第69話:聞こえなかった言葉
――部屋の中。
沈黙が落ちる。
フィアに謝りに来た時、
彼女から少し話を聞いた。
自分でもあんなに怒鳴ったのが不思議だ、
でも心配とも違う……よく分からない感情が押し寄せた、と。
だから言った。
おまえが感じてるのは、
特別な繋がりかもしれない。
家族愛、絆みたいなものかもしれない……と。
そして俺は、どれだけ時が経っていても。
俺は今でもルゥを……妻を愛している。
だからもしかしたら、お前が抱える感情は……。
そんな事を話した。
俺はゆっくりと息を吐いた。
「恐らくはそういうことだ」
視線を窓へ向けたまま言う。
「信じられないだろうけどな」
フィアは小さく笑う。
「えぇ、そうね」
間があく。
フィアは窓の外を見て息を吐く。
「あなたが本当に神話の神で、私の先祖だなんて……」
首を横に振る。
「現実味がなさすぎるわ」
それでも、今度は視線は外さない。
「でも」
静かに。
「さっきの話のほうが、よほど信じられる」
エアは何も言わない。
フィアが続ける。
「理屈より、感覚のほうが納得できる」
エアは短く頷く。
「そうか」
それだけ。
重くもなく、軽くもない。
やがて、エアが視線を落とす。
「……おまえが気にしてたのは、そのせいだろう」
少し間。
「まぁ、だからといって俺が一人で突っ込んだのも大目に見ろ、とは言わん」
静かに。
「すまなかった」
フィアは息を吐く。
怒りはもうない。
「もういいわよ」
落ち着いた声。
「次からちゃんと相談してくれれば、それでいい」
一拍置いて。
「仲間なんだから」
エアは小さく頷く。
その沈黙を、フィアが破る。
少しだけ口角を上げて。
「ね、おじいちゃん?」
明らかにからかいだ。
エアは眉をひそめる。
「おじいちゃんはやめろ」
即答。
フィアは肩をすくめる。
「冗談よ」
空気が、ほんの少しだけ軽くなる。
それで十分だった。
―――――
扉を開け、廊下の空気が流れ込む。
一歩出たところで、足を止めた。
自分の部屋の前に、ひとり立っている。
背中が妙に硬い。
(ユーリス?……なにを?)
「何してるんだ?」
声をかける。
背後から。
ユーリスが跳ねた。
「ひゃっ!?」
勢いよく振り向く。
「え、え、エアさん!? い、いえ、その……!」
顔が赤い。
どう見ても挙動不審だ。
フィアが横から顔を出して静かに言う。
「ユーリス? 何かあったの?」
さらに固まる。
「え!? 何で!? じゃなくて! えっと! その……エアさんを誘いに」
言った瞬間、ユーリスは口を押さえた。
俺は眉を上げる。
「誘い?」
「は、はい! あの、その……」
言葉を探している。
「ロアンか?」
小さく言うと、ユーリスはびくりとした。
「……はい」
「……ほう?」
(何を企んでるのか……)
俺は肩をすくめ、ユーリスの顔を見る。
「で、何に誘う気だ?」
「えっと……火の魔法を、少し見せていただければと……」
俺は短く答える。
「構わん」
ユーリスが目を見開く。
「え?」
「時間はある。だが街だと目立つから外に行くぞ」
フィアを見る。
念のための確認だ。
一瞬だけ、視線が合う。
「……好きにしなさい」
淡々とした声。
ユーリスは慌てて頷く。
「は、はい!」
―――――
石畳が陽に焼けている。
人の声。
荷車の軋み。
いつもの昼だ。
ガルドは歩いている。
どこへ向かっているのかは、
自分でも分からない。
頭の中で、さっきの声が何度も反芻される。
『……愛している』
あの低い声。
迷いがなかった。
そして。
『……そ、いいわよ』
フィアの声。
あれだけは、はっきり聞こえた。
(……いいわよ、だと……?)
喉の奥が熱い。
扉の前で……聞こえたのは、
愛している。
いいわよ。
それだけだ。
道の真ん中で足が止まる。
拳が、自然と握られている。
取られた?
誰に?
何を?
笑わせるな。
フィアは物じゃない。
だが。
胸の奥に刺さる感覚は、
どうしようもなく生々しい。
(最初に声をかけたのは俺だ)
仲間にしたのも俺だ。
背中を預けてきたのも、
預けられてきたのも俺だ。
それなのに。
最後に選ばれたのは……ッ。
「……チッ」
小さく舌打ちが漏れる。
通りを外れ、
自然と足は酒場へ向かう。
理由なんてない。
ただ、
静かな場所にいたくなかった。
扉を押す。
昼間の酒場は空いている。
木の椅子。
薄い酒の匂い。
カウンターに腰を落とす。
「強いのを」
短く言う。
店主が一瞬だけ見るが、
何も言わずに注ぐ。
琥珀色が揺れる。
一気に流し込む。
熱い。
だが、胸のざらつきは消えない。
(……俺は何だ)
怒鳴る資格もない。
割って入る資格もない。
聞き耳を立てて、
勝手に落ち込んで、
(……馬鹿みたいだ)
だが、止まらない。
もう一杯。
グラスが鳴る。
「……愛してる、かよ」
吐き捨てるように呟く。
笑える。
あいつは強い。
しかも、覚悟が違う。
変わったやつだが……どこか言葉が重い……。
(なら俺は?)
