第295話:羽の名残
「……仕方ない。さっき言ってた店でも行くか」
さっきの二人が指していた方へ向かおうと、
足を踏み出す。
結局、
何をするにもまずは、
街のことを知らないと始まらない。
あの二人なら風がおかしくなった時期や、
今どうなっているのかも多少は知っているだろう。
その時だった。
頬を撫でる感触に、
足が止まる。
「……風?」
ユーリスの髪も、
ほんの少しだけ揺れていた。
谷へ入ってからほとんど感じなかった風が吹いている。
強いものではない。
肌を撫で、
服の裾を揺らす程度のものだ。
周囲の植物も、
微かに葉を鳴らしている。
「おい!」
突然、
少し離れた場所から大きな声が上がった。
「まさか……飛ぶ気か!?」
(何の話だ?)
声のした方を見ると、
一人だけではなかった。
道を歩いていた者も。
店先で話していた者も足を止め、
同じ方向を見上げている。
最初は風が吹いたから騒いでいるのかと思った。
だが、違う。
「今は風がないぞ!」
「やめろ!無茶だ!」
声につられて顔を上げる。
遥か上空。
谷の間に浮かぶ島の一つ。
その縁に、
誰かが立っていた。
距離があるせいで顔までは分からない。
それでも、
崖際に立っていることだけは見て取れる。
「何してるんだ、あいつ……」
俺の疑問に答えるように、
そのエルフが後ろへ下がった。
数歩。
そこで止まり、
今度は勢いよく走り出す。
(…まさか)
そう思った時には、
もう遅かった。
エルフは浮島の端を蹴り、
そのまま空へ飛び出した。
「おい!」
身体が落ちていく。
下には谷がある。
落ちれば、
どうなるかなんて考えるまでもない。
思わず前へ出かけたところで。
空中のエルフの背後から、
何かが大きく広がった。
―――バサッ!
「……羽?」
左右へ伸びたそれが風を受け、
落下していた身体を前へ運んでいく。
羽をよく見れば。
何本もの細い骨組みがあり、
その間に布のようなものが張られている。
背中から腰にかけて身体へ固定され、
そこから伸びた綱を両手で握っていた。
「あれ、何にゃ?」
ミリカも初めて見るらしく、
空を見上げたまま耳を立てている。
「分からん。
……飛んでるのか」
落ちているだけじゃない。
僅かな風を大きな翼で受けながら、
浮島から離れていく。
高度を失いながらも前へ進み、
谷を越えてこちら側へ向かってきている。
それ自体には、
この街の者達も驚いているようだった。
「何だ、あれ!?」
「あれも『風翼』なのか?」
「でかすぎるだろ!普通のと全然違うぞ!」
風翼。
どうやら、
ここには空を移動する道具そのものは、
前からあるらしい。
だが、
今飛んでいるものは違う。
普通よりも遥かに大きいらしく、
周囲からも「あんなもの見たことがない」という声が飛んでいる。
今の弱い風でも飛べるように作ったのか…。
そう考えた直後。
大きな翼が片側へ傾いた。
「危ない!」
人々の声が重なる。
飛んでいるエルフの身体が横へ流され、
高度が一気に落ちる。
風が足りないのか。
翼がどれだけ大きくても、
受ける風そのものが安定していないのだろう。
身体を支えていたはずのものが、
突然なくなったように落ち。
次に風を拾うと、
今度は反対側へ大きく煽られる。
それでも飛んでいる、本人は諦めていない。
身体を傾け。
綱を引き。
何度も翼の向きを変えている。
落下するたびに立て直しながら、
少しずつこちらへ近付いてきた。
「……あれ」
行き先が分かってきた。
「こっちに来てないか?」
「来てるにゃ!」
俺達のいる辺り。
正確には、
その少し先にある広場だ。
周囲のエルフ達も同じことに気付いたらしい。
「来るぞ!」
「道を開けろ!!」
その声を合図に、
広場の人々が一斉に動いた。
荷物を抱えた者が走り。
店先にいた者達も壁際へ寄っていく。
中央にいた者が手を振りながら退避を促し、
さっきまで人で埋まっていた場所が見る間に開けていった。
俺達も、
邪魔にならない位置まで下がる。
もう飛んでいるエルフの姿が、
はっきり見えるほど近い。
翼が揺れている。
風を掴んだと思えば失い、
そのたびに高度が落ちる。
どうやって止まる気なのかは分からない。
エルフは前だけを向き、
何度も姿勢を直しながら広場へ突っ込んでくる。
地面まで、
もうほとんどない。
「おい、速いぞ!」
誰かが叫んだ。
エルフが両手の綱を強く引く。
大きな翼の前側が持ち上がり、
石畳すれすれで身体が浮いた。
―――ガッ!
