第76話:選ぶ背中
夜の廊下は、昼よりも長く感じる。
灯りは落とされ、
魔術灯が細く揺れている。
「……ユーリス」
呼ばれて、足が止まる。
魔力で感じ取られたのだろう。
師匠の部屋の前。
胸の奥が、ざわつく。
指が、少しだけ震えた。
「入りなさい」
扉を開ける。
部屋の中央。
テーブルに向かって座るノクシア。
眼鏡を掛け、
一心不乱に紙へ魔術式を書き続けている。
紙の山。
数式。
波形。
注釈。
筆が止まらない。
「来たわね」
視線は上げない。
ユーリスは静かに近づき、
椅子に座る。
沈黙。
紙をめくる音だけが響く。
やがて。
「もう少し実験はしたい所だけれど」
筆が止まる。
「彼は解放するわ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
「あと数日の観測で十分よ。
これ以上は私の興味が過ぎる」
淡々と。
「明日、伝えなさい」
胸が、強く締まる。
解放。
終わり。
でも、終わったら――
「……それって」
喉が乾く。
「実験が終わったら……もう……」
言葉が出ない。
ノクシアが、ゆっくりと顔を上げる。
「私と離れるのが嫌なの?
別に居たければいなさい……あなたを旅に放り出した時もそうだったわね……」
「それは!?……でも……あの、違います……」
部屋が静まる。
ユーリスは視線を落とす。
「師匠は……」
「ん〜?……」
少し考える。
「たまにこうやって……会いにもこれます。だから大丈夫です」
それは本心だった。
師匠は強い。
一人でも立っていられる。
「でも……」
膝の上で手を握る。
「終わったら、もしかしたら…エアさんとは……二度と会えない、かも……って」
ようやく出た言葉。
静かな部屋に落ちる。
ノクシアは目を細める。
「そう……」
そこでようやく、手が止まり。
椅子にもたれ、腕を組み、ユーリスの方を向いた。
「怖いのね……彼と接点が切れることが」
ユーリスは何も言えない。
否定できない。
「……自分でも、よく分からないんです」
小さな声。
「まだ、何なのかも……」
好きなのか。
尊敬なのか。
憧れなのか。
でも。
いなくなるのが嫌だ。
それだけは分かる。
ノクシアは静かに眼鏡を外す。
机に置く。
「ユーリス」
声が少しだけ柔らかい。
「あなたはもう、子供じゃない」
心臓が跳ねる。
「怖いと思う相手を、
自分の人生から外したくないと思えるなら」
視線がまっすぐ向く。
「追いなさい」
「……え?」
「会えなくなるのが嫌なら、
同じ場所に行けばいい」
淡々と告げる。
「学園は進路じゃないわ」
一拍置く。
「接点よ」
息が止まる。
「あなたは迷っているんじゃない」
ノクシアは静かに告げる。
「選びかけているの」
ユーリスの視界が少し滲む。
「……でも、ロアンたちもいます」
「ええ」
「今の仲間も」
「ええ」
「全部は持てないですよね……?」
ノクシアは少しだけ笑う。
「持てるわけないでしょう」
きっぱり。
「だから選ぶのよ」
立ち上がり、
ユーリスの前に来る。
「私はあなたを縛らない……縛ったところで何もしてあげられないもの」
そっと、肩に手を置く。
「でも、逃げるのは許さない」
静かな圧。
「彼がいなくなるかもしれない未来と、
自分から離れる未来」
目が優しく細まる。
「どちらが後悔するか、考えなさい」
沈黙。
夜は静かだ。
でも胸の中は、
静かじゃない。
「……分かりました」
まだ決断じゃない。
でも。
もう目を逸らせない。
ノクシアは眼鏡を掛け直す。
「今日は戻りなさい」
再び研究者の声。
「明日も測定がある」
ユーリスは立ち上がる。
扉の前で、一度だけ振り返る。
師匠はもう、紙に向かっている。
でも。
ほんのわずかに。
筆が止まっていた。
―――――
扉が閉まる音が、遠ざかる。
廊下の足音が消え、
家の中が、静まり返る。
ノクシアは椅子に深くもたれた。
天井を見る。
「……いつの間にか、女になっちゃって」
小さく、息を吐く。
昔は自分も違った。
理しか見ていなかった。
魔術の構造。
核の仮説。
