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第286話:昔話のその先に


岩棚を離れてしばらく歩くと、

肉の焼ける匂いも少しずつ薄くなっていった。


それでも背後からは、

時折エアの声が谷へ響いてくる。


「一頭ずつだ! 押すな!」


振り返れば、

岩棚の向こうに子供の竜の頭がいくつも並んでいるのが見えた。


あれだけ巨大な生き物を相手に、

順番を守らせながら肉を焼いている男など、

恐らく世界中を探してもあいつくらいだろう。


「……何をしているのだ、本当に」


「随分、馴染んでますね」


隣を歩いていたユーリスも同じ方を見ながら、

小さく笑っている。


「あいつも昨日、戦ったはずなんだがな……」


「エアですからね」


「それで説明が済むようになっているのも、どうかと思うぞ?」


そう返すと、

ユーリスがまた笑った。


学院にいた頃なら、

こうして二人だけで歩くこと自体なかった。


あの頃の私にとって、

ユーリスは外側の人間だった。


二つの属性を混ぜて使う者であり、

正統光火教会の教えから外れた力を持つ者。


ましてその隣には獣人。


そして、

マリスがいた。


思い返せば、

よく今こうして普通に話しているものだ。


私が、

一度は殺しかけた女の友人と。


そのことをなかったことにするつもりはないし、

ユーリスが完全に忘れているとも思っていない。


それでも今は、

互いに背を向けず同じ場所を歩いている。


…不思議なものだ。


「セレスさん、あっちに結構落ちてますよ」


ユーリスが斜面の先を指した。


谷の端へ近付くにつれて岩肌の隙間に緑が増え、

低い木が斜面へ張り付くように生えている。


その根元には、

風で折れたらしい乾いた枝がいくつも転がっていた。


「使えそうだな」


一本拾い、

表面を指でなぞる。


湿り気はない。


折ってみると乾いた音が返ってきたので、

薪には十分使えそうだった。


隣では、

ユーリスも枝を集め始めている。


「太いものも少し欲しいですね」


「火は自分達で起こすしかないからな」


「子供だけで、あんなにいるんですね……」


急に声の調子が変わった。


顔を上げると、

ユーリスは薪ではなく谷の向こうを見ていた。


「あ……!さっきの子供達です」


「それがどうした?」


「成長速度って、どれくらいなんでしょう」


……始まった。


ここ最近、

ユーリスの癖のようなものも分かってきていた。


時々、

エアがこいつを見ながら頭を抱えている理由の一つだ。


何かに興味を持った時、

この女は周りが見えなくなる。


ユーリスは拾った枝を抱えたまま、

明らかに薪より竜の方へ意識を持っていかれていた。


「卵の大きさから考えると、孵化した時点でも相当な体格ですよね。

 それなのに、さっきの子達はまだ遠くまで飛べない。

 翼が身体の成長に追いつくまで時間が掛かるのか、それとも筋力の問題なのか―――」


「知らん」


「鱗も成竜より薄かったですよね!」


「知らん」


「角も短かったですし!」


「私は竜の研究者ではない」


「でも戦いましたよね?」


「戦えば成長過程まで分かると思っているのか?」


「……分からないですか?」


「分かるわけがないだろう!」


何故そこだけ残念そうな顔をする。


枝を一本拾いながら、

息を吐く。


この女は本当に、

興味を持ったものに対しては遠慮がない。


魔術。


術式。


属性。


知らないものがあれば、

危険かどうかより先に見ようとする。


……エアと少し似ているな。


「でも、不思議ですよね」


まだ続くらしい…。


「何がだ?」


「竜って、もっと生まれた時から完成しているような生き物だと思っていました」


「何故そう思う?」


「神話や記録では、ほとんど成竜しか描かれませんから」


ユーリスは足元の枝を拾い、

抱えていた束へ重ねた。


「人間から見れば、竜は昔からずっと同じ姿で存在していたように見える。

 でも実際には卵から生まれて、飛べない時期があって、成長するまで誰かに守られている。

 当たり前のことなんですけど、実際に見ると全然違います」


それには、

私も少し分かるところがあった。


神話では、

竜は最初から竜だった。


強大で、

人とは違う場所にいる存在。


だが実際にここへ来てみれば、

卵があり、

子供がいて、

遠くへ飛べない者を別の竜が残って守っている。


神話に描かれない部分の方が…遥かに多い。


エアについて知った時と、

似ていた…。


教会で聞かされていた絶対神エンラと、

目の前で肉を焼きながら子供の竜へ順番を守らせている男。


同じ存在だと言われても、

以前の私なら到底受け入れられなかっただろう。


「……神話は、そういうものなのかもしれんな」


口にすると、

ユーリスがこちらを見る。


「セレスさんが……そう言うんですね…?」


「何だ、その言い方は」


「い、いえ!」


途端に姿勢が固くなった。


「別に変な意味では……」


「なら、そんなに慌てるな」


「……はい」


返事が少し硬い。


さっきまで竜の話をしていた時とは違う。


私が教会にいた頃のことを考えれば、

理由など聞くまでもなかった。


だからといって、

今ここでわざわざ掘り返す気もない。


時間が必要なら、

それでいい。


無理に近付けたところで、

距離が縮まったことにはならない。


そう思いながら、

もう一本枝を拾った。


「セレス……さん?」


「何だ?」


「その枝、もう十分じゃないですか?」


腕を見ると、

いつの間にかかなり抱えていた。


「……そうだな」


「少し置きます?」


「この程度――」


その時。


岩の向こうで、

何かがぶつかる音がした。


―――ドンッ!!


足元へ振動が伝わり、

積み上がっていた小石が斜面を転がっていく。


二人同時に顔を上げた。


続けて。


―――ガァンッ!!


金属ではない。


硬い鱗同士が、

力任せにぶつかったような重い音だった。


「竜……?」


ユーリスの声から、

先ほどまでの軽さが消える。


私は抱えていた枝を岩の脇へ置き、

聖杭槍杖へ手を掛けた。


戦っている気配はある。


ただ。


今朝の試しを思い出せば、

殺し合いとは違うように感じられた。


「見に行くか?」


「はい!」


岩場を回り込む。


視界が開いた先にいたのは、

二頭の竜だった。


さっきの子供達より、

遥かに大きい。


だが、

ゼグやガァナほどではない。


角も十分に伸び、

翼も大きく広がっているが、

身体にはまだ細さが残っている。


鱗も、

年長の竜ほど厚く重なってはいない。


「……若い竜でしょうか」


早速、

ユーリスの声に興味が混じった。


「私に聞くな」


「聞いてませんよ」


「こちらを見ながら言うな」


二頭は、

こちらに気付いていない。


片方が地面を蹴った。


巨体が、

一気に前へ出る。


―――ドォンッ!!


