第289話:背に残るもの
肉を焼き終えた頃には、
別の意味で身体が重くなっていた。
最後の一切れを渡してから両手を見せ。
「もうないぞ」
と、何度言っても、
目の前に集まった子供の竜達は離れようとしない。
俺より遥かに大きな頭が左右から寄ってきて、
鼻先で肩や背中を押されるたび、
靴の裏が乾いた岩の上を少しずつ滑った。
「だから、もう肉はないっての!」
一頭の額へ手を当てて軽く押し返してみるが、
びくともしない。
それどころか、
触られたこと自体が嬉しかったのか、
喉の奥で低く音を鳴らしながらさらに頭を寄せてきた。
その横から別の一頭が割り込んでくる。
「待て、待て待て!」
今度は背中へ何かが当たり、
身体が前へ押し出された。
振り返るより早く、
脇腹へ潜り込んだ別の鼻先に持ち上げられ、
両足が一瞬地面から離れる。
「ふげぇっ!」
どうにか身を捻って着地したが、
今度は外套の端を咥えられた。
爪を立てているわけでもない。
牙も当てないよう加減しているし、
俺を傷付ける気がないことくらいは分かる。
問題は、
こいつらにとっての「加減」が人間にとっての加減とは違うことだった。
「エア……大人気」
少し離れたところからマリスの声がする。
さっき肉を置いていた大きな石板を両手で抱えたまま、
こっちを見ていた。
「代わってくれ」
「……無理」
そう言った直後。
背後から押されて前の竜の胸へ顔をぶつけた。
マリスは一度だけ、
俺と竜達を見比べる。
「……やっぱり、潰されそう」
「見てないで助けてくれ…」
「……無理」
即答して、
そのまま板を抱えて離れていく。
「おい!?マリス!?」
返事はなかった。
代わりに、
近くの岩へ腰掛けていたミリカの笑い声が聞こえた。
「完全に遊ばれてるにゃ!」
「見れば分かる!」
「好かれてるにゃ〜」
「代われ!」
「嫌にゃ」
誰も助ける気がないらしい。
外套を咥えていた子竜の口元へ手を伸ばし、
布を傷めないよう引き抜く。
ようやく自由になったと思ったところで、
今度は別の一頭が鼻先を俺の背中へ押し付けてきた。
踏ん張って押し返すと、
向こうも少しだけ力を強める。
「お前、俺は遊んでるわけじゃないからな?」
さらに押してくる。
「聞いてない…」
横からもう一頭まで加わり、
三方向から挟まれた。
「や、やめろ〜」
足元の砂が滑り、
そのまま尻餅をつく。
俺が座り込むと、
目の前の三頭が揃って首を傾げた。
「っ……何だ、その顔は」
こっちが急に倒れたみたいな顔をするな。
立ち上がって外套についた砂を払いながら、
今度こそ両手を広げる。
「終わりだ!肉もない!遊ぶのも終わり!解散!!」
当然のように、
誰も動かなかった。
むしろ一頭が前脚を少しだけ伸ばし、
俺の肩へ触れようとしてくる。
「……何でだよ」
肉を焼いてやっただけなのに、
随分と懐かれたものだ。
昨日までは近付けば警戒する者もいたはずなのに、
少なくともこの辺りにいる幼い竜達からは、
そういうものをほとんど感じなくなっている。
考えてみれば…。
こいつらにとって俺は、
かつて戦争で争った相手ですらないのかもしれない。
人が神器を巡って争った時代も。
竜同士が別々の人間を守るために牙を向け合った時代も。
竜と輸送鳥が別の道を進んでいったことも。
全部、
自分達が生まれるより遥か昔の話だ。
古い竜達は覚えていても、
こいつらにとってはおぼろげな過去、
聞かされた話の一つに過ぎないのだろう。
そんなことを考えていると、
子供達の奥から一頭の竜が歩いてきた。
完全な成竜ではない。
子供達より角は伸び、
翼も十分な大きさになっているが、
ガァナ達ほど鱗に厚みがなく、
身体もまだ細い。
若い竜、
と呼ぶのが近そうだった。
「グルルル」
「何だ?」
返事の代わりに、
その竜は俺の前で身体を低くした。
首が下がり、
肩が沈む。
何をしているのか分からず見ていると、
そのまま一歩こちらへ入り込んできた。
「おい?」
太い首の付け根が、
俺の脚の間へ入る。
次の瞬間。
身体が下から持ち上がった。
「は?」
気付いた時には、
若い竜の首の後ろへ跨がる形になっていた。
竜が立ち上がると、
さっきまで足元にあった岩場が一気に遠ざかる。
「な!?まさか!?」
答えはない。
前脚が地面を掻いた。
…嫌な予感がした。
―――ダッダッダッダ!!
