第287話:誰の願い
「……」
すぐには答えられなかった。
風が木々を揺らし、
乾いた葉が足元を転がっていく。
ユーリスは何も急かさない。
ただ、
私を見ていた。
「……少し歩くぞ」
「え?」
拾った薪を一度まとめ、
近くの岩陰へ置く。
「だから並べって!おいお前!そいつに肉返せ!」
遠くでは、
まだエアの声が響いていた。
「ここでは落ち着かん…」
ユーリスは頷いてから、
黙って後ろへ続いた。
木々の間を抜け、
岩場を少し下る。
やがて。
視界が一気に開けた。
「……」
断崖だった。
切り立った岩の遥か下に、
青い海が広がっている。
竜達の住む谷とは反対側。
こちらまで来ると、
子供の竜達の声も。
エアの怒鳴り声も。
ほとんど聞こえない。
聞こえるのは、
崖へ打ち寄せる波の音だけだった。
随分下にあるせいか、
荒々しい音ではない。
一定の間隔で。
静かに。
寄せては消えていく。
私は崖から少し離れた平らな岩へ腰を下ろした。
ユーリスも、
少し迷ってから隣へ座る。
近過ぎず、遠過ぎず。
しばらく二人で海を見た。
「……さっきの質問だが」
「はい」
「…分からん」
ユーリスがこちらを見る。
「……分からない?」
「ああ」
それが、
今の私に出来る一番正直な答えだった。
「私はルゥではない」
そこだけは言える。
「私はセレスだ。それも分かっている」
自分の名。
自分の身体。
自分が積み上げてきた槍。
自分の火。
それを今更、
別の誰かへ渡すつもりはない。
「だが……」
そこで言葉が止まった…。
…自分でも、
何をどう説明すればいいのか分からない。
「私が何なのか、と聞かれると…、
…未だによく分からない事もある」
以前なら。
こんな言葉を他人へ口にすることなど、
考えもしなかっただろう。
私は聖杭槍杖だった。
正統光火教会の、
絶対神の火、その使者。
主の火を示す者。
異端を焼き。
迷いを断つ。
それだけで私というものは完成していた。
…少なくとも、
…そう思っていた。
「……最初にエアと戦った時」
ゆっくり口を開く。
「あいつは…私を見た」
海から吹き上がる風が、
白い髪を揺らす。
「教会でもない。
聖杭槍杖でもない」
今でも覚えている。
力の入らない私の手を取り。
自分の喉へ触れさせた男。
『それが“お前”なのか……セレス』
あの言葉。
「あいつは…私自身に、何を望んでいるのかと聞いた」
「……」
「そんなことを聞かれたのは、初めてだった」
教えられたことではない。
役目でも、神の意志でもない。
私が。
セレスという人間が。
…何を選ぶのか。
「……私は答えられなかった」
今思えば当然だった。
それまで一度も、
そんなものを必要としたことがなかったのだから…。
「その後も……全部、初めてだった」
火が。
焼かなかった。
裁かなかった。
私を包んだ。
抱きしめられることも。
誰かの胸で泣くことも。
自分が泣いている理由すら分からないことも。
全部…知らなかった。
「だから……」
自分の手を見る。
今は何も握っていない。
それでも。
あの時、
エアの喉へ触れた感覚を思い出せる。
「私は、あいつが私を見てくれたのだと思った」
言葉にすると、
胸の奥が柔らかく、締め付けられるように感じた。
「初めて……私というものを見つけた者なのだと」
あいつがセレスと呼んだ。
だから。
私も初めて、
セレスというものを探し始めた。
それなのに。
「その後で、ルゥを知った…」
ユーリスの表情が僅かに変わる。
「エアがずっと探している女だ」
妻だった、
エアが愛した女。
神話の中の聖女でも女神でもない。
昔。
あいつと共に生きた存在。
「そして気付いた」
一度、
目を閉じる。
月明かりの下。
私を見ていたエア。
近付いた顔。
触れた唇。
その直後の。
『やっぱり……』
あの声。
「私を見ていると思っていたあいつが…。
