第288話:それでも選ぶ
波の音だけが、
二人の間へ残った。
「……」
ユーリスは答えない。
さっきまで私へあれだけ踏み込んできた女が、
急に海の方へ顔を向けている。
「何故そちらを見る?」
「……う、海が綺麗だなと思って」
「今まで一度もそんなことを言っていなかっただろう」
「……」
分かりやすい。
膝の上に置いた手の指まで、
隠れる場所を探すように何度も組み直している。
「私にはあれだけ聞いておいて、自分の番になると黙るのか?」
「だ、黙ってません」
「なら答えろ」
「セレスさん、こういう時だけ強いですね……」
「こういう時だけ、とは何だ」
「何でもありません…」
明らかに何でもない顔ではなかった。
先ほどまでは私が答える側だった。
ルゥなのか。
エアをどう思っているのか。
旅が終わった後、
どうしたいのか。
普段なら、
私へ何か言う前に一度こちらの様子を窺うくせに、
さっきは随分と踏み込んできた。
なら、
一つくらい返してもいいだろう。
身体を少しだけユーリスの方へ向ける。
「エアがいなくなったら嫌なのだろう?」
「……」
今度は、
すぐに海へ逃げなかった。
少し間を置いてから、
ユーリスの肩が小さく下がる。
「……嫌ですよ」
声は小さかったが、
迷っているようには聞こえなかった。
「そうか」
「それは、もうエア本人にも言いました」
「……本人に?」
思わず聞き返す。
ユーリスがこちらを向き、
今度は素直に頷いた。
「はい」
「……」
そこまでは予想していなかった。
私が先ほど散々悩みながら口にしたことを、
この女は既に本人へ伝えているらしい。
「エアがいなくなるのは嫌だって。
一緒に旅してるのに、全部終わったらどこかへ行くかもしれないって考えたら……嫌だったので」
「それで、あいつは何と?」
「『そうか』って」
「……」
潮を含んだ風が頬を撫でていく。
一瞬、
何と返せばいいのか分からなかった。
「それだけか?」
「それだけです」
「…馬鹿か、あいつは」
思ったまま口に出た。
ユーリスも否定せず、
困ったように口元を緩める。
「多分、何で嫌なのかまでは考えてないと思います」
「……だろうな」
妙に納得してしまった。
あいつなら本当に、
言葉を言葉のまま受け取って終わっている気がする。
他人が傷付いていることには妙に敏いくせに、
自分へ向けられたものになると途端に鈍くなる。
それなら尚更だった。
「では、何を迷っている?」
「え?」
「本人へそこまで言えるのだろう」
ユーリスの口元から、
先ほどの笑みが消えた。
「失いたくない。
いなくなるのは嫌だ。
そこまで分かっているなら…」
その言葉を並べながら、
自分にも返ってくるものを感じた。
私も先ほど、
同じようなことを言った。
理由は分からない。
それでも、
エアを失いたくない。
私の場合は、
その気持ちがどこから生まれたものなのか分からない。
だが、
ユーリスは違うように見える。
少なくとも、
自分がエアを求めていること自体を疑ってはいない。
「なぜ……、その先だけは口にしない」
返事はなかった。
ユーリスの指が、
膝の上で絡む。
追い立てるつもりはない。
さっき自分があれだけ話した以上、
軽い答えを求める気にもならなかった。
しばらく待っていると、
やがてユーリスが口を開く。
「……まだ、決めたくないんです」
「何をだ?」
「それが何なのかを」
「……」
「今のままでも、一緒にいられますから」
それだけ言うと、
また海へ顔を向けた。
詳しく説明する気はないらしい。
だが、
その言葉で十分だった。
名前を付ければ、
今まで通りではいられなくなる。
エアを見る時も。
私を見る時も。
ルゥという女の話を聞く時も。
今までなら別々に置いていられたものが、
一つの意味へ繋がってしまう。
そうなれば、
今の場所へ立ち続けることも難しくなるのだろう。
「……ふん」
鼻から息が漏れた。
ユーリスが横目でこちらを見る。
「何ですか?」
「いや」
少し考えたが、
隠す必要もない。
「臆病だな、貴様は」
「……」
ユーリスの眉がぴくりと動く。
「セレスさんに言われたくありません」
思ったより強い返事だった。
「……ほう?」
言った直後。
ユーリスの背筋が僅かに固まった。
自分で私へ言い返してから、
ようやく気付いたらしい。
本当に分からん女だ。
私が少し声を強くすれば、
今も顔色を窺うことがある。
そのくせ。
エアが関わった途端、
こうして平気で食って掛かってくる。
「……ふっ」
今度は抑えきれず、
少し笑った。
「わらっ…も〜、なんなんですか?」
「やはり貴様は分からんな」
「何がですか?」
「私のことは怖いのだろう?」
「……全く怖くないとは言いませんけど」
そこは否定しないらしい。
「そのくせ、エアが関わると随分ふてぶてしい」
「それは……」
言葉が止まる。
図星なのだろう。
「さっきもそうだ。
ルゥなのかと、よく本人へ聞けたものだな」
「……気になったんです」
「だから聞いた?」
「はい」
「なら同じではないか」
「何がです?」
海へ目を戻す。
水平線の先まで、
青が続いていた。
「気になるから聞く。
知りたいから踏み込む。
そこでは遠慮しない」
隣から返事はない。
「なのに、自分のことになると急に立ち止まる」
風が二人の髪を揺らしていく。
私の白い髪が頬へ掛かり、
指で払う。
「……臆病だと言ったのは、そういうことだ」
少し間を置いてから。
「セレスさんは……怖くないんですか?」
今度はユーリスから聞かれた。
「何がだ?」
「変わることがです」
