第296話:風を掴んだ記憶
夕焼けが、
空を赤く染めていた。
高い場所を吹き抜ける風は少し冷たく、
汗で額に張り付いた髪を揺らしていく。
その風を受けながら。
俺は、
地面に座り込んでいた。
「……痛い」
膝がじんじんする。
さっき転んだ時に擦ったところから血が滲み、
手のひらにも細かな砂が食い込んでいる。
肘にも痣ができていた。
たぶん。
明日になれば、
もっと増えている。
今日だけで何度転んだのか、
途中から数えるのをやめた。
それでも帰る気にはなれなかった。
顔を上げる。
夕焼けの中を、
何人もの人が飛んでいる。
高い建物から飛び出し、
大きな羽で風を受け、
そのまま向こう側へ渡っていく。
上から下へ。
下から上へ。
歩いている奴らと変わらない。
俺より小さそうな奴まで。
「……くそ」
背中に力を入れる。
左右の羽が、
地面を擦りながら広がった。
ちゃんと動く。
羽先まで力も入る。
少し前までは、
こんなに大きくなかった。
背中から生え始めた頃はまだ小さくて、
どれだけ動かしても身体を浮かせられるようなものじゃなかった。
だから、
ずっと待っていた。
毎日のように大きさを確かめて。
もう飛べるか。
まだなのか。
早く伸びろと何度も思った。
ようやく羽が生えきった時は、
これで飛べると思った。
兄貴みたいに。
高いところから飛び出して。
風に乗って。
どこへだって行ける。
そう思っていたのに。
「……なんで飛べないんだよ」
今日。
初めて飛ぼうとした。
走って。
地面を蹴って。
羽を思い切り動かした。
最初は少しだけ身体が浮いた。
嬉しくなって、
もっと強く羽ばたいた。
その直後には地面へ落ちた。
肩から転がった。
次はもっと勢いをつけた。
また落ちた。
羽をもっと速く動かせばいいと思った。
顔から地面に突っ込んだ。
……何度やっても同じだった。
身体中が痛い。
膝なんて曲げるだけでも傷が引っ張られる。
それでも。
一番腹が立つのは、
痛いことじゃない。
「せっかく……生えきったのに…」
羽を動かす。
夕暮れの風が、
羽毛の間を抜けていった。
待っていた。
ずっと。
羽さえ大きくなれば、
自然に飛べるものだと思っていた。
なのに…。
生えきった。
ちゃんと動く。
それでも飛べない。
「まだやるのかい?」
後ろから声がした。
振り返る。
兄貴が立っていた。
夕日を受けた金色の髪が、
風に揺れている。
「……やる」
「もう結構転んだと思うけど?」
兄貴の目が、
俺の膝から腕へ動く。
「痛そうだ」
「痛くない」
「それは嘘だね」
「痛くない!」
立ち上がった途端、
膝の傷が引き攣った。
「っ……」
思わず顔が歪む。
兄貴が笑った。
「ほら、痛そうだ」
「……うるさい」
腹が立つ。
兄貴は、
昔からこうだ。
分かっているくせに聞く。
俺が意地を張っているのも分かっている。
でも…。
本当に嫌なことは、
何度も言わない。
「今日はやめる?」
「やめない」
「そっか」
それだけだった。
帰れとも。
もう無理だとも言わない。
兄貴は俺の隣まで来ると、
同じように夕焼けの空を見上げた。
ちょうど頭上を、
二人飛んでいく。
楽しそうな声が聞こえた。
胸の奥が、
またむかむかしてくる。
「……俺より小さい」
「そうだね」
「飛んでる」
「飛んでるね」
「…俺は飛べない」
「今のところはね」
その言い方が気になった。
「今のところ?」
「うん」
兄さんが俺の羽を見る。
「羽はちゃんと生えきってる」
「そんなの分かってる」
「動かせる?」
返事の代わりに、
大きく広げてみせる。
羽先まで開く。
兄貴の髪が、
巻き起こった風で揺れた。
「動く」
「うん。問題なさそうだね」
「じゃあなんで飛べないんだよ」
「飛び方が下手だからじゃない?」
「……」
殴ろうかと思った。
俺の顔を見て、
兄貴が笑う。
「そんな顔しないでよ」
「お前がバカにするからだ!」
「バカにしてないよ?事実さ。
だって羽は悪くないんだから、
残ってるのは君だろ?」
「ふんッ…。
…教える気あるのか?」
「あるよ」
全然そうは聞こえない。
けれど。
兄貴は俺から離れると、
高台の端へ歩いていった。
その先に柵はない。
足元から先には、
夕焼けに染まった空が広がっている。
ずっと下には建物が並び、
その間を何人もの人が飛んでいた。
兄貴は端で立ち止まる。
「さっきまで、どうやって飛ぼうとしてた?」
「普通に」
「普通じゃ分からないよ」
「走って、跳んで、羽を動かした」
「ずっと?」
「飛ぶんだから当たり前だろ」
「ああ」
兄さんが納得したような声を出す。
「なら、それだね」
「何が?」
「動かしすぎ」
「……は?」
