第293話:風の向かう先へ
―――ゴォォォッ!!
凄まじい勢いで、雲が後ろへ流れていく。
目の前に広がっていた白い雲の塊が、
あっという間に横を通り過ぎ、振り返る頃にはもう遥か後方へ消えていた。
風が体を後ろへ引っ張り、
顔を上げ過ぎれば、まともに目を開けているのも難しい。
俺達を乗せた竜は、
巨大な翼を広げて空を進んでいた。
遥か下には、青い海。
太陽の光を受けて輝く海面が、
どこまでも続いていた。
俺達が来た大陸は、
もう水平線の向こうに消えた。
「……速いな」
思わず呟いた声も、風に消える。
昨日乗った若い竜より体が大きい分、
背中の揺れも思ったより少ない。
荷物は縄で固定してある。
俺達もそれぞれ掴める場所を確保していたが、
ミリカだけは少しでも端へ寄ろうとして、
そのたびにユーリスから止められている。
「ミリカ、もう少し中にいてください!」
「ちゃんと掴まってるにゃ!」
風に声を持っていかれないよう、
二人とも普段より大きな声で話している。
そのやり取りを聞きながら前を向いていると、
後ろからセレスの声がした。
「エア」
「何だ?」
「……本当に、あの名でよかったのか?」
「あの名?」
「……ダクだ」
少しだけ振り返る。
セレスは聖杭槍杖を身体の横へ固定し、
片手で竜の鱗を掴んでいた。
「変だったか?」
「そうは言っていない。ただ……随分、すぐに決めたように見えた」
「ああ」
確かに。
あの場では、
それほど長く悩まなかった。
けれど、
適当に付けたわけでもない。
「ダックから取ったんだ」
「それは分かるが……」
ユーリスも会話が聞こえたらしく、
こちらへ顔を向ける。
「そのままダックにする気はなかった」
風が一度強く吹き、
服の裾が大きくはためく。
俺は姿勢を低くしながら、
前に続く海を見る。
「ダックはダックだからな」
あいつと同じ名前を付ければいいとは思わなかった。
目の前で生まれたあいつは。
ゼグの子で。
これから自分で生きていく竜だ、
昔のダックの代わりじゃない。
「じゃあ、どうしてダクなんですか?」
ユーリスが聞く。
「ダックの名前を少し残したかった。
それと、ゼグみたいに短い名前の方が竜には合う気がした」
「……なるほど」
「ダックから一音落として、ダク。それだけだ」
言葉にすると簡単だった。
でも、
俺の中では、それだけでもなかった。
竜がダックから続いている。
記憶まで受け継いでいる。
それでも。
実際に卵が産まれて、
殻が割れて。
そこから小さな竜が自分の脚で立つところを見た。
飛べなかった鳥には翼が生え。
今では俺を乗せて、
海まで飛んでいる。
それでも。
生まれ方まで、
あいつから残っていた。
「……覚えててほしいんだよ」
口にすると、
セレスが少し黙った。
「何をだ?」
「覚えていてほしいんだ」
風の音が耳の横を抜けていく。
「今いる竜達は、俺のことを父って呼ぶ。
ダックから何が始まったのかも、形は違っても覚えてる」
でも、
それがずっと続くとは限らない。
竜達自身が言っていた。
古い記憶ほど薄くなる。
若い竜は、
人と竜が昔戦ったことは知っていても、
何故そうなったのかまでは分からなかった。
ダックのことだって。
いつか……。
ただ『始まりにいた何か』くらいになってしまうかもしれない。
「俺のことは別にいい」
言いながら、
自分でも少し笑った。
「でも、ダックは覚えててほしい」
一羽の鳥だった。
神でも、王でもない。
世界を守ろうとしていたわけでもない。
ただ俺達と一緒に暮らして。
走って。
食って。
たまに面倒を起こして。
それでも。
あいつがいたから、
今の竜達がいる。
「だから、あいつの名前を少しだけ残した」
それだけ言うと。
しばらく誰も返事をしなかった。
最初に口を開いたのはミリカだった。
「いい名前にゃ」
「急に素直だな?」
「最初からいいと思ってたにゃ!」
「本当か?」
「本当にゃ!」
少し離れたところで、
マリスも風に髪を揺らしながら前を向いている。
「……ダク」
小さく名前を口にして。
「……いいと思う」
「そうか」
ユーリスも笑った。
「ちゃんと意味があるんですね」
「大した意味じゃないけどな」
「十分ですよ」
最後にセレスを見る、
セレスはしばらく何も言わなかったが。
やがて。
「なら…いい」
「何だよ、その言い方」
「貴様が納得して付けたなら、それでいいと言っている」
「最初からそう言え」
「今言った」
「相変わらずだな……」
前へ向き直る。
竜の翼が大きく空気を掴んだ。
―――バサァッ!!