腕はある。
戦える。
だが。
覚悟はどうだ。
グラスを強く握る。
割れはしない。
だが、白くなる指。
(取られる?)
違う。
奪い合いじゃない。
それでも、
置いていかれる感覚だけが残る。
昼の光が、窓から差し込む。
明るすぎる。
ガルドは視線を落とす。
酒の底が揺れている。
ヤサグレるほど、
器用じゃない。
だが、
笑って流せるほど、
強くもない。
もう一口。
喉を焼きながら、
ただ、黙って飲んだ。
―――――
ガルドは三杯目を空にしていた。
酔っている。
だが、潰れてはいない。
むしろ、頭だけが妙に冴えている。
「……愛してる……か」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そのとき。
「おいおい、昼間から強いのかよ?」
背後から、聞き慣れた声。
ガルドは振り向かない。
椅子がきしむ音。
隣に、誰かが腰を下ろす。
「探したぜ」
ロアンだ。
ガルドはグラスを指で回す。
「何の用だ」
素っ気ない。
ロアンは肩をすくめる。
「用ってほどじゃねぇよ」
軽い声。
だが視線は、横顔を観察している。
「市場デートはどうした?」
沈黙。
ガルドの指が止まる。
「……行ってねぇ」
「あぁ、知ってる」
ロアンは鼻で笑う。
「フィア、普通に宿にいたな……」
ガルドの目がわずかに動く。
「……そうか」
それだけ。
ロアンは店主に指を立てる。
「俺にも同じの」
酒が置かれる。
しばらく無言。
やがてロアンがぽつりと。
「どうした?」
グラスを持つ手が、わずかに止まる。
ガルドは答えない。
ロアンは続ける。
「まぁ、お前のことだから、扉の前にはいったろ?」
沈黙が、肯定になる。
ロアンは小さく息を吐く。
「……何を聞いた?」
ガルドの喉が鳴る。
「エアが……愛してると」
短く。
硬い声。
「それから……いいわよ、だ」
ロアンは目を細める。
「なるほどな」
軽く笑う。
だが、その笑いはいつもの半分だ。
「それで一人で飲んでるわけか」
「うるせぇ」
吐き捨てる。
ロアンはグラスを傾ける。
「で? 取られた気分か?」
ガルドの視線が刺さる。
「……フィアは物じゃねぇ」
「当たり前だ」
ロアンは即答する。
「だから取るも取られるもねぇ」
間。
「でも、そう感じたんだろ?」
ガルドは黙る。
否定しない。
ロアンは続ける。
「お前さ」
少しだけ、声が低くなる。
「聞こえてねぇ部分があるぞ」
ガルドの眉が動く。
「何だと?」
ロアンは肩をすくめる。
「全部聞いたわけじゃねぇがな」
正直だ。
「お前がフィアを連れ出してないから、
優しい昔なじみの俺は、フィアに何かあったのかって聞いたわけよ?」
ガルドの視線が鋭くなる。
ロアンはあえて淡々と。
「エアのやつは、また自分は大昔の奴だとか話したってよ……。そんで、もしかしたら、
フィアが感じて反応したのは懐かしさみたいなものかもってさ。
一応は血のつながってる家族だからかもなって事らしいぜ?」
ガルドの拳が止まる。
「……家族?」
「かもしれないって話だ」
ロアンは酒を飲む。
「恋だの何だのって空気じゃなかった」
沈黙。
ガルドの胸の奥が、わずかに揺れる。
だがすぐに押し戻す。
「……だから何だ」
ロアンは横目で見る。
「誤解してねぇか?」
その一言が、静かに刺さる。
ガルドは答えない。
グラスを強く握る。
「俺は……」
言葉が詰まる。
ロアンはそれ以上追わない。
軽く笑う。
「まぁいい」
いつもの調子に戻す。
「でもな」
グラスを置く。
「逃げて飲んでるのは、格好悪いぞ」
ガルドの目が細くなる。
「逃げてねぇ」
「じゃあ向き合えよ」
即答。
静かだが、真っ直ぐだ。
ガルドは息を吐く。
酒の匂いが混じる。
胸の奥のざらつきが、少しだけ形を変える。
怒りから――
焦りへ。
「……チッ」
小さく舌打ち。
だが、さっきより力が抜けている。
ロアンは立ち上がる。
「ほら、ほどほどにしとけ」
振り向かずに言う。
「まだ勝負始まってねぇぞ」
その言葉だけ残して、酒場を出る。
ガルドは一人、残る。
グラスの中身を見つめる。
揺れている。
さっきほど、濁ってはいない。
「……家族、か」
小さく呟く。
完全には信じていない。
だが、完全な絶望でもない。
グラスを置く。
四杯目には、手を伸ばさない。
まだ、終わっていない。
それだけは、分かっていた。