兄貴は答えず。
そのまま一歩、
高台の外へ出た。
身体が落ちる。
すぐに背中の羽が開いた。
大きく一度。
羽ばたく。
もう一度。
それだけで、
落ちていた身体が前へ進んだ。
そこから先。
兄貴は羽ばたかなかった。
羽を広げたまま。
風に身体を預ける。
夕焼けの中を大きく回り、
俺のいる高台の前まで戻ってきた。
落ちない。
羽はほとんど動いていない。
「ほらね?」
空に浮かんだまま、
兄貴が言う。
「ずっと動かしてないだろ?」
「……なんで落ちないんだよ」
「風があるから」
風。
言われて。
頬に触れているものを意識する。
ずっと吹いていた。
服を揺らし。
髪を揺らし。
今も。
開いたままの俺の羽へ、
横から当たり続けている。
「羽だけで飛ぶんじゃない」
兄貴の身体が、
風に押されて少し上がった。
「風が来てるんだから、それを使えばいい」
「……どうやって?」
「まずは、全部自分でやろうとしないことかな」
兄貴が笑う。
「少しくらい、風に任せてみなよ」
簡単に言う。
落ちるのは俺なのに。
でも。
もう一度、
空を見る。
赤く染まった空を。
そこを飛んでいる人達を。
背中の羽を広げる。
風が当たった。
羽毛の表面を撫でるだけじゃない。
下から。
横から。
場所によって、
押してくる強さが違う。
「……」
高台の端まで歩く。
下を見ると、
やっぱり怖い。
何度地面で転ぶのとは訳が違う。
ここから落ちれば、
痣じゃ済まない。
「兄貴…」
「うん?」
「…落ちたら助けろよ」
「もちろん」
今度は笑わずに答えた。
一度だけ、
深く息を吸う。
羽を広げ、
前に出る。
風が来る。
地面を蹴った。
足の下から、
白い石が消えた。
「――っ!」
身体が落ちる。
腹の奥が持ち上がる。
怖い。
羽を動かさないと。
そう思って力を入れかけた。
でも。
さっきの言葉を思い出す。
『全部、自分でやろうとしなくていい』
羽を広げた。
風がぶつかる。
一気に。
背中から腕まで、
引っ張られるような力が伝わってきた。
落ちる速度が弱くなる。
さらに羽を開く。
風が下へ入り込んだ。
身体が前へ進んだ。
「……!」
落ちてない。
少しずつ高さは下がっている。
それでも。
地面へ真っ直ぐ落ちていない。
風に押されて。
俺の体が、
空を進んでいる。
「飛ん、でる…? 兄貴!」
「いるよ」
すぐ横から返事がした。
いつの間にか、
俺と同じ高さを飛んでいた。
手は出していない。
少し離れたところで、
こっちを見ている。
「そのまま」
「分かってる!」
「前見て」
「見てるって!」
顔を上げる。
夕焼けが、
さっきより近かった。
いや、
違う。
俺が。
空にいる。
建物が横にある。
下にも道がある。
頭上を飛んでいた奴らと、
同じ場所にいる。
風が羽を持ち上げる。
身体の重さを、
空が受け止めてくれている。
「飛んでる」
声が出た。
「俺、一人で飛んでる!」
「うん」
兄貴が笑った。
「ちゃんと飛べてるよ、ルクス」
ーーーーー
「エア?」
声が聞こえた。
誰だ?…。
さっきまで頬に当たっていた風も、
夕焼けの光も、
どこかへ消えている。
代わりに。
頭の奥が、
ずきずきと痛んだ。
「……っ」
思わず片手で頭を押さえる。
「エア、大丈夫ですか?」
もう一度。
今度は、
はっきりと声が聞こえた。
知らないはずなのに、
知ってる声だ…。
名前を思い出すより先に、
顔を上げる。
目の前にいたのは、
少女だった。
でも…。
今、
そこにいるのが誰なのかは分かっていた。
金色の髪じゃない。
大きな羽もない。
夕焼けを背負って、
空を飛んでいた姿でもない。
それなのに。
「……兄貴」
口から。
勝手に、
その言葉が出た。
「……」
ルクナスの表情が止まった。
いつもの笑みも。
軽い返事もない。
ただ、
俺の顔を見ている。
「……え」
小さく漏れた声は、
今まで聞いたことがないほど素のものだった。
街のざわめきだけが、
妙に遠く聞こえる。
「ここは…………」
自分の声で。
ようやく意識が追いついた。
視界に入っているものが、
少しずつ意味を取り戻していく。
白い建物。
石畳。
広場に集まった耳の長い人達。
夕焼けじゃない。
あの場所でもない。
俺は……。
「……何してるんだ?」
自分が頭を押さえていることにも、
今になって気付いた。
目の前にいるのは少女だ。
…マリス。
「マリス……?」
そうだ。
マリスだ。
今は、
その身体をルクナスが借りている。
そこまで思い出して。
さっき自分が口にした言葉が、
遅れて頭の中へ戻ってきた。
兄貴。
「……」
もう一度、
ルクナスを見る。
こいつを。
俺は今…兄貴と呼んだ?