…私の中に、別の女を探していた」
「……」
「最初は違ったのかも知れない…。
だが、あれは…さすがに、傷付いた…」
口から出た言葉は、
驚くほど簡単だった。
「かなり…」
今なら認められる。
あの時。
腹が立ったのではない。
教義が崩れたからでもない。
ただ、
…苦しかった。
初めて自分を見つけてくれたと思った相手が。
自分ではない誰かを私に探していた。
それが…耐えられなかった。
「だから私は……」
波が岩へ当たる音が、
遠くで続いている。
「ルゥではない。私を見ろ、と」
一度は。
それだけを望んだ。
だが、
そこまで口にして。
…自分でも分からなくなる。
「……だがな、ユーリス」
「はい…」
「今度は、別のことが分からなくなった」
「別のこと……?」
「あいつに見てほしいと思っている、この私だ」
ユーリスが黙る。
私は海を見たまま続けた。
「それは本当に……私から始まったものなのか」
風が強くなる。
外套の裾が、
岩の上で鳴った。
「ルゥという女と私に、本当に何の関係もないのか…。
あいつに出会ってから夢を見る」
焚火のそば…。
温もり…。
「見たこともない場所……だが、必ずあいつが隣りにいる」
魂。
記憶。
残り火。
そういうものがこの世界に存在することを、
もう私は知っている。
エア自身がそうだ。
何千年という時間を越えて。
今ここにいる。
なら、
私だけは絶対に違うなどと。
何を根拠に言える。
「私があいつへ惹かれるのは……私だからなのか」
喉の奥が詰まる。
「それとも、私の知らない何かが……あいつを覚えているのか」
言葉にすればするほど、
矛盾している。
「分からん…」
もう一度言った。
「私はセレスだ。それは譲る気はない」
槍を握れば、
私の戦い方がある。
火を使えば、
私の火がある。
それを今朝、
自分で確かめた。
だが、セレスというものが何を望み……、
何を理由に誰かを求めるのか。
そこまで綺麗に切り分けられるほど。
私はまだ、
自分というものを知らない。
「……随分、情けない話だな」
小さく漏らす。
ユーリスは首を振らなず、慰めもしなかった。
それが有り難かった。
「…だからさっき」
一度、
言葉を切る。
「旅が終わった後、と聞いて……困った」
アンカーを封じ、
ルゥを探す。
その先に、エアは何をする?。
どこへ行き、
誰と生きる。
そして。
そこに…私はいるのか。
「今まで私は、あいつを見届けるつもりだった」
エアが何者なのか。
何を抱えているのか。
何処へ辿り着くのか。
「だが……見届けた後のことなど、考えていなかった」
旅が終わったならば、別れ、
私は教会へ戻るのか…。
それとも、
別の道へ行くのか。
エアはルゥと生きるのか。
…何も分からない。
なのに。
一つだけ。
考えた瞬間に、
身体が拒んだものがあった。
「……私は」
声が少し低くなる。
「…エアを失いたくない」
ユーリスが、
息を止めたように見えた。
私は構わず続ける。
「それがルゥの何かなのか」
胸元へ手を置く。
「私自身の願いなのか」
分からない。
「今は……分からん」
それでも、
エアがいなくなることだけは。
…嫌だった。
「だが」
海を見たまま、
はっきりと言う。
「理由が分からなくても……失いたくないと思っていることだけは、嘘ではない」
波がまた一つ、
遠い崖の下で砕けた。
「……」
ユーリスは何も言わなかった。
私も、
それ以上続けなかった。
話し過ぎた。
自分でもそう思う。
教会にいた頃の私なら、
こんなことを誰かへ話すなど考えもしなかった。
自分が何者か分からない。
誰かを失いたくない。
その気持ちが本当に自分のものなのかさえ分からない。
そんな曖昧なものを口にするくらいなら、
黙って槍を握っていた方が遥かに楽だった。
「……」
海を見る。
青い水面は何も変わらない。