身体がふわりと持ち上がる。
それから、
どれくらい飛んだだろう。
海しかなかった景色の先に。
少しずつ、
陸が見え始めた。
「あっ!」
ユーリスが前を指差す。
「見えてきました!」
海の向こう。
大陸。
久しぶりというほど離れていたわけじゃない。
むしろあっという間だった。
それでも。
竜達の暮らす土地を離れ、
こうして戻ってきたと思うと妙な感じがした。
海岸線を越える。
下に広がっていた青が緑へ変わり、
その先には山が連なっていた。
ただ。
以前まで見てきた山とは、
少し違う。
平らな土地が少ない。
切り立った岩壁、
その間を深く抉る谷。
遠くへ進むほど、
地面そのものが大きく裂けたような地形が増えていく。
そして、
そのさらに奥。
雲の間に、
何かが浮いていた。
「……あれは?」
思わず目を細める。
岩。
いや。
島……なのか?
地面から完全に離れた巨大な岩塊が、
遠い空に浮いている。
その周囲にも、
いくつか小さな影。
岩の上には。
何かがある。
建物……?
ここからでは、
よく分からない。
「すごい……」
ユーリスが目を細めた。
ミリカも身を乗り出す。
「浮いてるにゃ……」
「見れば分かる」
「セレスは驚かないのかにゃ?」
「驚けばすべて分かるのか?」
「そう言う事じゃ…、
お前やっぱ嫌いにゃ…」
そんな声を聞いていた、
その時。
俺達を乗せていた竜の翼が傾いた。
進路が変わる。
「ん?」
前へ進んでいた身体が大きく旋回し、
高度も少しずつ落ち始めた。
「どうした?」
問い掛けると。
低い声が、
身体の下から響いた。
「父よ…ここまでだ」
「ここまで?」
「…これ以上は近付けぬ」
竜は山々の間へ降りていく。
浮いていた岩も、
その奥に見えた何かも、
少しずつ山陰へ隠れていった。
やがて。
人の気配のない岩山の上。
広く平らになった場所へ、
竜が四肢を下ろす。
―――ズンッ。
僅かに地面が揺れた。
固定していた荷物を外し、
俺達も順番に背中から降りる。
地面へ足をついたミリカが、
すぐに来た方角を振り返った。
「まだ結構あるにゃ」
確かに。
さっき見えた浮いた岩までは、
ここからでもかなり距離がある。
「もう少し近くまで行けないのか?」
俺が聞くと。
竜は首を横へ振った。
「…この先に住む者達は、目が良い」
一度。
遠くの山々へ顔を向ける。
「そして、耳も良い…」
「……なるほど」
あれだけ大きな翼だ。
飛べば風も動く。
音も出る。
俺達が向こうを見つけるより先に、
向こうから見つかるということか。
「…我が近付けば、騒ぎになる」
「まぁ、なるだろうな」
改めて竜を見上げる。
近くで見ると、尚デカい。
こんなものが突然空から現れれば、
何が住んでいようと騒ぎになる。
「ここから歩くしかないか」
「遠いにゃ……」
ミリカが肩を落とす。
「さっきまで飛ぶのを楽しんでただろ」
「飛ぶのと歩くのは違うにゃ!」
「この程度の距離で文句を言うな」
セレスが聖杭槍杖を背負い直す。
ミリカが振り向いた。
「私もこれから歩く。
嫌ならそいつと戻るんだな」
「むぅ……」
言い返せなくなったらしい。
そんな二人を横目に見ていると。
「…父よ」
竜が俺を呼んだ。
「何だ?」
巨大な首が近付いてくる。
その口元。
何かを咥えていた。
俺が手を出すと。
竜はそれを静かに落とした。
「……笛?」
手の中に収まったのは。
角を削って作ったような、
小さな笛だった。
手のひらより少し長い。
黒ずんだ表面には細かな傷があり、
先端には古びた革紐が通されている。
