第72話:火の責任
森を抜けると、
川が流れていた。
その奥に小さな滝。
水音が絶え間なく響いている。
ちょうどいい場所だった。
ロアンが枝を集め、
ガルドが獣肉を捌き、
フィアが川で水を汲む。
ユーリスは俺が預けた火種と、
杖を抱えて座っていた。
「……で?」
ロアンが火にかけた肉をひっくり返す。
「アイツは?」
ガルドが肩を竦める。
「さぁな」
フィアが眉を寄せる。
「また一人でどこか行ったの?」
そのとき。
茂みが揺れた。
「もう焼けましたよ〜」
ユーリスの声が先に飛ぶ。
その後ろから、俺が戻る。
「勝手にどこ行ってたのよ?」
フィアが腕を組む。
俺は答えず、
焚き火の脇に腰を下ろす。
腕を擦る。
そこに、浅い擦り傷。
どこかで枝に引っかけたらしい。
フィアの視線がそこに止まる。
「……怪我?」
「大したことはない」
腰の袋から、今摘んできた葉を出す。
細長い、青い葉。
川辺ではなく、
滝の脇の岩陰に生えていた。
「薬草? こんなところにもあるんですね?」
ユーリスが目を丸くする。
「冷たい場所によくある」
そう言って葉を口に入れる。
噛み潰す。
だが……、苦味が広がる。
眉が、わずかに寄る。
(……違う)
俺の時代……。
雪解け水のそばに群生していたそれは、
清涼感が強かった。
口の中で、ひやりとした。
今のこれは、
ただ……ひどく苦い。
葉を吐き出し、
傷に当てる。
指で押さえる。
「ちょっと!」
フィアが近づく。
「怪我したんなら、ちゃんと言いなさい!」
声が強い。
怒っている。
だが、目は違う。
俺は視線を上げる。
「浅い」
「浅いとかそういう問題じゃないの!」
布を奪い取る。
乱暴に、だが丁寧に巻く。
「一人で森に入るし、怪我しても黙ってるし」
息が荒い。
「……いい加減そういう所、直しなさいよね?」
俺は少しだけ口元を緩める。
「そうか……すまん」
ユーリスが近づく。
「その薬草、効きますか?」
「効く……はずだが……」
間。
「だが、弱い……」
ユーリスが首を傾げる。
「弱い?」
「昔はもっと強かった」
川を見る。
「冷たく、澄んでいた」
フィアが手を止める。
「昔って……またあの話?」
俺は答えない。
布を巻き終えると、
フィアが軽く腕を叩いた。
「とにかく、次からは言いなさい」
「分かった……」
即答する。
少しだけ、驚いた顔をする。
ロアンが焚き火の向こうで笑う。
「じいさん、ちゃんと怒られてんじゃん」
「無理すんなよ、じいさん」
ガルドが笑う。
二人の間では俺の愛称が「じいさん」になっていた。
水音が続く。
滝のしぶきが光る。
苦味がまだ舌に残っている。
昔の味は、もうない。
焚き火の熱は確かにある。
俺は火を見つめた。
時代は変わる。
草も、火も、人も。
それでも、
囲む形は、変わらない。
―――――
肉の焼ける匂いが広がる。
川音に混じって、
脂の弾ける音。
ロアンが肉を皿代わりの板に乗せる。
「ほら、じいさんの分だぜ」
「じいさん、落とすなよ」
「そこまで老いてない」
笑いが混じる。
しばらく無言で食う。
空腹は正直だ。
火の前では、
誰も多くを語らない。
ガルドがふと思い出したように言う。
「そういや」
骨を噛みながら。
「じいさんは、なんでアルケシアなんだ?」
火が揺れる。
ユーリスも顔を上げる。
フィアは何も言わないが、
耳だけこちらに向いている。
俺は肉を飲み込む。
「槍がある」
ロアンが眉を上げる。
「槍?」
「俺のだ」
一瞬、沈黙。
ガルドが吹き出す。
「まさか……」
「昔、俺が使っていた槍だ」
ユーリスが真顔になる。
「ってことは……神話の?」
肉の匂いがまだ残っている。
火は小さくなり、