「……なんだ、今のは……」
頭の奥が、
まだずきずきと痛んでいる。
その痛みの向こうに、
さっきまでの感覚が残っていた。
夕焼け。
傷だらけの身体。
背中に生えた羽。
何度飛ぼうとしても地面へ落ちて。
腹が立って。
悔しくて。
それでも諦められなかった。
そして…、
隣を飛んでいた。
…兄貴。
「……違う」
思わず呟く。
違う。
俺がルクナスを、
そんなふうに呼んだことはない。
こいつと初めて会ったのは、
あの白い場所だった。
そのはずなのに。
さっきまでの俺にとっては。
こいつが兄貴であることを、
疑う理由すらなかった。
昔からそうだった。
ずっと一緒にいた。
飛べるようになるまで、
何度失敗しても付き合ってくれた。
そんな記憶が…。
自分のことみたいに残っている。
「エア?」
声に顔を向ける。
ユーリスが、
心配そうに俺を覗き込んでいた。
「ユー……リス?」
口から名前が出るまで、
ほんの少し時間がかかった。
その瞬間。
目の前の景色が、
完全に今のものへ戻った気がした。
「エア、本当に大丈夫ですか?」
「ッ…、…大丈夫だ」
答えてから、
少し迷う。
身体は動く。
頭の痛みも、
少しずつ引いている。
けれど。
何が起きたのかは、
まるで分からない。
「……多分な」
「多分って……」
「俺にも…分からないんだ…」
頭から手を離す。
手を見る。
傷なんてない。
膝も痛くない。
当然だ。
それでも。
さっきまであったはずの痛みが、
まだ身体のどこかに残っている気がする。
地面へ何度も転がった痛み。
羽を動かした感覚。
風がその下へ入り込み、
身体を持ち上げた時の感覚まで。
夢を見た。
そんな曖昧なものじゃない。
俺は……あそこにいた。
「……ルクナス」
呼びかける。
今度は。
兄貴ではなく、
いつもの名前で。
ルクナスは、
まだ俺を見ていた。
「……」
返事がない。
「ルクナス?」
「……ああ」
そこでようやく、
ルクナスが反応した。
「ごめん。ちょっと……」
珍しく、
言葉が途中で止まる。
俺の顔を確かめるように見てから、
ルクナスは僅かに眉を寄せた。
「……今の君は…エア、だよね?」
「…は?」
何を言ってるんだ。
「…当たり前だろ」
「……そう」
返ってきた声には、
いつもの軽さがなかった。
むしろ。
それを聞いて、
確認しているように見えた。
「なんだ?」
「いや……」
ルクナスが言いかけて、
また止まる。
こんなこいつは、
ほとんど見たことがない。
「……ルクナス」
今度は俺から聞く。
「今のは……何だ?」
「今の……?」
「見えたんだ」
「何が?」
「お前がいた…」
その一言で。
ルクナスの顔から、
完全に笑みが消えた。
「……僕が?」
「ああ、もっと若かった」
頭の中に残っている景色を、
一つずつ拾う。
「夕焼けの中で……俺は子供だった。
身体中、傷だらけで……背中に羽が生えてた」
ルクナスが動かない。
「何度やっても飛べなくて」
「……」
「そこにお前が…」
そこまで言った時。
ルクナスの目が、
僅かに見開かれた。
「……それを」
声が低くなる。
「君が…見たの?」
「ああ。
見たっていうか……。
感覚も、焦りも、…全部あった」
「……」
ルクナスが、
完全に黙った。
今度の沈黙は、
さっきまでとは違った。
驚いている。
少なくとも、
俺にはそう見えた。
ルクナスは俺を見たまま、
しばらく何も言わなかった。
何かを確かめるように。
俺の顔を見ている。
そして。
「……ルクス」
その名前を。
ルクナスは、
小さく口にした。