装飾らしいものは、
ほとんどない。
随分、古そうだ。
「これを俺に?、
何なんだ、これ」
竜は少しだけ目を細めた。
「…昔、人と我らが共にあった頃」
その言葉に。
手の中の笛へ目を落とす。
「…人が我らを呼ぶために使っていた」
「竜を?」
「そうだ」
もう一度笛を見る。
ただの角笛にも見える。
これを、
昔の人間達が竜を呼ぶために使っていた。
人と竜がまだ共にいた頃、
その時代の物。
「吹けば、来てくれるのか?」
「…近くにいれば分かる」
「近くなら、か」
「…海の向こうからでも、必ず来いと言うのなら無理だがな」
「竜でもそこまでは聞こえないか」
「…当
俺は革紐を指に掛ける。
今まで、
ずっと竜達のところに残っていたのだろう‥それを、俺に…。
「借りていいのか?」
そう聞くと、
竜は首を横へ振った。
「…貸すのではない」
「ん?」
「…返すのだ、人の手に」
返す。
その言葉に。
一瞬、
手が止まった。
「…父に」
それ以上…、
竜は何も言わなかった。
昔。
今。
俺に返す。
何となく、
意味は分かった。
「……そうか」
革紐を首へ通す。
古びた笛が胸元へ落ちた。
軽い、でも…。
…妙に重く感じた。
「分かった。持っておく」
竜は頷き、
視線が俺の横へ動いた。
「…白火の者よ」
「……何だ」
セレスが顔を上げる。
そういえば、
この竜はセレスの試しで戦った。
しばらく。
二人が見合う。
そして、
竜が言った。
「…次は負けぬ」
「……」
セレスの眉が僅かに動く。
横でミリカが吹き出した。
「覚えられてるにゃ、こいつ負けず嫌いにゃ」
「黙れ」
「…次は、最初からあの火を使え」
セレスの目が少し細くなる。
…そして。
「貴様が耐えられるならな」
竜を前に堂々と言ってのけた。
「…耐える」
「そうか」
聖杭槍杖へ手を添え、
セレスは竜を見上げた。
「なら、次はもう少し長く立っていろ」
「…ただの人の身で、言ったな?」
「ああ」
何だ、
この会話。
「帰る前にまた始めるなよ…」
「始めていない」
「…まだ戦っておらぬ」
「こいつら、仲いいにゃ?」
「「…黙れ」」
ミリカが俺の後ろへ隠れる。
「怖いにゃ…」
「自分で言ったんだろうが…」
ユーリスが口元を押さえ、
マリスも僅かに肩を揺らしていた。
やがて。
竜が翼を広げる。
大きな影が、
俺達の上を覆った。
―――バサァッ!!
強い風。
砂と小石が一気に舞い上がる。
「うにゃっ!」
ミリカが頭を押さえる。
俺も腕で顔を庇った。
次に目を開けた時。
巨大な身体は、
もう空へ浮かんでいた。
一度。
俺達の頭上を大きく旋回する。
それから。
海の方角へ身体を向けた。
「……またな!」
声を上げる。
届いたのかは分からない。
竜はそのまま翼を打ち。
少しずつ。
小さくなっていった。
胸元で、古びた笛が風に揺れる。
ダク。
ゼグ。
ガァナ。
それから、
あそこにいた竜達。
今はもう
海の向こうだ。
それでも、
完全に離れたわけじゃない。
そのための物を、
一つ残していった。
「エア」
ユーリスの声。
振り返る。
その向こう。
岩山の隙間。
遥か遠くに。
さっき見えた浮いた岩の一部が、
雲の間から覗いていた。
「ここからですね」
「ああ」
風が吹く。
海の上で浴びていたものとは違う。
知らない流れ、匂い。
その先に。
俺達の次の目的地がある。
俺は最後に一度だけ、
海の方を見る。
竜の姿はもう見えなかった…。
だから、
前へ向き直る。
「行くか」
俺達は。
岩と谷の続く先へ歩き出した。