川音がやけに大きく聞こえた。
ガルドが骨を投げ捨てる。
「……ちょっと待て」
いつもの調子じゃない。
「お前が言ってるのは、あの“神器”だろ?」
ユーリスが静かに言う。
「聖遺級……いえ、あれは原典級に分類されているはずです」
ロアンが顔をしかめる。
「原典級って、あの“国が一つ動く”ってやつか?」
ユーリスが頷く。
「ええ。発見されれば、
国家が保護を名乗り出る。
宗教が奇跡と騒ぎ、
冒険者は一攫千金を夢見る」
ロアンが笑うが、目は笑っていない。
「はっはっはっは! マジかよ?」
俺は火を見る。
「そうだ。俺の槍を取りに行く」
空気が変わる。
フィアが、ゆっくり立ち上がる。
「……ちょっと待ちなさい」
声が低い。
「あなた、自分が何言ってるか分かってる?」
「分かっている」
「原典級よ?」
言葉を選ばない。
「冒険者の中には、
一生をそれを探すことに賭けてる連中もいるのよ」
ロアンが腕を組む。
「それを“俺のだから”ってか?」
俺は視線を上げる。
「俺のだから……壊す」
即答。
皆、理解不能になり沈黙していた。
ユーリスが慎重に言う。
「……仮に、本当にあなたのものだとしても」
喉を鳴らす。
「そう簡単には、取り戻せないかもです……」
ロアンが続く。
「その通り。今じゃ一種の“象徴”だぜ。
国が持ちゃ抑止力になる。
宗教が持ちゃ正義になる」
フィアが鋭く言う。
「それを消すってことは、
均衡を崩すってことよ」
火がはぜる。
俺は静かに言う。
「その均衡は……あれがあるから崩れる……」
誰も動かない。
「人は、手が届く力があれば……それを欲しがる……。
だから、手遅れになる前に……俺が壊す」
ゆっくりと。
ユーリスの目が揺れる。
「……エアさんは、本気なんですね」
「本気だ」
間。
ロアンが深く息を吐く。
「じいさん」
少しだけ笑う。
「それ、めちゃくちゃ面白ぇ話だぞ」
ガルドが低く笑う。
「原典級破壊。前代未聞だな」
フィアは黙っている。
視線が鋭い。
「……壊せる保証はあるの?」
「ない」
即答。
「なら?」
「隠す」
川を見る。
「二度と、誰の旗にもならん場所へ沈める……」
川音が、やけに近い。
フィアがゆっくり座り直す。
「……沈めるって」
小さく息を吐く。
「それ、どこに?」
俺は少しだけ考える。
「人が近づけない場所だ」
「具体的には?」
「……まだ決めていない」
ロアンが吹き出す。
「計画性ゼロかよ、じいさん」
「計画はある」
俺は火を見る。
「まず、取り戻す」
ユーリスが静かに言う。
「白塔同盟から?」
「白塔……?」
三人が同時にこちらを見る。
沈黙。
ロアンが眉をひそめる。
「……お前、どこまで本気だ?」
「全部だ」
「いや、そうじゃなくて」
ガルドが腕を組む。
「白塔同盟だぞ?
地図の右の大陸をまとめてる理術国家だ」
俺はゆっくり視線を向ける。
「右?」
ユーリスの目が細くなる。
「……エアさんは……知らないんですか?」
「何をだ」
焚き火が小さく弾ける。
フィアが静かに言う。
「第一次大陸戦争」
その言葉が、夜に落ちる。
俺は黙る。
ユーリスが続ける。
「春紀150年前後。
中央宗教国家と、白塔同盟が衝突しました」
「中央? 俺達が出会ったところか?」
「はい。その国が鎧を保有している国です」
俺の目がわずかに動く。
「鎧……だと?」
ロアンが言う。
「神器だよ。
お前の槍と同格のな」
一瞬、音が遠のいた。
「……同格?」
ユーリスが頷く。
「確認されている神器は複数あります。
槍、鎧、ナイフ、杭」
火が揺れる。
俺はゆっくりと言う。
「……俺の槍だけではないのか……?」
(鎧はわかる……だが、杭にナイフ?)