若い竜が走り出す。
「おいぃいいいいいいいいッ!」
岩棚の上を、
一気に駆けていく。
最初の一歩で身体が大きく揺れ、
咄嗟に首元の鱗へ手を掛けた。
鱗は思ったより硬く、
指を引っ掛ける場所も少ない。
後ろから、
子竜達まで走ってくる音が聞こえる。
目の前には、
岩棚の端。
その先は…崖だった。
「待て!待て!待て!とまれええええ!?」
若い竜は速度を落とすどころか、
さらに地面を強く蹴る。
「おいおいおい!?」
左右の翼が開いた。
「待てって言ってんだろぉおおお!?」
そのまま崖を蹴った。
足場が消える。
身体の中身だけが一瞬遅れて落ちていくような感覚の直後、
巨大な翼が風を掴んだ。
―――バサァッ!!
空気を叩く音が腹まで響き、
身体が一気に持ち上げられる。
気付けば、
さっきまでいた岩棚は下にあった。
「……本当に飛びやがった」
「父」
下から声が返ってくる。
「喋れんのかよ!!」
「飛んだ」
「分かってる!」
会話になっているようで、
なっていない。
若い竜は俺を背へ乗せたまま、
岩棚の外側を大きく回っていく。
少し身体を傾けられるだけでも視界が斜めになり、
遥か下の海と崖が一緒に目へ飛び込んでくる。
「傾けるな!」
さらに傾いた。
「聞いてないだろ、お前!」
下を見ると、
飛べる程度まで育った子供達が後を追って短く羽ばたいている。
まだ十分に飛べない者達は崖際へ集まり、
首を伸ばしてこちらを見上げていた。
若い竜はそれを確かめるように高度を落とし、
また翼を広げて上がっていく。
「ったく……」
文句を言いながらも、
さっきまでのように鱗へしがみつく力は少し抜けていた。
若い竜は岩棚の外側へ大きく弧を描きながら、
もう一度翼を広げる。
―――バサァッ!!
羽ばたくたびに空気が全身に叩き付けられ、
竜はその反動で持ち上がっていく。
崖が離れた。
さっきまで俺達が歩いていた岩場も。
肉を焼いていた場所も。
その周囲へ集まっていた竜達も。
少しずつ、
一つの景色へ溶けていく。
代わりに。
目の前が、
一気に開けた。
「……」
思わず声が止まる。
岩山の向こうまで続く青い空。
遥か下では海が陽を反射して輝き、
その上を雲がゆっくり流れている。
崖へぶつかった波が白く砕けているのも見えるが、
ここまで上がると音はほとんど届かない。
聞こえるのは。
翼が風を切る低い音と、
耳元を通り抜けていく空気の唸りだけだった。
顔へぶつかってくる風は強く、
走っている時の風とは一段と違う。
前から押し付けられるというより、
身体の左右を一気に抜けていく。
外套が後ろへ大きく引かれ、
髪が好き勝手に暴れる。
息を吸えば、
潮の匂いまで一緒に胸へ入ってきた。
「……悪くないな」
さっきまであれだけ止まれと叫んでいたが。
口から出たのは、
そんな言葉だった。
若い竜の背は、
思ったより安定している。
羽ばたく瞬間には身体が上下へ動くが、
その後は翼を広げたまま風へ乗り、
ほとんど揺れずに滑っていく。
地面を走るダックとは、
当然だが、全く違う。
ダックの背では、
脚が地面を蹴るたびに身体ごと上下へ揺さぶられた。
それでも。
あいつの背へ乗っていた時も…、
こんなふうに…遠くを見ていた…。
森の向こう、丘の先。
まだ知らない場所。
ダックの上から見える景色が少し高くなるだけで、
歩いている時より世界が広く感じた。
今は、
それより遥かに高い…。
「……お前ら、こんなところ飛んでるのか」
若い竜の首元を軽く叩く。
「飛ぶ」
返ってきたのは、
それだけだった。
「それはもう分かったよ」
「父。飛ぶ」
「俺は飛んでない。乗せられてるだけだ」
「父。飛ぶ」
「……まあ、いいか」
多分。
細かい違いを説明しても通じない。
若い竜は満足したように喉を鳴らすと、
さらに翼を広げた。
風を掴む角度が変わる。
身体が少しずつ上へ向いた。
「お?」
さっきまでなら止めていたかもしれない。
だが今度は、
鱗へ手を添えたまま、
そのまま任せてみた。
高度が上がる。
岩棚がさらに遠ざかり、
その向こうに隠れていた谷まで見えるようになる。
巨大な竜達が暮らす岩場。
崖へ張り付くように続く足場。
その間を飛び交う影。
遠くには海と山脈がぶつかるように連なり、
そのさらに先は青く霞んでいた。
「……すげぇな」
口から漏れた声が、
風に持っていかれる。
