第292話:生きる前に
それから…。
子供達も、
少しずつ近付いてくる。
最初は遠巻きに様子をうかがっていたが、
ガァナが止めないと分かると、
一頭、また一頭と卵の周囲へ集まり始めた。
鼻先を伸ばす者もいれば、
その後ろから首だけを出して覗き込んでいる者もいる。
さっきまで張り詰めていたものがほどけたのは、
俺達も同じだった。
「おめでとうにゃ!」
最初に声を上げたのはミリカだった。
耳を真っ直ぐ立て、
今にも駆け寄りそうな勢いだったが、
周囲の竜達を見て足だけは止めている。
それでも尻尾は抑えられないらしく、
身体の後ろで大きく左右へ揺れていた。
「卵にゃ!本当に竜の卵にゃ!」
「……貴様が産んだわけではない」
「でも、初めて見たにゃ!」
まあ、
それは俺も同じだ。
竜が一頭で卵を産むということ自体、
ついさっき知ったばかりなのだから。
マリスは騒ぐミリカの横を抜けると、
伏せたゼグの近くまで歩いていった。
勝手に身体へ触れることはせず、
少し離れたところで荒い呼吸を繰り返している様子を確かめている。
「……水、いる?」
ゼグが顔を少しだけ動かした。
それを返事と受け取ったのか、
マリスは近くの岩のくぼみへ手を向ける。
指先から流れた水がそこへ溜まり、
ゼグはしばらくしてから首を伸ばした。
「……お疲れさま」
短い言葉だった。
ゼグは水を飲みながら、
喉の奥で小さく音を返した。
その少し後ろでは、
セレスが聖杭槍杖を下げたまま卵を眺めている。
「先日まで貴様と殴り合っていた竜が、
今は卵を産んでいる…。
…妙な気分だな」
「素直に喜べよ、セレス」
「よろ、こぶ?…私がか?」
少なくとも、
いつものように竜を警戒して睨んでいる顔ではなかった。
セレスは卵からゼグへ顔を移した。
「……無事でよかったな」
ゼグが大きな目を一度だけ動かす。
「…問題ない」
「ならばいい…」
それだけ返すと、
セレスはそれ以上近付かなかった。
その横を。
今度はユーリスが、
ものすごく慎重な足取りで前へ進んでいく。
「すごい……」
さっきまでとは声が違う。
卵を見つめる目が、
完全に何かを調べている時のものになっていた。
「殻の模様までゼグに似てますね。
輸送鳥の場合も産んだ個体によって少しずつ違いがあるんですけど……大きさは全然違う。
でも形そのものはかなり近いような……」
「ユーリス」
セレスが呼ぶ。
「はい?」
「近いぞ」
「あっ」
いつの間にか卵へ顔を寄せていたらしい。
ユーリスは慌てて一歩下がった。
「す、すみません。つい……」
「貴様の研究材料ではない」
「分かってます。でも、これ……かなり重要なんですよ」
まだ卵から目が離れない。
「竜の繁殖について直接見た人間なんて、
ほとんどいないはずです。
それに輸送鳥との共通点まで――」
そこまで言った時だった。
―――コツ。
小さな音がした。
「……ん?」
ユーリスの言葉が止まった。
俺も卵を見る。
―――コツ……コツ。
今度は、
はっきり聞こえた。
殻の中から、
何かが叩いている。
「え?」
「もう生まれるにゃ?」
ミリカの耳がぴんと立つ。
「えぇ!?もうですか!?」
ユーリスまで卵へ身を乗り出しかけた。
「産まれたばかりですよね?こんなに早く……」
セレスも卵へ目を落とす。
「普通、卵というものはしばらく時を置くのではないのか?」
「……私も、そう思ってた」
マリスも小さく呟いた。
俺だけは。
殻の中から聞こえてくる音に、
それほど驚かなかった。
―――コツ。
また一度。
内側から殻を叩く音がする。
「……やっぱり、そこも同じなんだな」
「同じ?」
ユーリスが俺を見る。
「ああ。ダックもそうだった」
あいつを見つけた時。
俺は親の腹の中から出てきた卵を、
食えるかどうか確かめるつもりで手に取った。
その直後だった、
殻にヒビが入って。
ほとんど待つ間もなく、
中からダックが出てきた。
ヒナみたいな姿でもなかった。
親をそのまま小さくしたような身体で、
殻を割った直後にはもう自分の脚で立っていた。
当時は、
それが普通なのかどうかなんて考えもしなかった。
生き物のことを詳しく知っていたわけでもない。
ただ、
そういう奴なのだと思っていた。
けれど、
竜も産まれて間もなく殻を破る。
姿が大きく変わっても、
こういうところは受け継がれているらしい。
「あの時、
卵を手に持ったと思ったら、すぐ割れた。
輸送鳥は違うのか?」
「そんな……」
ユーリスは卵へ目を戻す。
驚いているのに、
その奥ではもう何かを考え始めているらしく、
視線が殻の形からゼグ、
それから周囲にいる竜達へと忙しく動いていた。
「輸送鳥も孵化までがかなり早いですけど……。
これって、やっぱりダックから受け継いだ性質なんでしょうか」
「多分な」
「それなら、沢山育ちそうにゃ」
ミリカが感心したように呟く。
その時。
―――ピシッ。
卵の表面へ、
細い線が走った。
「割れたにゃ!」
「本当にもう……!?」
今度こそユーリスが声を上げた。
セレスも何も言わず、
聖杭槍杖を持つ手を下げたまま卵へ意識を集中させている。
マリスも俺の横から、
殻に広がっていくヒビを追っていた。
俺には。
その光景そのものが、
懐かしかった。
同じ卵ではない。
中にいるのもダックじゃない。
けれど。
―――ピキ……ピキッ。
内側から少しずつ殻を押し広げていく音を聞いていると、
焼けた森の中で両手に抱えた卵が割れた時のことを思い出す。
あの時は…。
何が出てくるかも知らなかった、
今は違う。
この中には、
ダックから遥か先へ続いた命がいる。
「……出てこい」
無意識に声が漏れた。
―――カラ……。
小さな殻の欠片が砂へ落ちる。
周囲の子供の竜達も、
首を伸ばしたまま動かない。
ゼグは伏せた身体を起こすことなく、
卵を見守っている。
ガァナ達にとっては、
何度も見てきた光景なのだろう。
それでも。
誰一頭として、
この瞬間を雑には扱っていなかった。
―――パキンッ!