それでも勢いは殺し切れなかった。
両足が地面へ触れ、
そのまま何歩も駆ける。
翼に引っ張られて一度身体が傾いたものの、
どうにか踏ん張り、
最後は片膝を石畳について止まった。
一拍遅れて。
周囲から人が駆け寄る。
「大丈夫か!?」
「怪我はないか!」
「だから無茶だと言っただろ!」
飛んできたエルフは片手を上げ、
自分で立ち上がった。
どうやら怪我はしていないらしい。
俺も少し力を抜く。
だが、
本人は周囲の心配を気にするより先に、
背負っていた器具を外していた。
地面へ広げると、
その大きさがよく分かる。
人の背丈を遥かに越える骨組み。
薄い布が広い面を作り、
何本もの綱や留め具が複雑に繋がっている。
近くへ集まったエルフ達も、
飛んできた本人よりそちらへ興味を移していた。
「何だ、これ?」
「本当に風翼なのか?」
「普通のよりずっと大きいぞ」
「こんなの、いつ作ったんだ?」
やはり、
この街でも見慣れたものではないらしい。
飛んできたエルフは答えず、
骨組みを端から確かめていく。
布の張りを指で押し。
綱を引き。
留め具の一つを何度か動かしてから、
ようやく手を離した。
「……よし」
「よしじゃないだろ!」
すぐ近くから怒鳴られた。
「死ぬかと思ったぞ!」
「今の風で浮島から飛ぶ奴があるか!」
「それより何なんだ、その風翼は!」
質問が一斉に飛んでいるのに、
本人はもう器具には問題がないと判断したらしい。
「ごめん、わるいけど、ここに置いておいてくれ」
「は?」
「頼んだ」
それだけ言い残すと、
人の間を抜けて歩き出した。
「お、おい! どこ行くんだ!」
「集会場」
足を止めずに答える。
そのまま白い建物の並ぶ道へ入り、
すぐに姿が見えなくなった。
残された者達は、
顔を見合わせている。
俺も広場に置かれたままの器具を眺めた。
開いた時は、
本当に大きな羽に見えた。
この街には元から風翼という道具があるようだ。
谷と岩壁に囲まれ、
上下に広がる場所なら、
ああいうものを使って移動するのも不思議ではない。
だが、
風が止まり始めた。
だから、
少ない風でも飛べるように翼を大きくした。
上手く飛べていたとは言い難いが。
浮島からここまで辿り着いたのだから、
失敗とも言い切れない。
昇風機が止まっても。
今まで使っていた風翼が使いにくくなっても。
ここの奴らは、
風が戻るのを待っているだけじゃないらしい。
自分達で、
別の方法を作ろうとしている。
「へえ……」
後ろから声がした。
マリスだが、
話し方が違う。
振り返ると。
マリスの身体を借りたルクナスが、
広場の器具ではなく、
その向こうに広がる街を眺めていた。
「ルクナス?何か気になったか?」
「うん」
いつもの調子で答えたあと。
ルクナスはもう一度、
頭上へ顔を向ける。
岩壁に沿って作られた建物。
高さの違う場所を繋ぐ橋。
その上を行き交う人々。
さらに遠くには、
さっきのエルフが飛び立った浮島が見える。
「町並みもそうだけど……よく似ているね」
「何にですか?」
ユーリスが尋ねた。
「僕たち…、僕の故郷に、ね」
「ルクナスさんの故郷……?」
ユーリスも街を見上げる。
「このような場所だったのですか?」
「いや、こんな谷じゃないよ」
ルクナスはあっさり否定した。
「でも…、