竜達が何故遠くまで異変を探せるのか、
少しだけ分かった気がした。
これだけ高い場所からなら。
山の向こうも、
谷の奥も、
海のずっと先も見える。
歩いていれば何日も掛かる距離を、
こいつらはこうやって一気に越えていく。
若い竜が風に身を傾けた。
さっきは思わず叫んだが。
今度は…。
「おお……」
体ごと空が回る。
海が横へ流れ。
崖が下から横へ移り。
次の瞬間には、
また空が正面へ戻った。
腹の奥が少し浮くような感覚はある。
だが、
嫌じゃない。
むしろ。
「もう一回やってみろ」
「……?」
若い竜が首を動かす。
「今のだよ。傾いたやつ」
通じていない。
少し考えて、
身体を横へ倒すように手を動かしてみる。
「こうだ」
若い竜の眼が、
少しだけこちらへ動いた。
「飛ぶ?」
「飛ぶのはずっと飛んでるだろ」
「飛ぶ」
「飛ぶ……いけ」
次の瞬間。
身体が大きく傾いた。
「うおっ!」
今度は予想していた。
首元の鱗へ手を掛けながら、
流れていく景色を見る。
思わず笑いが漏れた。
「ははっ!いいな、これ!」
若い竜の喉からも、
低い音が返ってくる。
他の子供達へ見せるためなのか。
俺を楽しませているつもりなのか。
それとも、
こいつ自身が楽しいだけなのか。
そこまでは分からない。
ただ、
最初に俺を背へ乗せた時から。
こいつには一度も迷いがなかった。
「……懐かしいな」
口から漏れる。
若い竜が首を少し動かした。
「父?」
「昔の話だ」
鱗へ置いた手を動かす。
硬い…。
…羽毛もない。
…姿も違う。
ダックには翼と呼べる大層なものはなかった。
何千年も経って。
あの馬鹿みたいにでかい鳥から、
こんなところまで変わった。
それなのに。
こうして俺を背へ乗せることについては、
こいつは一度も迷わなかった…。
頼んでもいない。
教えてもいない。
「お前ら、人を乗せるのは嫌なんじゃなかったのか?」
若い竜が少しだけ首を動かした。
「人……乗せない」
「俺は?」
「父」
「俺ならいいってことか?」
「父」
「……それで全部説明したつもりか?」
「父」
駄目だ。
これ以上は語彙が増えそうにない。
「おまえ、地上にいる輸送鳥は知ってるか?」
「……運ぶ鳥」
「そうだ。お前らと同じところから分かれた奴らだ」
少し間が空く。
「知る」
「どこまで?」
「人。乗せる」
「それだけ?」
「……運ぶ」
「何でお前らと分かれた?」
少し疑問に思った。
ゼグは最初、
俺を分かっていない感じだった。
だが、
ガァナは…。
だから、
試しにコイツに聞いてみた…。
若い竜は、
しばらく飛び続けた。
風を切る音だけが返ってくる。
やがて。
「……ない」
「聞いたことは?」
「ある」
「覚えてないのか?」
「……ない」
随分あっさりしていた。
「じゃあ、人間と竜が戦った頃は?」
「戦?」
「人が神器を奪い合って、竜も別れて戦った」
若い竜は少し考えてから。
「人……戦う」
「そう」
「竜……戦う」
「何で?」
「守る」
「誰を?」
「人」
「誰から?」
また少し考える。
「……人」
「そこは残ってるのか」
何とも妙な残り方をしている。
何も知らないわけではない。
古い竜達から、
昔のこと自体は聞かされている。
ただ。
誰と誰が争ったのか。
何を奪い合ったのか。
何故、
同じ竜同士まで別れて戦ったのか。
そこまで細かいことは。
もう、
こいつの中には残っていないのかも知れない。
何千年も経てば、
話は少しずつ短くなる。
人が争った。
竜も戦った。
誰かを守った。
最後には、
それだけが残る。
「竜……守る」
若い竜が言った。
「何を?」
「世界」
その言葉だけは。
妙にはっきりしていた。
「何で世界を守る?」
「……父、残した」
「誰かに教わったのか?」
「竜」
「竜?」
「皆」
「皆が知ってるってことか?」
「皆。知る」
「何で?」
少し長い間が空いた。
若い竜は前を向いたまま。
「竜。だから」
それだけ言った。
「……」
そこから先は。
こいつには説明出来ないのだろう。
理由は薄れている。
昔、
何があったのかも曖昧になっている。
それでも。
遠くを見る。
異変を探す。
必要なら戦う。
世界を守る。
そういう生き方だけは、
こいつらの中に残っている。
それなら。
俺を背へ乗せたことも。
もしかすると、
同じなのかもしれない。
そう考えていた時。
急に、
上から強い風が落ちてきた。