殻の上部が、
内側から押し上げられる。
そこから。
小さな頭が現れた。
「……!」
ユーリスが息を飲む。
黒に近い鱗。
短い角。
まだ小さいとはいえ、
形そのものは紛れもなく竜だった。
「ヒナとかじゃないにゃ……」
「最初から、この姿なんですね……」
ユーリスの声が震える。
俺はそれを見ながら、
小さく笑った。
殻の中の小さな竜が身体を捻る。
―――カラカラッ。
前脚が出る。
小さい翼。
尾。
後ろ脚。
最後の殻を押し退けると、
小さな身体が砂の上へ出た。
一度だけ揺れた。
それでも倒れない。
自分の脚で立つ。
「もう立ったにゃ!」
「本当に……」
ユーリスは、
それ以上の言葉が出てこないようだった。
生まれたばかりの竜は、
小さいだけで姿そのものはもう完成している。
あとは、
この身体のまま大きくなっていくのだろう。
「ギャウッ!」
高い声が岩棚へ響いた。
その声に応えるように。
周囲の竜達の胸から、
低い鳴き声が一つ、
また一つと重なっていった。
岩棚のあちこちへ広がり、
遠くの崖から返ってくる。
生まれたばかりの小さな竜は、
その音の中で何度か頭を動かし、
まだ少し頼りない脚で砂を踏んでいた。
「……元気」
マリスが、
ほんの少し口元を緩める。
「ああ」
セレスも少し離れた場所から、
小さな竜とゼグを交互に眺めていた。
「産まれた直後とは思えんな…」
俺も、
小さな身体を目で追う。
黒に近い鱗。
短い角。
小さな翼。
ダックとは何もかも違う。
それなのに。
あいつから途切れず続いてきたものが、
目の前で自分の脚を使って歩き始めている。
俺がいなくなった後も。
ダックは生きて、
卵を残し。
そこからまた次の命へ繋がり、
ここにいる竜達まで続いてきた。
そう思うと。
胸の奥に、
じんわりと温かいものが広がった。
小さな竜が、
ゼグの鼻先へ近付く。
ゼグは大きな身体を伏せたまま、
そっと頭を下げた。
鼻先同士が触れる。
「ギャウ」
高い声が返った。
その光景を眺めていると、
ガァナが俺の隣へ来た。
「…父よ」
「何だ?」
ガァナは、
生まれたばかりの竜へ顔を向ける。
「…名を与えてくれ」
「俺が?」
思わず聞き返した。
すると今度は、
ゼグまでこちらへ顔を向ける。
まだ疲れているのか、
呼吸は少し深い。
それでも。
声は、
はっきりしていた。
「…父に、頼みたい」
「ゼグもか……」
二頭に頼まれると、
さっきまでとは違う重さが胸へ乗った。
名前なんて。
昔は、
そこまで大したものだと思っていなかった。
ダックの時だってそうだ。
ルゥに何度も言われて。
仕方なく付けた。
呼べればいい、
その程度だった。
けれど、
今は違う。
あの時。
何気なく名前を与えた一羽から。
こんなにも長く命が続いた。
俺が付けた名前そのものが残ったわけじゃない。
けれど。
あの時に始まったものの先が。
今。
また俺の前にいる。
「……名前か」
生まれたばかりの竜が、
いつの間にか俺の方へ歩いてきていた。
ゼグの記憶を受け継いでいるからなのか。
俺の前へちょこんと座り、
何かを確かめるようにこちらを見上げている。
しゃがみ込み。
目の高さを合わせる。
向こうも、
じっと俺を見る。
「……よし」
少し考える。
既に俺とダックの名は薄く…残っていない。
あいつから続いた命だということだけは、
どこかに残したい。
俺は一度、
目を閉じた。
そして。
「名前は――」