フィアが低く言う。
「あなた、本当に何も知らないのね」
俺は川を見る。
冷たい水。
流れは止まらない。
「戦争で……使われたのは」
ユーリスが言葉を選ぶ。
「槍です」
間。
「一度だけ」
ロアンが続く。
「戦局がひっくり返った。
中央は壊滅寸前まで追い込まれた」
ガルドが低く言う。
「でもな、大陸ごと地形が変わったって話だ」
ユーリスが静かに言う。
「使用地点周辺はいまも歪んでいます」
俺は目を閉じる。
「……誰が使った」
誰も即答しない。
フィアが言う。
「記録はありません。
ですが噂では使用者は重傷、あるいは――」
言葉を止める。
ロアンが肩をすくめる。
「代償がとんでもなくデカいらしいぜ?」
兵器。
その言葉が胸の奥に落ちる。
俺は静かに言う。
「……あれは、ただの槍のはずだ……」
ユーリスが答える。
「いまは違います」
火がはぜる。
「大陸兵器。
抑止力。
象徴。
正義の証明」
ロアンが笑う。
「白塔が持ちゃ理。
中央が持ちゃ神の奇跡だ」
俺はゆっくり目を開ける。
「……俺の槍が」
川音が強くなる。
「人を殺したのか……」
手に自分の指が食い込む。
ユーリスが静かに頷く。
「おそらく、数えきれないほど」
風が吹く。
火が揺れる。
俺の中で、何かが軋む。
俺は知らなかった。
目を覚ましたとき、
それはもう“神話”だった。
だが――
その神話は、血で書き記されているとも知らずに。
「……クソッ」
フィアが低く言う。
「だから簡単に壊すとか言わないで」
視線が強い。
「もし本気でそこまで動く気なら……それはもう……。
あなた一人の問題じゃないの」
俺は静かに答える。
「……違う」
皆がこちらを見る。
「俺の槍だ」
火を見る。
「なら……俺の責任だ」
ロアンが笑う。
「重すぎんだよ、じいさん」
ガルドが言う。
「でも嫌いじゃねぇぜ、そういう所はよ」
ユーリスが静かに言う。
「エアさん……もし壊せば、均衡は崩れます」
「中央は動いて、白塔も動く」
フィアが続ける。
「戦争が、再燃する可能性もあるわ」
川音。
焚き火。
肉の匂いはもう薄い。
俺は静かに言う。
「なら」
火を見る。
「使わせなければいい」
「……どうやって?」
フィアが問う。
「俺が持つ」
即答。
ロアンが吹き出す。
「おいおいおい! マジかよ? 今の話聞いてたのか?」
ガルドも笑う。
「原典級持ちのじいさん誕生だな」
笑いが残る。
だが俺は笑わない。
火を見つめる。
炎が揺れる。
赤がほどける。
その奥に、見えないはずの光景が浮かぶ。
地形が裂け、
空気が焼け、
人が倒れる。
俺の知らない戦場。
俺の知らない死。
『……数えきれないほど』
ユーリスの言葉が、胸の奥に沈む。
指先が白くなる。
気づけば、
拳を握り締めていた。
俺の槍が。
俺が作り、
俺が振るい、
俺が守るために持ったそれが――
子孫を、
大陸を、
裂いた。
火がはぜる。
一瞬、怒りが胸を焼く。
「……クソッ」
だが、その怒りは
世界へ向いているのか、
自分へ向いているのか、
分からない。
(ルクナス……)
お前は知っていたのか。
知っていて、俺に言わなかったのか。
――いや。
言えば、俺は暴れたかもしれない。
止まらなかった。
だから黙っていたのか。
理解は、できる。
だが。
火を睨む。
「……それでもだ」
低い声が落ちる。
ロアンも、
ガルドも、
ユーリスも、
フィアも、
誰も口を挟まない。
「俺の槍だ……」
ゆっくり言う。
「誰がどう扱おうと、元は俺が持った力だ」
炎が揺れる。
