣、小柄な猫耳の女。
「ミリカ。中央の言い分、嫌い」
さらに大柄な青年。
「オルド。俺も血で決めるのは気に入らん」
パコダが肩をすくめる。
「エアは思想で固まってるわけじゃねぇから安心だぜ?
まぁ、ちょっと変わってるけどな」
ザハクが言う。
「中央が“火=人間”だけが崇高と決めるのは違う」
赤の中心近くで、そんな言葉が交わされる。
ユーリスが小さく身を縮める。
「……目立ちませんか」
「下らんことは、俺は気にしない」
赤の学生がちらりと見る。
だが、口は出さない。
ザハクが俺を見る。
「お前、人間だろ」
「あぁ」
「なのになぜ中央を否定した?」
「否定していない」
皿を持つ。
「武器を武器と言っただけだ」
沈黙。
ミリカの尾が揺れる。
「……好き」
ぼそりと。
パコダが吹き出す。
「だろ?」
その時、ルエルの姿が翠の席に見えた。
風の翠帯。
長い耳。
周囲に同族のエルフと固まっている。
マリスは蒼の中央寄り。
明るい髪が目立つ。
見た目は人間と変わらないが、
空気の“湿り”だけが違う。
パコダが言う。
「ルエルとマリスは別だ。
あいつらは悪目立ちしたくねぇんだろ」
「エルフは風だし、ネレイディアは水だからな」
「……ネレイディア?」
俺が言うと、
ユーリスの箸がわずかに止まった。
パコダが笑う。
「知らねぇ顔だな」
「初めて聞いたからな」
俺の視線は蒼の席へ向いている。
蒼は、赤ほど中心ではない。
だが赤のすぐ外側に近い位置に固まっている。
そこにいる連中は、
派手に騒がない。
「……水の種族だ」
ザハクが短く言った。
「海沿いの同盟域から来るやつらが多い。
ネレイディアは、その中でも“水に寄った血”だ」
「血?」
俺が聞き返すと、
オルドが鼻を鳴らした。
「中央のやつらが言う“血”とは違う」
言い切る。
「火は人間だけ、みたいな話じゃない。
ネレイディアは、そもそも体の流れが違う」
ミリカが言う。
「水が多い……泣き虫も多い」
パコダが肩を揺らして笑った。
「言い方よ……」
ミリカは気にしない。
「事実……喧嘩になるとすぐ泣く」
俺はもう一度蒼の席を見る。
マリスが何かを受け取っている。
水を入れた器。
触れた指先が、
ほんの一瞬だけ蒼く光った気がした。
(……水が、寄ってる?)
不思議な感覚だ。
炎みたいな圧はない。
土みたいな重さもない。
ただ、
“そこにある”みたいな安定がある。
俺は視線を戻す。
「もしかして……適性属性って、種族で違うのか?」
俺の一言で、卓が一瞬止まった。
パコダが箸を宙で固めたまま、
目を丸くする。
「は?」
ザハクも、オルドも、
一拍遅れて俺を見る。
ミリカだけが平然と頷いた。
「……違う」
「……いや、待て」
パコダが身を乗り出す。
「お前……マジで何も知らねぇのか?
どっから来た!?」
周囲の席からも、視線が一つ二つ刺さる。
赤の中心の連中が、ちらりとこちらを見る。
黄色の席の何人かも、耳だけ動かしている。
俺は皿を動かしながら言った。
「……田舎だ」
「田舎にも限度があるだろ!」
パコダが頭を抱えかける。
ザハクが、落ち着いた声で補足する。
「学院に来る前に“常識”は仕込まれる。
……普通はな」
「俺には仕込む相手がいなかった」
短く言うと、
一瞬、場が変に静かになった。
ユーリスが咳払いをする。
わざとらしい。
だが助け舟だ。
「……ええと。整理します」
ユーリスは背筋を正し、
知識のスイッチが入った顔になる。
「まず、適性属性は“血”で決まる、という言い方が広まっていますが……」
そこで一度、
赤の中央――白連中の方向をちらりと見て、声を落とす。
「それは、中央の教義寄りの言い方です」
パコダが頷く。
「そうそう。あいつらは“血”って言葉が好きだ」
ユーリスは続ける。
「実際には、種族ごとに“魔力の流れの癖”が違います。
それが結果的に、得意な属性として固定されやすい」
俺は箸を止めた。
「固定?」
「はい。……人間は、比較的固定が弱いです」
ユーリスが言うと、
ザハクが小さく頷き、
ミリカがぼそりと言う。
「人間は混ざりやすい」
「でも、獣人は……土が多い」
ユーリスは続ける。
「獣人は、身体の強化と相性が良い。
重さ、踏ん張り、境界を作る力……そういう“土”に寄りやすい性質なんです」
オルドが鼻を鳴らす。
「だから土が“普通”になる。
エルフは、風に寄る」
ユーリスが指で円を描く。
「循環が得意で、微細な制御がしやすい。
だから風系の術式が扱いやすいんです」
俺は翠の席――ルエルの方を見る。
確かに、あの席は静かだがどこか空気が軽い。
「じゃあ……ネレイディアは?」
俺が聞くと、
ユーリスは蒼の席を一度見てから答えた。
「水です。主軸が水」
言い切る。
「ただ……水は、中央の言い方だと“火の下位”みたいに扱われることがありますね……」
パコダが舌打ちした。
「火が偉いんじゃなくて、
火を持ってる“人間”が偉いって言いてぇだけだ」
ザハクが静かに言う。
「だから揉める」
俺は蒼の席を見る。
マリスは、視線を上げない。
器に触れた指先が、
ほんの一瞬、蒼く光った。
濡れてはいないのに、いい意味で冷たい気がする。
「……見た目は人間と変わらないな」
俺が呟くと、
ユーリスが頷いた。
「見た目は近いです。
ただ、体表に水紋みたいな模様があります。
発光が強い時は、感情か、魔力が動いている時です」
ミリカがぼそりと付け足す。
「泣くと光る……キラキラ、面白い」
パコダが肩を揺らす。
「だから、言い方よ……」
ミリカは気にしない。
「事実」
周囲が小さく笑う。
空気が少しだけ緩む。
だが俺は、まだ引っかかっていた。
「じゃあ……人間は?」
ユーリスが少し間を置いて答える。
「人間は、主軸としては火に寄りやすいです。
でも“可能性”が広い」
ユーリスの声が早くなる。
知識が暴走し始める前兆。
「単属性が多いけど、稀に別属性適性も出ます。
だから――」
ユーリスは俺を見る。
「だから、“珍しいから嫌われる”というより、“嫌われる教義がある”だけですね」
言い切って、また咳払い。
今度は照れ隠しみたいだった。
パコダが俺を指さす。
「常識だぞ?」
俺は肩を竦める。
「知らないものは知らない。
だが、覚えた」
蒼の席を見る。
赤の中心を見る。
黄土の縁を見る。
そして――自分の手を見る。
(俺の場所は、どこにもない……か)
ユーリスが小さく言った。
「エアさんは……基準が違うんだと思います」
パコダが鼻で笑う。
「その基準が違いすぎだろ」
その言葉に、
卓の周りがまた少し笑った。
食堂は騒がしい。
だが、この卓だけは、
別の意味で目立っていた。




