第297話:俺は…
……ルクス。
ルクナスは、
小さくその名前を口にした。
「……ルクナス?」
呼びかけても、
すぐには返事がなかった。
マリスの顔だ。
声だって、
今はマリスの身体から出ている。
それなのに。
さっきまで見ていた夕焼けの中で、
隣を飛んでいた『兄貴』と重なって見えた。
「おい、ルクナス」
もう一度呼ぶ。
「…………ああ」
そこでようやく、
ルクナスの目が動いた。
「ごめん…」
何に謝っているのか分からない。
それよりも、
俺には聞きたいことがあった。
頭の痛みはもうほとんど消えている。
けれど。
あの感覚はまだ残っていた。
傷だらけの膝。
砂の食い込んだ手のひら。
背中から広がっていた羽。
そして。
その羽の下へ風が入り込み、
身体が初めて空へ浮かんだ時の感覚。
俺は自分の手を見る。
今ここにある手には、
傷なんて一つもない。
それでも、
…さっきまで確かに痛かった。
「なあ」
「…うん」
「あれは……記憶なのか?」
ルクナスは、
すぐには答えなかった。
俺を見ている。
何かを考えているようにも見えたし、
まだ別のものを見ているようにも見えた。
いつものこいつなら、
分かることならすぐに答える。
分からないなら、
分からないと笑って言う。
でも。
今はどちらでもなかった。
「……前にも話した通り」
しばらくして。
ルクナスが、
ゆっくりと口を開いた。
「君はルクス……僕の弟の魂、
その残ったものから生まれている」
「ああ」
それは聞いている。
俺がルクス本人ではない。
だがルクスという人間の何かが、
俺の始まりに関わっている。
「君がこの世界に生まれた時、ルクスとしての記憶はなかった」
「……そうだな」
森で目を覚ました時、
俺には何もなかった。
自分が誰なのかも。
どうしてあそこにいたのかも。
どこから来たのかも。
ルクスという名前すら、
知らなかった。
「それは僕も分かってた」
ルクナスの声が、
少しだけ低くなる。
「僕が集められたのは全部じゃない。
残っていたものだけだった」
「……」
「だから、ルクスをそのまま戻せるなんて思ってなかったよ」
そう言って。
ルクナスは、
少しだけ笑った。
けれど。
いつもの笑い方とは違った。
「完全な復活にはならない。
記憶だって戻らないかもしれない。
それでも……」
そこで、
言葉が途切れる。
街を抜けていく僅かな風が、
俺達の間を通り過ぎていった。
「それでも…、
生きてくれればいいと思った」
ルクナスの目が、
俺へ戻る。
「その結果、生まれたのが君だ」
「それが、俺……」
「うん」
今度は迷わずそう言った。
「君はルクスとして目を覚ましたわけじゃない。
ルクスの続きというわけでもない…」
その言葉を聞きながら。
森で目を覚ました時のことを思い出す。
何も知らなかった俺が。
ルゥと出会って、
一緒に暮らして。
リヒトが宿り。
…その後に。
リルとの間にナハトが生まれ。
あいつらを守るために、
最後は自分ごと燃やした。
あれは。
誰かから受け継いだ記憶じゃない。
俺が生きたものだ。
「君は君として生きて……一度、その人生を終えた」
「……ああ」
それだけは、
俺にもはっきり分かる。
「だから僕も…」
ルクナスの声が、
そこで少しだけ弱くなった。
「もう……、
そういうものだと思ってたんだけどね…」
僅かに笑う。
寂しそうな。
それでも、
どこか懐かしいものを見るような笑い方だった。
「記憶がなかったことも。
君と最初に会って僕を覚えていないことも…、全部、分かってた」
「……」
「それでいいと思ってたよ」
少しだけ間が空く。
「…そのつもりだったし」
最後の言葉だけが、
妙に小さかった。
さっき。
俺がこいつを兄貴と呼んだ時。
ルクナスが固まった理由が、
少しだけ分かった気がした。
俺だけじゃない。
こいつにとっても。
あれは、
起こるはずのないことだったんだ。
「じゃあ……」
もう一度、
自分の頭へ触れる。
痛みは消えている。
「なんで今になって見えた?」
「それは僕にも分からない」
今度は、
すぐに答えが返ってきた。
「僕が何かしたわけじゃないよ」
「……そうなのか?」
「うん」
ルクナスは頷いてから、
少し考えるように視線を落とした。
「……可能性が、まったくなかったわけじゃない」
「可能性?」
「君の始まりにルクスがいる以上、
本当に何も残っていないとは言い切れなかったからね」
「……」
「ただ」
ルクナスの視線が、
再び俺へ向く。
「今まで一度もなかった。
それに君はもう、エアとして一度の人生を最後まで生きている」
だから…。
ルクナス自身も、
考えていなかったんだろう。
今になって突然…、
こんなものが出てくるなんて。
「それに……」
ルクナスが言葉を止める。
何かを思い出すように、
ほんの少し目を伏せた。
「その記憶なら、僕にも覚えがある」
「……本当か?」
「ああ」
返事は短かった。