上と下を分けて考えないところは似てる。
道が地面にあるとは限らないし、
上へ行くのも下へ行くのも、
僕達には普通のことだったからね」
言われてみれば。
確かに、
この街はそうだ。
頭上にも別の道がある。
そのさらに上にも橋があり、
岩壁の途中にも建物が続いている。
空に浮かぶ島まで含めれば、
どこからが街の上で、
どこまでが下なのかすら分からない。
「では……」
ユーリスが、
広場に残された大きな翼へ目を移した。
「ルクナスさん達も、
あのようなものを使っていたのですか?」
「ああ、それは使わないよ」
「使わない?」
「うん」
ルクナスは、
何でもないことのように答えた。
「僕たちには羽があったから、
あんなふうに飛んで移動したんだ」
「「……羽?」」
ユーリスの声と、
俺の声が重なった。
思わずルクナスを見る。
「お前……羽があったのか?」
「そうだよ?」
「初めて聞いたぞ」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてない」
「そっか…」
それだけだった。
こいつにとっては、
わざわざ話すほどのことでもなかったのかもしれない。
だが、
俺にとっては違う。
今まで何度も、
ルクナスの姿を見てきた。
あの白い場所で会った時も。
俺と変わらない人の姿にしか見えなかったから、
こいつが元々どんな種族だったのかなんて考えたこともない。
「ルクナスさん達には、
本当に羽があったんですか?」
ユーリスもまだ驚いている。
「うん。だから、
ああいう道具がなくても自分で飛べたんだ」
「…自分で、飛ぶ」
その言葉を聞きながら。
広場に広げられた翼を、
もう一度見る。
羽。
飛ぶ。
その二つが、
頭の中で繋がった時。
浮かんだのは。
俺の最後…。
あの時…。
リヒトとナハトを残し。
生きたまま影と同化した化け物へ、
走った時。
俺は、
自分の全部を火にした。
身体の内側から溢れた炎が、
肉も骨も境界も呑み込み。
最後には、
自分が人の形をしていたのかすら分からなくなった。
その途中。
背中から噴き上がった火が、
大きく左右へ広がった。
羽のように…。
あの時は。
羽が生えたとか、
そんなことを考えている余裕なんてなかった。
目の前には倒さなければならないものがいて。
その後ろには、
リヒトとナハトがいた。
自分がどんな形になっているのか確かめる暇なんてないし、
そもそも最後まで自分の姿を見ることもなかった。
それでも。
炎が背中から広がった時。
邪魔だとも。
妙だとも。
思わなかった。
むしろ、
あれでいいと思った。
どうしてそう思ったのかなんて、
考えもしなかったが……。
火があの形になることが妙にしっくりきていた。
俺の力は火だ。
限界まで出せば、
そういう形にもなる。
その程度にしか考えていなかった。
けれど。
「そういう…こと、なのか…」
口から漏れた言葉に、
ルクナスがこちらを見る。
俺にも分からない。
ルクナス達には羽があった。
そして俺は。
ルクナスの弟だったルクスの残滓から生まれた。
記憶はない。
ルクスとして生きた覚えもない。
それでも。
あの時、
俺の火が羽の形になったことまで。
本当に何の関係もないのか…。
そう考えた時だった。
頭の奥を………、
何かが掠めた。