発動点の解析。
人の感情は、ノイズだった。
だが今は。
あの子の目が、胸に残る。
私と離れるのを嫌がっていた、小さな子。
……姉が残した、あの子が。
その子が今は……“誰かを失うかもしれない未来”を怖がる目をしていた。
あれはもう、子供の目ではない。
「私は、母親にはなれない……」
静かな独白。
守り方も、
甘やかし方も、
正解も分からない。
けれど。
「あの子の幸せを願っている」
それだけは、嘘ではない。
だが、正直に言えば。
自分には分からない。
幸せとは何か。
誰かを選ぶことが正しいのか。
共にいることが幸福なのか。
私は、そんなものに興味を持ってこなかった。
理だけを見てきた。
だから、分からない。
……けれど。
視線が、水晶へ落ちる。
あの男は危うい。
神器を破壊するなどという思想。
それだけでも十分、敵を作る。
だが問題はそこではない。
存在そのものが、希少すぎる。
詠唱を持たず、
媒介を必要とせず、
理論の外側に立つ核。
希少なものは、利用されるか、
恐れられるか、
排除される。
「……いつか、消されるかもしれないわね」
それは理の推測ではない。
直感だ。
この世界は、異物を許容しない。
あの男は、
世界に定着していない。
だから。
ユーリスが、あの目をする。
失うかもしれないと、
本能が告げている。
椅子から立ち上がる。
窓の外。
夜の街。
遠く、白塔の灯り。
「後悔するくらいなら」
小さく、呟く。
「追いなさい……ユーリス」
消えるかもしれない男でも。
危うい男でも。
それでも選ぶなら。
止めはしない。
私は母親にはなれない。
でも。
選ばせない大人には、なりたくない。
ノクシアは目を閉じる。
今夜は、式を書かない。
理ではなく、
ただ一人の女として……。
あの子の背中を押した。
―――――
数日後。
ノクシアの家の前に、全員が揃っていた。
朝は冷たい。
街はまだ静かだ。
ノクシアが封書を差し出す。
「これが紹介状よ」
俺は受け取る。
封印紋が、わずかに脈打っている。
「学院への正式推薦。
私の名義」
もう一枚。
ユーリスへ。
「あなたの分もね」
(……?)
俺は視線を動かす。
「どういうことだ?」
ロアンが肩をすくめる。
「どうもこうもねぇよ」
笑う。
「そんじゃ、今日で“渡りの風”も解散ってことで」
解散……ロアンはそう言った。
意味が、少し遅れて落ちる。
「……解散?」
ガルドが前に出る。
「村に戻る」
短い。
ロアンが続ける。
「なーんかこいつら、落ち着いちまってるし。
命がけの冒険者……な〜んて、やってられねぇだろ?」
フィアが言う。
「まぁ……そういうことよ」
俺はフィアを見る。
「いいのか?」
「自分で選んだもの」
短い。
それで終わりらしい。
ロアンが俺の肩を叩く。
「じいさん」
いつもの調子だ。
「神様ごっこは学園でやれ」
軽口。
だが、目は笑っていない。
「俺らは俺らでやる。
お前はお前でやれ」
俺は封書を見る。
重い。
紙の重さじゃない。
隣に、ユーリスが立つ。
紹介状を握っている。
「エアさん」
俺を見る。
「私も、学園に行きます」
……そうか。
それで二枚か。
ノクシアが言う。
「別れが永遠だとは言っていないわ。
道が分かれるだけよ」
ロアンが振り向く。
「おいガルド、荷物忘れんなよ」
「忘れねぇよ」
フィアが一度だけこちらを見る。
何も言わない。
それで十分らしい。
三人の背中が、朝日に溶ける。
ロアンが振り返らずに手を上げた。
「死ぬなよ、じいさん」
軽い声。
それで終わりだ。
ガルドは一度も振り返らない。
フィアも、振り返らない。
歩幅が揃っている。
三人だ。
渡りの風は、三人で歩いていく。
俺は立ったまま。
声は出ない。
……解散。
その言葉だけが残る。
狼と戦った夜。
火を囲んだ朝。
酒で潰れたロアン。
全部、そこにあるはずなのに。
今は。
静かすぎる。
隣に、ユーリスがいる。
だが、三人分の気配が消えた。
空気が、軽い。
軽いのに。
胸が、重い。
俺は封書を握る。
紙の感触だけが、確かだった。