「……」
すぐには答えられなかった。
怖くない。
そんなふうに言い切れるほど、
セレスと言う女は…強くない。
エアと出会ってから、
かつての私を支えていたものは何度も崩れた。
正統光火教会の教え。
絶対神の火。
聖杭槍杖としての役目。
正しいと思っていたものが、
実際に目の前へ現れたエアによって少しずつ形を変えた。
焼くはずの火が私を包み。
異端だと思っていた男が、
初めて私自身を見た。
その後でルゥを知り。
自分を見てくれたと思った相手が、
別の女を…。
…私の向こうへ探していると知った。
傷付いた。
腹が立った。
それでも離れられず、
今は自分の中にあるものが本当に自分だけから始まった感情なのかさえ分からない。
それを怖くないと言えば…、
…ただの強がりだ。
「…怖いに決まっている」
そのまま答えた。
ユーリスがこちらを見る。
「私は今、自分が何なのかすら完全には分かっていない…」
言いながら、
少し可笑しくなる。
「その私が、何も怖くないように見えるか?」
「……見えません」
間髪入れず返された。
「…正直だな、貴様」
「聞いたのはセレスさんです」
「…そうだったな」
鼻で笑う。
本当に、
私に遠慮があるのかないのか分からない。
だが…。
…怖い。
…分からない。
間違っているかもしれない。
だがそれと、
何もしないことは別だ。
「ただ」
海の向こうを見たまま、
続ける。
「私は、分からないからといって退くつもりはない」
「……」
「この気持ちが私だけのものなのか。
ルゥという女と何か繋がっているのか。
今はまだ分からん」
それは、
先ほど話した通りだ。
答えなど出ていない。
それでも私は、
エアを失いたくないと思った。
あいつに私を見てほしいと望んだ。
自分でも正体の分からないものだからといって、
そこまで生まれている感情を無かったことには出来ない。
「なら私は、それに従う」
「……それって」
ユーリスは何か言いかけた。
口が少し開き、
それから閉じる。
その様子を見ているうちに。
今度は私の方から、
一つはっきりさせておきたくなった。
「言っておくが」
ユーリスを見る。
「私は遠慮などしないぞ」
「……え?」
「貴様が何を迷っていようと。
それをいつまで決めずにいようと、それは貴様の勝手だ」
ユーリスの指が膝の上で止まる。
「だが、それに私が付き合って待つ理由はない」
目が僅かに大きくなった。
自分でも随分勝手なことを言っていると思う。
そもそも、
私自身、何処まで行くつもりなのかなど決められていない。
エアに何を求めるのか。
どういう形で傍にいたいのか。
最後にどんな関係でいたいのか。
そこまで綺麗な答えを持っているわけではない。
それでも。
ルゥがいるから。
ユーリスがいるから。
誰かがあいつを想っているから。
それを理由に、
自分から退くつもりはなかった。
「……セレスさん」
「何だ?」
「それ……私に宣言することですか?」
「貴様が聞いてきたのだろう?」
「それは…そうですけど……」
「なら聞いておけ」
膝へ手を置き、
立ち上がる。
長く座っていたせいか、
脚の奥に僅かな痺れが残っていた。
それを踏み締めるように岩の上へ立つと、
海から吹き上がる風が外套を大きく後ろへ流した。
「私は、私のやりたいようにする」
口にした言葉が、
風に流されていく。
だが、
自分の耳には妙にはっきり残った。
昔の私なら、
こんな言葉を自分へ許さなかっただろう。
やりたいようにする。
そんなものは正しさではない。
教えでもなければ…、
与えられた役目でもない。
私が何をしたいのかなど、
考える必要すらないと思っていた…。
その記憶に重なるように。
あの日のエアの声が蘇る。
力の入らない私の手を取り、
自分の喉へ触れさせた男。
『それが“お前”なのか……セレス』
あの時。
私は何も答えられなかった。
何を望むのかと問われても。
そもそも私自身が望むということの意味さえ、
分からなかった。
今だって、
全てが分かったわけではない。
この感情が何処から来たのか。
ルゥと私の間に、
本当に何かがあるのか。
エアが最後に誰を見て、
何を選ぶのか。
旅が終わった後、
私は何処にいるのか。
どれもまだ分からない。
だが、
分からないことと。
何も選べないことは、
同じではない。
エアを失いたくない。
あいつの先を見たい。
その時、
自分も傍にいたい。
それを誰かに命じられたわけではない。
教義に書かれていたわけでもない。
エアから求められたわけですらない。
それでも…。
今、
そうしたいと思っている。
なら、
少なくとも今は…。
…それを選べばいい。
胸の中にあるものが、
綺麗に解けたわけではなかった。
ルゥ。
教会。
自分。
エア。
幾つものものが、
まだ絡んでいる。
けれど、
絡まっているからといって。
立ち止まらなければならない理由にはならない。
それだけは、
今の私にも決められる。
数歩進んでから、
後ろに気配がないことに気付いた。
振り返る。
ユーリスはまだ岩へ座ったまま、
こちらを見ていた。
「何をしている」
「……ちょっと待ってください」
「何故だ」
「今、色々考えてるんです!」
「知らん」
「そういうところですよ!」
先ほどまでの重い話が嘘のように、
いつもの調子が戻ってくる。
「早く来い。薪を置いたままだ」
「あっ」
ようやく思い出したらしい。
ユーリスが慌てて立ち上がり、
外套についた砂を払いながらこちらへ追いついてくる。
その姿を横目で見ながら。
私はもう一度だけ、
鼻で笑った。