振り下ろされた前脚を、

もう一頭が身体を横へずらして避ける。


次の瞬間には尾が返り、

脇腹へまともに入った。


音だけで身体の芯まで響くような一撃だったが、

打たれた側は倒れない。


岩を削りながら数歩ずれ、

そのまま首を返して相手の肩へ噛みつこうとする。


「……強い」


ユーリスが息を呑んだ。


「子供達とは全然違いますね」


「当たり前だ」


「でも、成竜より動きが速い気がします」


「……確かに」


今朝相手をした竜より身体が細い分、

動きにも軽さがある。


ゼグ達のような重さで押し潰す戦い方とは、

少し違って見えた。


「身体が軽いからでしょうか。それとも若い個体ほど速度を使う傾向が――」


「ユーリス」


「はい」


「ここで考えても答えは出ないぞ」


「……ですよね」


少し残念そうだった。


本当に、

研究者にでもなればいいのではないか。


二頭の攻防は続く。


片方が翼を広げれば、

吹き下ろされた風で木々の葉が一斉に裏返る。


相手は身体を低く沈め、

その風を耐えると同時に懐へ潜り込んだ。


前脚。


肩。


首。


互いに致命傷を狙うのではなく、

自分の力をぶつけ、

相手がどう返すのかを確かめている。


今朝、

私が受けた試しと同じだった。


ただし。


あちらは竜同士。


一撃ごとの重さが、

まるで違う。


「火は使わないんですね」


ユーリスが呟く。


「そのようだな」


「何か決まりがあるんでしょうか」


「本人達に聞け」


「終わったら、聞いてみてもいいですかね?」


「好きにしろ」


答えた途端、

ユーリスが本当に前へ出ようとした。


「待て」


外套の肩を掴む。


「え?」


「終わったら、だ…」


「分かってますよ!」


「なら動くな!」


「近くで見ようとしただけです!」


「同じだ!」


…何を考えている。


さっきまで私に対して妙に遠慮していた女が、

竜を見た途端これだ。


「貴様は少し、自分が人間だということを思い出せ」


「そこまで無茶しませんよ?」


「…エアと一緒にいる奴は皆こうなのか?」


「セレスさんも似たようなものですよ。

 プライドが高くて、頭が硬いです」


「っな……」


思わず振り返る。


ユーリスも自分で言ってから気付いたらしい。


「あ……」


さっきまでの勢いが消えた。


「……すみません」


「何故謝る」


「いや、その……」


明らかにこちらの顔色を窺っている。


やはり時々、

こいつの中で前の私が顔を出すらしい。


だが、

それを今ここでどうこうする必要はない。


「別に間違ってはいない。私も無茶をする時はある」


「で、ですよね!、あ、すみません」


「何故謝る」


「……難しいですね」


「貴様が勝手に難しくしているだけだ」


少し呆れて返すと、

ユーリスもようやく肩の力を抜いた。


その程度でいい。


二頭の竜へ意識を戻す。


試しは、

終わりに近付いていた。


片方が相手の首の横へ前脚を掛け、

そのまま体重を押し込む。


岩が軋み、

下になった竜も一度は身体を捻ったが、

抜けられないと判断したのか動きを止めた。


…数秒後。


押さえていた脚が離れる。


負けた方は立ち上がると首を振って砂を落とし、

勝った方も追わない。


それどころか。


二頭は鼻先を短く寄せ合うと、

そのまま並んで歩き始めた。


「……終わった」


ユーリスが呟く。


「今朝もそうでしたよね。

 勝ったから従わせるとかじゃなくて、知ったら終わり」


「今はどちらが強いのか。

 それを確かめただけ、か」


昨日から見てきた竜達の在り方が、

少しずつ繋がってきた。


勝ち続けた者が、

全てを決めるわけではない。


今強い者。


遠くまで飛べる者。


子供を守る者。


狩りへ行く者。


それぞれが、

その時出来ることをする。


そして。


昔を知る者は、