その奥に、
歪んだ大地の影が見える気がした。
「なら」
息を吐く。
怒りは消えない。
悲しみも消えない。
だが、
それを誰かに押し付ける気もない。
「終わらせるのも、俺だ」
静かに言う。
声は荒れていない。
震えてもいない。
ただ、固い。
フィアが息を呑む。
ロアンの笑みが消える。
ガルドが目を細める。
ユーリスが、じっと見ている。
俺は火から目を離さない。
「白塔だろうが、中央だろうが……全部、関係ない」
握った拳から火が漏れる。
「俺が持つ。そして――」
ゆっくり言う。
「二度と振るわせない」
川の音だけが続く。
拳の火はまだ揺れている。
怒りはある。
だが暴発はしない。
覚悟だけが、そこに残る。
フィアが小さく言う。
「……エア……あなた」
それ以上は言わない。
火は、静かに燃えている。
昔より弱い薬草。
変わった地形。
変わった時代。
だが。
責任だけは、変わらない。
炎の向こうで、
自分の影が揺れていた。
誰かが作った神話の影。
逃げる顔ではない。
だからこそ、
そいつが無性に苛つかせた。
俺は、少しだけ席を立つ。
誰にも何も言わない。
足が川縁の石を踏む。
拳の火が、まだ消えない。
冷たい水へ、まっすぐ進む。
膝が沈む。
水が、皮膚を刺す。
それでも止まらない。
腰まで入った瞬間。
握った拳から漏れていた火が、
水に触れた。
「……」
ジュー、と音が立つ。
白い湯気が上がる。
火が冷やされる。
俺の中の熱が、
強制的に、削がれていく。
それでも、
消えはしない。
ただ、形が整う。
呼吸が落ち着く。
川は冷たい。
滝の音は止まらない。
俺は水の中で、自分の手を、
火の残りを睨むように見つめた。
そして、低く言う。
「……すまない」
誰に言ったのかは分からない。
川の冷たさが、
骨に染みていく。
背後で、
石を踏む音がした。
振り向かない。
次の瞬間。
背中に、指が触れた。
薄く。
だが、確かに。
「……エアさん」
ユーリスの声。
震えてはいない。
怯えてもいない。
ただ――
祈るみたいに、静かだ。
「……触るな」
低く言う。
だが、拒む力はない。
ユーリスは手を引かない。
「……違うんです」
一息。
「あなたが“神話”になったから、
人が死んだんじゃない」
水音が続く。
「人が、勝手に持ち上げて、
勝手に使って、
勝手に正義にした」
それでも背中の指は、
熱を持っているように感じる。
「……だから」
ユーリスが言う。
「あなたが……そんなふうに泣かなくてもいいんです」
背中の手が離れる。
一歩、近づく気配。
そして――
とん。
軽く。
叩くでもなく、
撫でるでもなく、
ただ預けるように、背中に重さが伝わる。
「前も、見ました」
俺の呼吸が止まる。
「あの時……浜辺でエアさんが火を見せてくれた時……」
滝の音だけが響く。
「エアさん、あの時も、
今みたいな顔してました」
言葉が、刺さる。
迷いなく。
「寂しそうで、
でも、誰にも言わなくて」
川の冷たさよりも、
胸の奥の方が痛い。
「だから、分かるんです」
小さく笑う。
「あなたは、“神様”だから責任を取ろうとしてるんじゃない」
頭に置かれた手が、
ほんの少しだけ力を持つ。
「あなたは、優しいから、
全部自分のせいにしようとしてる」
喉が、鳴る。
水の中で、
拳がほどける。
「私はエアさんのこと信じてます」
静かに。
「火を教えてくれる、
焚き火みたいに温かい人だって」
滝の音が、
少しだけ遠くなる。
冷たい水の中で、
胸の奥だけが、
静かに温度を持った。




