第290話:風の止まる場所
若い竜の身体が傾き、
岩棚へ向かって高度を落としていく。
遠くまで広がっていた海が少しずつ崖の向こうへ隠れ、代わりに竜達の暮らす岩棚が近付いてきた。
地上では、
俺達が戻ってくるのに気付いた子供の竜達が走り回っている。
さっきまで下から追い掛けていた連中だ。
こちらへ向かって首を伸ばし、
ある程度まで翼の育った者は何度か地面を蹴って浮かび上がろうとしていた。
「……お前ら、本当に元気だな」
言ったところで、
若い竜の翼が大きく開く。
―――バサァッ!!
空気が一気に下へ叩き付けられ、
砂と細かな石が岩棚の上を走った。
重心が前へ引かれ、
咄嗟に首元の鱗へ手を添える。
「おっと……!」
後ろ脚が地面を捉え、
続いて前脚が岩へ着いた。
若い竜はそのまま数歩走って勢いを殺し、
ようやく身体を止める。
「……着いたか」
足元を見る。
さっきまで遥か下にあった岩棚が、
もう手を伸ばせば届く場所へ戻っている。
空から降りてしまうと、
何となく少し物足りない。
「父……着いた」
若い竜が少しだけ首を動かす。
「ああ」
返事をしてから、
すぐには降りなかった。
もう一度空を見る。
「……また今度、乗せてくれ」
「父、飛ぶ!」
急に声が弾んだ。
「そうだな。でも今度は最初から飛ぶって言え」
「飛ぶ!」
「今じゃない」
やっぱり細かい話をするだけ無駄なのかもしれない。
首の付け根から身体を滑らせ、
岩へ足を着ける。
長い間、
揺れる背中に乗っていたせいか、
地面へ降りたはずなのに身体の奥だけがまだ空を滑っているような感覚が残っていた。
そこへ。
「エア!」
聞き慣れた声が飛んでくる。
振り向くと、
ミリカが尻尾を大きく揺らしながらこちらへ走ってきた。
その少し後ろを、
マリスも歩いてくる。
「飛んでたにゃ!」
「見れば分かるだろ」
「すごかったにゃ!エア、最初叫んでたけど途中から楽しそうだったにゃ!」
「……聞こえてたのかよ」
「丸聞こえにゃ!」
満面の笑顔だった。
嫌なところを、
しっかり見ている。
「『止まれぇぇぇ!』って聞こえたにゃ!」
「真似しなくていい……」
「でも最後、笑ってたにゃ?」
「まあな」
否定するほどでもない。
実際、
途中からはかなり楽しかった。
ミリカは俺の周りを一度ぐるりと回ると、
上から下まで確かめるように眺めた。
「落ちなかったにゃ?」
「落ちたら今ここにいないだろ…」
「エアなら落ちても平気そうにゃ!」
「どういう扱いだ、それ……」
「いつものエアにゃ!」
「お前なぁ……」
横へ目をやると、
マリスが俺とその後ろにいる若い竜を交互に見ていた。
それから、
少しだけ笑う。
「エア……顔、楽しそう」
「そんな顔してるか?」
「…してる」
自分では分からない。
けれど、
さっきまで頬を抜けていた風や、
空へ持ち上げられる感覚を思い出すと、
確かにまだ少し残っていた。
「あれは悪くなかった」
そう言うと、
後ろの若い竜が嬉しそうに喉を鳴らす。
「父。飛ぶ!」
「今は飛ばない」
「飛ぶ!」
「また今度だって言ってるだろ」
「肉!」
「さっき食ったろ!?」
さっきまで子供達に囲まれて散々だった。
また肉を焼けば、
今度は何頭増えるか分からない。
次こそ…本当に潰されそうだ。
その時。
岩場の向こうから、
複数の足音が近付いてきた。
「ん?…あいつらも、ちょうど戻ってきたか?」
そちらへ顔を向ける。
岩の陰から最初に姿を見せたのは、
ユーリスだった。
両腕いっぱいに薪を抱えている。
その後ろから、
同じように枝をまとめたセレスが歩いてきた。
「エア?」
ユーリスが俺を見る。
次に、
俺のすぐ後ろへ立っている若い竜へ目を移し、
さらに上空を回るガァナを見る。
最後に。
妙に楽しそうな顔をしているミリカへ視線が止まった。
「……何があったんですか?」