覚えていることを伝える。


先ほどまでいた岩棚で、

古い竜から話を聞いていた若い竜達の姿が頭に浮かんだ。


「……何百年も、こうして試すのでしょうか」


ユーリスが、

去っていく二頭を見ながら言った。


「何百年?」


「竜って長く生きるんですよね。

 今はあの二頭も若いですけど、何百年か後にはガァナさん達みたいになるのかなって」


その言葉で。


ふと、

別の姿が頭に浮かんだ。


赤い火。


傷だらけの槍。


そして。


肉を焼きながら、

子供の竜へ怒鳴っている男。


エア。


あいつも…同じなのだろうか。


私達にとって何百年も前の出来事を、

自分が見たものとして覚えている。


ルゥ。


リル。


リヒト。


ナハト。


村。


狼達。


一度燃え尽きたことまで。


本を読むように知っているのではなく、

全部、あいつ自身の時間だ。


「……あいつも」


思わず口から出ていた。


「え?」


ユーリスがこちらを見る。


私は、

去っていく竜達の背中を見たまま続けた。


「似たようなものなのだろうと思っただけだ。

 あいつは…私達にはおとぎ話にしか聞こえないものを、自分の記憶として持っている」


「あ……」


ユーリスも、

すぐに意味を理解したらしい。


腕の中の薪を抱え直しながら、

少しだけ黙る。


「…そうですね」


その声は、

さっき竜を観察していた時より落ち着いていた。


「私達より、ずっと昔の時間を知ってるんですよね…」


「ああ」


「本人はあんな感じですけど…」


遠くから。


「だから押すなって言ってるだろ!」


またエアの声が響いた。


ユーリスの口元が緩む。


私も、

少しだけ呆れた。


「……あれを見ていると忘れそうになるな」


「私もです…」


二人で薪を拾いながら歩き出す。


少し進んだところで、

ユーリスが何かを思い出したように口を開いた。


「……私、前にエアへ聞いたんです」


「何をだ?」


「この旅が終わった後、…どうするのかって」


手が止まりかけた。


この旅が終わった後。


色々なことが積まれていくなかで、

私はそれでもエアを見届けるつもりだった。


だが私も、

その先をまともに考えたことはなかった。


「何と答えた?」


「まずは、ルゥさんを探すって」


「……そうか」


それは知っている。


あいつが、

ずっと探している女。


昔を生きたエアが、

今も会おうとしている相手。


「その後は?」


「考えてないそうです…」


「……あいつらしいな」


思わず零れた。


だが、

笑う気にはならなかった。


ルゥを見つけた後。


アンカーを封じ終えた後。


…今の旅が終わった時。


エアは、

どこへ行くのだろう…。


私達は。


私は――。


「……」


乾いた枝へ伸ばしていた手が、

そのまま止まる。


そんな私を、

ユーリスが横から見ていた。


「……セレスさん」


「何だ?」


「えと…一つ、聞いてもいいですか?」


珍しく歯切れが悪い。


「聞けばいいだろう」


「その……前から少し、気になってたんです」


ユーリスは一度、

遠くの岩棚へ目を向けた。


そこにまた。


「次!ちゃんと並べ!」


エアの声が聞こえてくる。


「エアって……、

 セレスさんを見る時だいぶ違うんです。

 他の人を見る目とは、違うんです」


「……」


今度こそ、

手が完全に止まった。


ユーリスは私の顔を窺う。


「前にエアから、少しだけ昔の話も聞きました。

 それに……セレスさんも、ルゥさんのことを何度か話してましたし」


そこまで言って、

少し迷う。


そして。


「ずっと、聞けなかったんですけど……」


真っ直ぐ、

私を見る。


「セレスさんは…、ルゥさん…なんですか?」

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