「ルクスの羽が生え揃った頃のことだ」
その言葉を聞いた瞬間。
また…。
夕焼けが頭の中を掠めた。
「あいつは、飛べるようになったと思って、
朝から何度も挑戦してた」
「……」
「でも全然飛べなくてね。
…落ちて、転んで、それでもやめなかった」
覚えている。
いや。
俺の記憶じゃない。
そのはずなのに。
兄貴が来るまでに、
何度転んだのか分からなくなったことまで知っている。
「止めても聞かなかったし。
昔から、あいつは妙なところで意地っ張りだったから」
ルクナスの口元が、
ほんの少しだけ緩んだ。
「……俺が?」
思わず聞くと。
ルクナスの目が、
俺へ戻った。
一瞬だけ。
言葉に迷ったように見えた。
「……ルクスが、だよ」
「あ……ああ」
そうだ。
俺じゃない。
分かっている。
自分で経験した感覚が残っているせいで、
どうにも頭の中で切り分けにくい。
その瞬間だった。
「エアッ」
セレスの声がした。
「ん?」
顔を向けるより先に。
両肩を、
強く掴まれた。
「っ!?」
思わず身体が揺れる。
目の前にセレスがいた。
いつの間に近付いたのか。
俺の肩を両手で掴み、
真正面から顔を覗き込んでいる。
「セレス?」
「ッお前はエアだ!」
「……は?」
何を言われたのか分からず、
思わず聞き返した。
けれど、
セレスは手を離さない。
「エアだ」
もう一度。
今度は、
一つ一つ確かめるように言った。
「いいな?」
「……」
いつものセレスとは違う。
声が強い。
それなのに。
俺の肩を掴んでいる指には、
僅かに震えるような力が入っていた。
「お前はルクスじゃない」
セレスの目が、
真っ直ぐに俺を見る。
「お前はエアだ」
「……分かってる」
答えると。
今度はセレスが、
一瞬だけ言葉を失った。
「俺は俺だ」
「…………」
それでも。
肩から手は離れない。
何なんだ。
急に。
むしろ俺の方が、
セレスの様子に戸惑っていた。
「……どうした?」
「…………」
返事がない。
セレスはただ、
俺の顔を見ている。
「セレス……?」
「分かっているなら、それでいい…」
ようやく返ってきた声は、
いつもの調子へ戻そうとしているように聞こえた。
それでも、
まだ手は離れなかった。
「せ、セレスさん?」
横から。
ユーリスの声が飛んできた。
そちらを見る。
ユーリスが、
目を丸くしていた。
その隣ではミリカも、
何が起きたのか分からないように俺達を見ている。
のだが…。
「そいつ…盛りの時期にゃ!?」
「お前なぁ…」
思わず、
呆れた声が出た。
さっきまで何を聞いていたんだ。
「違うにゃ?」
「…違う」
「でも、いきなり掴んで見つめ合ってるにゃ」
「これは、そういうのではない!」
俺より先に、
セレスが怒鳴った。
その声にミリカの耳がぴんと立つ。
「図星にゃ?」
「違うと言っている!」
セレスの手が、
ようやく俺の肩から離れた。
そのままミリカへ向き直る。
さっきまで俺を掴んでいた時とは、
別の意味で顔が険しくなっていた。
「貴様は、こんな時まで――」
「ん?戻ったにゃ??」
「何がだ!」
「盛り」
「……貴様ぁ」
ミリカが、
俺の後ろへ逃げる。
「エア…守るにゃ」
「自分で何とかしろ」
「薄情にゃ!?」
「お前が悪い」
「う、裏切り者ぉおお〜!」
騒ぐミリカの声が、
広場に響く。
ユーリスが困ったように笑い、
セレスはまだ何か言いたそうにミリカを睨んでいる。
さっきまで張り詰めていた空気が、
少しだけ緩んだ。
俺も。
いつの間にか、
肩に入っていた力が抜けていた。
「……」
ルクナスを見る。
まだ少しだけ、
いつもと違う。
けれど。
俺と目が合うと、
今度は僅かに笑った。
その顔を見て。
これ以上は、
今ここで考えても仕方がないと思った。
ルクスの記憶。
どうして今になって出てきたのか、
他にも残っているのか…。
分からないことは増えた。
でも。
俺が誰なのかまで、
分からなくなったわけじゃない。
「……行くか」
そう言うと、
ユーリスが俺を見る。
「もう大丈夫なんですか?」
「ああ。もう平気だ」
それから、
広場の向こうへ目を向ける。
さっき、
大きな風翼で降りてきた男。
あいつは風翼を置いたあと、
集会場へ向かうと言っていた。
今この街で何が起きているのか。
風が止まり、
移動すらまともにできなくなっている中で、
あいつらが何をしようとしているのか。
俺達がここへ来た目的を考えれば、
そっちを確かめる方が先だ。
「集会場って言ってたな」
「はい。そう言っていました」
ユーリスが頷く。
「なら、俺達も行ってみよう」
「話を聞けるかもしれませんね」
「ああ」
歩き出そうとして。
一度だけ、
背中へ意識が向いた。
もちろん。
そこに羽なんてない。
それでも、
街の隙間を抜けた僅かな風が背中へ触れた時。
あの夕焼けの空を飛んだ感覚が、
ほんの少しだけ蘇った。
俺はそれ以上考えず、
集会場へ向かって歩き出した。