「飛んでたにゃ!」
俺が答えるより早く、
ミリカが声を上げる。
「エア、竜に乗って飛んでたにゃ!」
「えっ……えぇえええええ!?」
ユーリスの足が止まった。
口を開けたまま目を輝かせ、
俺と若い竜を何度も見比べている。
隣では、
セレスの眉が僅かに動いた。
「……貴様」
「何だよ?」
セレスは俺ではなく、
その後ろの若い竜を一度見上げた。
「薪を拾っている間に、何をしていた?」
「俺がやったんじゃない」
「何がだ?」
「こいつが勝手に乗せた」
「父。飛ぶ!」
若い竜が横から口を挟む。
セレスはしばらく俺と竜を見比べた後。
「……そうか」
それだけ返した。
(何だ?…その納得したような、していないような顔は…)
ユーリスはまだ驚いたまま、
若い竜を見上げている。
「竜に……乗ったんですか?」
「ああ」
「エア、最初すごかったにゃ!」
「…ミリカ」
「『止まれぇぇぇ!』って――」
「もういい!」
ミリカの笑い声が岩棚へ響く。
その横で、
ユーリスまで口元を押さえた。
「なんか……想像できますね」
「お前まで笑うなよ…」
セレスは何も言わなかった。
だが、
顔を逸らした時。
口元がほんの少しだけ動いたのを、
俺は見逃さなかった。
「……お前も笑ってるだろ」
「笑っていない」
「笑った」
「気のせいだ」
「絶対笑っただろ」
「貴様が勝手に竜へ乗せられて、
空を飛んだだけだろう?。
…何を笑う必要がある」
「…言い方がもう笑ってるぞ」
「知らんな…っ」
こいつ……。
言い返そうとしたところで、
頭上から巨大な翼の音が降ってきた。
俺達は揃って空を仰ぐ。
―――バサァッ!!
大きな翼が空気を叩き、
岩棚の上へ強い風が押し寄せた。
砂が足元を走り、
ユーリスが抱えていた薪を庇うように身体を横へ向ける。
俺も目を細めながら上を見ていると、
最初の巨体が岩場へ脚を着いた。
ガァナだ。
着地した重みが足元まで伝わり、
低い震えが岩の中を抜けていく。
そのすぐ後ろへ、
もう一つの影が降りてきた。
「ゼグも戻ったのか?」
黒に近い鱗を持つ竜が翼を畳みながら、
こちらへ首を向ける。
さらに遅れて、
もう一頭。
そいつには見覚えがなかった。
ガァナ達ほど大きくはない。
さっき俺を乗せていた若い竜より年上には見える。
目を引いたのは、
その鱗だった。
陽を受ける角度によって、
深い緑から淡い緑へ色が変わる。
森の葉を幾重にも重ねたような色で、
岩ばかりのこの場所では妙に鮮やかだった。
「そいつが?」
俺が聞くと、
ガァナが緑の竜へ顔を向ける。
「見つけたのは、この者だ」
さっきまで笑っていたミリカの耳が前へ向く。
ユーリスも薪を抱えたまま一歩近付き、
セレスは俺の隣で槍へ軽く手を掛けた。
戦うためではない。
さっきまでの軽い空気から、
これから聞く話へ意識を切り替えたのだろう。
マリスも少し離れたところから、
緑の竜を見ている。
「どこだ?」
俺が尋ねると、
緑の竜は一度ガァナを見た。
ガァナが促すように顎を動かす。
「遠くはない」
声は若かった。
俺を乗せていた竜ほど片言ではないが、
俺達の言葉へ置き換えるのに少し時間が掛かるらしい。
「山を越えた。さらに、その向こうだ」
「山を越えて……それって、どれくらいですか?」
ユーリスがすぐに聞く。
緑の竜は少し考え、
翼を半分ほど開いた。
「我らなら、一日も要らぬ。人の脚では……知らぬ」
「まあ、そうなるか」
俺達と竜では、
移動する速さが違い過ぎる。
「それで?」
続きを促すと、
緑の竜が遠くの山々へ顔を向けた。
「風が、おかしかった」
その一言に、
マリスが反応する。
「……風?」
「流れぬ風がある。
流れるはずの場所で止まり、
止まるはずの場所で渦を巻く」
緑の竜は一度翼を動かしてから、
畳み直した。
「空そのものが、歪んでいるようだった」
俺はマリスを見る。