若い竜の翼が作るものとは比べものにならない圧が背中を押し、
外套が大きく煽られる。
顔を上げると。
頭上を巨大な影が通り過ぎた。
「……あ」
見間違えるはずもない。
ガァナだ。
厚い鱗に覆われた巨体が俺達の上を越え、
そのまま翼を傾けて大きく回る。
しばらくして。
俺達のすぐ横へ並んだ。
大きな眼が、
まず俺を見る。
次に。
俺を乗せている若い竜を見る。
「……」
何も言わない。
その沈黙の方が、
何となく嫌だった。
「ガァナ?どうした?」
「何をしている…」
低い声だった。
「俺に聞くな。こいつが勝手に――」
「父。乗せた」
若い竜が答える。
「そうらしい」
「そうらしい、ではない…」
ガァナの声が少し低くなる。
若い竜は気にした様子もなく、
そのまま翼を動かしている。
「…我らの翼は、戯れのために空へ上がるものではない」
「父」
「…父であってもだ」
「父。乗る」
「…それは見れば分かる」
「父。よい」
「…よくないと言っているのではない」
「……?」
若い竜が首を傾げた。
ガァナの眼が少しだけ細くなる。
「遠きを見て異変を知り…、
必要ならば世界を守るために牙を向ける。
…それが我らの翼、楽しませるために背を差し出すものではない」
若い竜は少し考える。
「父。人……違う」
「……」
ガァナが黙った。
「なあ」
「…何だ?父よ」
「今のは俺もどう返せばいいか分からない」
若い竜は俺を振り返ろうとして。
「父は、父」
「そこは分かったって」
ガァナが重く喉を鳴らした。
「…古きことを知らぬからといって、好きにしてよいわけではない」
「……?」
「…首を傾げるな」
「父。乗る」
「…今それを話している」
「父。軽い、小さい」
「おい」
思わず口を挟む。
「お前らと比べるな、俺は小さくない」
ガァナの大きな眼が一度だけ俺へ向いたが、
何も言わなかった。
「お前も何か言えよ?」
「…父よ」
「何だよ?」
「…幼き者を甘やかすな」
「何で俺のせいになるんだ…」
若い竜が。
「肉」
とだけ言った。
「また肉か!?」
「肉。遊ぶ」
「はぁ、後で焼いてやる…後でだぞ!!」
「父。肉、背、飛ぶ」
若い竜の喉から、
グルル、と低い音が漏れた。
さっきまでとは少し違う。
「……お前、今笑っただろ?」
「父、すごい…」
「誤魔化すな」
また喉が鳴る。
絶対笑ってる。
飛ぶのが嬉しいのか、
肉が楽しみなのか…。
多分、
両方だな。
ガァナまで何も言わない。
下を見ると。
子供達はまだ岩棚を走って俺達を追っていた。
飛べる者は時々翼を広げて宙へ上がり、
追いつけないと分かるとまた地面へ降りる。
さっきまでなら。
とにかく降ろせと思っていた。
今は、
もう少しくらいなら、
このままでもいい気がしていた。
風が頬を通り抜ける。
巨大な翼が一度動くたび。
空が近くなる。
下に広がる竜達の暮らしも。
遠くまで続く海も。
岩山の向こうに霞む土地も。
地上にいた時より、
ずっと大きな一つの景色として見える。
ダックから何がどこまで残ったのかなんて。
俺には分からない。
こいつら自身も、
知らないことのも多いのだろう。
それでも。
何の迷いもなく俺を背へ乗せる竜がいて。
それを子供達が追い掛けている。
何千年も離れていたはずなのに。
全部が切れてしまったわけではない。
そんな気がした。
その時。
隣を飛んでいたガァナの顔が、
急に別の方角へ向いた。
俺もつられて顔を上げる。
遠い岩山の向こうから。
一つの影がこちらへ近付いてきていた。
翼を大きく広げ、
真っ直ぐこちらへ向かってくる。
かなり速い。
さっきまで俺を乗せていた若い竜も、
すぐにそちらへ首を向けた。
「もう帰ってきたのか?。
さすが、早いな…」
捜索へ出ていた竜だ。
近付くほど。
羽ばたきが普段より重いことが分かる。
長い距離を飛んできたのかもしれない。
それでも速度を緩めず、
こちらへ向かってくる。
ガァナの声が変わった。
「…戻るぞ」
若い竜も、
今度は素直に。
「戻る」
とだけ答えた。
翼が傾き、
岩棚へ向かって高度を落としていく。
さっきまでは恐ろしかった下降も。
今は、
腹の奥が浮く感覚を少し楽しむ余裕があった。
頬を打つ風の向こうから。
帰ってきた竜の声が、
岩山の間へ響く。
「見つけた…」
俺は若い竜の背に跨がったまま。
近付いてくるその姿を見上げた。