こちらが何を悩もうと、
同じように波を寄せては崖へ砕いている。
しばらくして。
「……ふっ」
鼻から、
小さく息が漏れた。
「え?」
ユーリスがこちらを見る。
「いや……」
もう一度。
今度は、
少しだけ笑った。
「馬鹿らしくなっただけだ」
「何がですか?」
「全部だ」
自分でも酷い答えだと思う。
だが、
それ以外に言いようがない。
絶対神を信じ、
異端を焼くことに迷いもなく。
自分というものなど必要ないとすら思っていた女が。
今では…一人の男に見てほしいだの…、
…失いたくないだの、
その気持ちが自分のものか分からないとまで…。
「随分と面倒な女になったものだな、私は…」
「……」
ユーリスは笑わなかった。
…少しだけ腹立たしい。
「そこで否定くらいしたらどうだ?」
「えっ」
「情けないと思っているのだろう?」
「思ってませんよ!」
ユーリスが強く答えた。
「なら、何故黙る?」
「何て言えばいいか分からなかっただけです!」
「…貴様は臆病なのかふてぶてしいのか、分からんやつだな」
「セレスさんに言われたくありません」
「……ほう?」
言った瞬間、
ユーリスの顔が固まった。
「あ」
まただ。
さっきまで私の顔色を窺っていたくせに。
少し話がエアへ近付くだけで、
急に遠慮がなくなる。
「……ふっ」
今度は。
さっきより、
少しだけ可笑しかった。
「な、何ですか?」
「別に」
「絶対何かありますよね?」
「貴様も大概だと思っただけだ」
「私が?」
「ああ」
ユーリスが眉を寄せる、
本当に分かっていないらしい。
学院にいた頃の私を知っている。
マリスのこともある…。
今でも時折、
私が少し声を強くするだけで身構える。
それなのに。
エアの話になると、
ルゥのことまで踏み込んで。
私が何者なのかと、
本人へ真正面から聞いてくる。
怖いなら。
もう少し遠慮すればいいものを。
「私をまだ怖がっているのだろう?」
「えっ…ぁ、それは…」
分かりやすく詰まった。
「違うのか?」
「……全く、ではないですけど」
「正直だな」
「だって……」
ユーリスは言い淀み、
少しだけ視線を逸らした。
「色々ありましたし…」
「知っている…」
私が一番よく知っている。
「だが、その割には随分と聞いてくるではないか?」
「……」
今度は、
別の意味で黙った。
私は横目でその顔を見る。
さっきまで私へ向けていた問い。
エアが私を見る目。
ルゥ。
旅が終わった後。
そんなものを、
ただ興味があるから聞いているとは思えない。
「何だ?、何かあるなら言ってみろ?」
ユーリスが、
少し居心地悪そうにこちらを見る。
「…いえ」
「なら、今度は私が聞く番だな」
「……え?」
体を少しだけ、
ユーリスの方へ向ける。
逃げ道を塞ぐつもりはない。
だが。
さっきまで好き勝手に聞かれたのだ。
一つくらい返しても、
罰は当たらないだろう。
「私のことは随分聞いたな」
「……はぃ」
「エアが私を見る目が違う、
ルゥなのか、旅の後」
並べるたび。
ユーリスの表情が、
少しずつ困ったものへ変わっていく。
「……それは」
「なら」
遮る。
「貴様はどうなのだ?」
ユーリスが止まった。
「……私?」
「ああ」
海から風が吹き上がる。
髪が頬へ掛かり、
それを指で払う。
「エアがいなくなったら嫌なのだろう?」
「……」
答えはない。
だが、
その顔だけで十分だった。
私は少しだけ目を細める。
「私を相手にする時は、いちいち様子を窺うくせに」
「……」
「エアが関わると、随分と遠慮がなくなる」
「そ、それは……」
「違うか?」
逃がさないように聞き返すと。
ユーリスは完全に言葉へ詰まった。
さっきまでとは逆だ。
少し気分がいい。
「さて」
私は海へ視線を戻した。
「今度は貴様の番だ、ユーリス」
波の音だけが、
二人の間へ、静かに残った。