マリスはすぐには返さず、
胸元へ指を当てたまま、
緑の竜の言葉を確かめるように遠くを見ている。
「似てる…海の時と」
短い言葉だったが、
それで十分だった。
おびき出す気なのか…。
今のアンカーの近くでは、
周囲を流れるものまでおかしくなる。
海では水だった。
なら、
次は。
「風、か」
口にすると、
ガァナが緑の竜の示した方角へ顔を向けた。
「その地には、風に乗る者達が住む」
「風に乗る者達?」
ユーリスが聞き返す。
今度はゼグが口を開いた。
「人に似た者達だ。
細く、軽い。
崖と谷の間を渡り、風を読みながら生きている」
「翼があるんですか?」
「ない」
「じゃあ、どうやって?」
ゼグは少し考えるように空を見た。
「布のようなものを広げる。
高い場所から風へ身体を預け、
谷の向こうへ渡っていく」
ユーリスの目が少し大きくなる。
「布で空を……」
ミリカの耳も興味深そうにぴんと立った。
「面白そうにゃ」
「遊びに行くんじゃないぞ」
「分かってるにゃ」
そう言いながら、
尻尾は隠す気もなく左右へ動いている。
ガァナが続けた。
「あの地には平らな場所が少ない。
崖と谷が幾重にも続き、
上と下を風で行き来する者達だ」
緑の竜も、
それに続くように口を開く。
「高い場所にも……地がある」
「高い場所?」
俺が聞き返す。
「岩。土。木もある。だが、下と繋がっておらぬ」
「……どういうことだ?」
緑の竜は空へ顔を上げた。
「浮いている」
一瞬。
誰も言葉を返さなかった。
「地面が?」
「そうだ」
ユーリスの表情が、
また少し変わる。
「浮いているんですか?!」
「見た」
こんな世界に来てから、
随分と妙なものには慣れたつもりだった。
海の底に暮らす者達。
空を飛ぶ竜。
昔使っていたただの槍が、
何千年も経って神器になっていたこと。
それでも。
岩や木を載せた地面そのものが空に浮いていると言われれば、
さすがに気になる。
俺は緑の竜へ話を戻した。
「その土地の中に、
風がおかしい場所があったんだな?」
「ある」
緑の竜がはっきり答える。
「谷の奥だ。大きな岩と木が多い。
その辺りだけ、風が従わぬ」
「そこまで入ったのか?」
「近くまで」
緑の竜は首を横へ振る。
「それ以上は入らぬ」
「何で?」
「我を目にすれば、騒ぎになる」
「……まあ、そうだよな」
この大きさの竜が突然、
自分達の住む土地の上へ現れれば、
何も起きない方がおかしい。
「柱そのものは見ていないんですね?」
ユーリスが尋ねる。
「見ておらぬ」
緑の竜が、
今度は俺へ頭を下げた。
「父よ。許せ」
「いや、十分だ。無茶言って悪かったな」
そもそも、
全部のアンカーがそれらしく立っているわけではない。
これまで俺達も見てきたが、
それぞれ違う。
俺達が分かっている異常。
周囲の流れが乱れている場所。
遠くからでも分かるほど、
不自然なもの。
それを探してもらっただけだ。
「あそこは違った」
緑の竜がもう一度、
山の向こうを見る。
「風が、あの場所だけ従っていなかった」
その言葉に、
ユーリスの顔からさっきまでの好奇心が消えた。
マリスも、
緑の竜が示す方角へ向き直る。
少しの間、
何かを探るように黙ってから。
「……多分、そこ」
「だろうな、俺もそう思う」
柱そのものが見えていなくても。
海で起きていたことと、
今聞いた話は似ている。
偶然で片付けるには、
十分過ぎる…。
これで次に向かう場所は、
かなり絞れた。
俺も、
緑の竜達が見ている方角へ顔を向ける。
岩山の向こう。
今ここからでは、
その先に何があるのかまでは分からない。
崖と谷が続き。
風を読んで渡る者達が暮らし。
空には、
地面そのものまで浮いている。
そのどこかで。
本来あるはずの流れから外れた風が吹いている。
そして恐らく、
次のアンカーも…。
…そこにある。




