第279話:竜の夜
洞窟を出る頃には、
空に残っていた赤もほとんど消えていた。
西の山際にだけ細い橙が残り、
その上を濃い青が覆い始めている。
昼間は岩肌の細かな傷まで見えていた谷も、
今は凹凸の奥から順番に闇へ沈む。
時折その上を横切る竜の影だけが、
空より濃く動いていた。
肩へ乗せた矛が、
歩くたびに重心を引く。
俺が使っていた槍より長く、
穂先も大きい。
中央から張り出した二枚の刃もあるせいで、
先端へ重さが寄っていて、
同じ長物でも感覚はかなり違った。
洞窟に残されていた装備も、
使えそうなものだけ身に着けている。
胸と脇を覆う黒ずんだ金属板に、
肩を守る部品。
腰にも革と金属を組み合わせた古い装具があり、
どれも傷だらけだったが、
試し原で服ごと燃やした後よりは遥かにまともだった。
「……思ったより似合いますね」
横から声がして、
顔を向ける。
ユーリスが、
矛から俺の装備へ目を移しながら歩いていた。
「そうか?」
「はい、少なくともさっきよりいいです」
「さっきまでと比べるな」
前を歩いていたミリカまで振り返り、
頭から足まで眺めたあと、
尻尾を大きく揺らす。
「でもエア、ちょっと悪そうに見えるにゃ。
黒い鎧に、竜を殺すための大きな矛……完全に悪役にゃ」
「誰が悪役だ……」
「なら竜殺しにゃ」
「やめろ……縁起でもねぇ」
周囲には、
竜しかいない。
そう言うと、
ユーリスが耐え切れなくなったように笑い、
少し後ろを歩いていたセレスまで顔を逸らした。
「さしずめ首領かなにかだな」
「……お前も笑ってるだろ」
「笑っていない」
「……ならこっち見ろ」
「断る」
絶対笑ってる。
ガァナだけは、
俺達のやり取りへ何も言わず、
山に囲まれた谷を進んでいた。
しばらくすると、
その巨体が足を止める。
このまま領域の出口まで案内するのかと思ったが、
ガァナが顔を上げた先には、
試し原とはまるで違う場所が広がっていた。
「今日は、ここにいろ。
今から外へ向かう必要もあるまい」
「ここで?」
「ああ」
言われて、
改めて辺りを見る。
岩壁のあちこちに、
大きな穴が開いていた。
天然の洞窟らしく形はばらばらで、
その入口や岩棚には、
すでに何頭もの竜が身体を伏せている。
昼間は、
どの竜も立っているか、
飛んでいるところばかり見ていた。
だからなのか。
翼を畳んで岩へ顎を乗せている姿や、
洞窟の入口へ身体を半分だけ入れたまま眠っている姿は、
少し妙に見えた。
崖の下では、
まだ小さい二頭が互いの角を押し付け合っている。
一方が身体を捻れば、
もう一方も負けじと押し返し、
そのまま二頭揃って岩の上を転がった。
すぐに起き上がって、
またやっている。
「……普通に暮らしてるんだな」
思わず口から出た。
「何だと思っていた?」
ガァナが返す。
「いや……竜を見るの、初めてだからな」
ユーリス達にとっても、
それは同じらしい。
ミリカはさっそく首を伸ばしてあちこち眺め、
マリスも洞窟の奥へ視線を巡らせている。
セレスは聖杭槍杖を持ったままだったが、
昼間のようにすぐ使える角度ではなく、
今は先を下へ向けていた。
少なくとも、
ここへ来た時の警戒はもうかなり薄れている。
―――バサァァッ!!
突然、
頭上から強い風が落ちてきた。
髪が大きく煽られ、
反射的に顔を上げる。
一頭の竜が、
巨大な獲物を爪で掴んだまま降りてくるところだった。
四本脚。
頭には太い角。
魔物なのだろうが、
胴だけでも俺達が何人か並んで寝られそうな大きさがある。
それが地面へ落とされた。
―――ズンッ!!
土が揺れる。
運んできた竜は獲物の腹へ牙を立てると、
そのまま皮ごと引き裂いた。
湿った肉の音と一緒に血の匂いが広がり、
近くにいた別の竜達も集まり始める。
「豪快ですねぇ……というかあんな魔物、見たことないです。
もしかして特有の……」
そこから先は、
ほとんど独り言だった。
「まあ、あの身体ならそうなるだろ」
竜にとっては、
普通の食事なのかもしれない。
俺達にも肉を分けてくれるらしく、
大きな塊が一つ、
岩の上へ置かれた。
人間数人分としては、
十分すぎる。
マリスが、
肉と俺を交互に見る。
「……焼く?」
「俺……だよな?」
火を出し、
適当な岩を熱する。
切り分けた肉を置くと、
すぐに脂が浮き始めた。
―――ジュゥゥ……。
香りが広がる。
すると、
妙なことに気付いた。
近くにいた竜が、
こっちを見ている。
一頭だけじゃない。
少し離れて食事をしていた若い竜まで鼻先をこちらへ向け、
焼ける肉の匂いを嗅ぐように、
何度か鼻を動かしていた。
「……お前ら、自分で火を吐くだろ」
当然、
返事はない。
ユーリスが隣へしゃがみ込み、
肉を覗く。
「吐けることと、料理に使うことは別なのでは?」
「あいつらの火じゃ……確かに炭になっちまうな」
肉を返そうと手を伸ばしたところで、
正面から大きな鼻先が近付いてきた。
さっきまで遠くにいた、
別の若い竜だった。
目は肉に釘付けだ。
「おい」
鼻先が止まる。
「これは俺達のだ」
竜は俺を見る。
次に肉を見る。
また俺を見る。
「自分のがあるだろ?」
後ろには、
さっきの獲物がまだ大量に残っている。
それでも動かない。
「駄目だ」
少し強く言うと、
若い竜は不満そうに鼻から息を出した。
それでも無理に取ろうとはせず、
焼ける肉の横へそのまま伏せてしまう。
ユーリスが隣で笑っていた。
「何だよ?」
「いや……何か、普通だなって」
「何が?」
「だって、竜が相手なのに、いつも通りすぎて」
意味が分からず顔を見ると、
ユーリスはまだ口元を緩めている。
「さっきまで、竜に父と呼ばれて、神器を預けて、世界の外の話までしてたのに……。
今は肉を取られそうになって『駄目だ』って怒るのが……なんか面白くて」
「取られたら俺達の飯がなくなるだろ」
「それもそうなんですけど」
また笑われる。
神話だの父だの言われても、
腹が減れば食うし、
肉を取られそうなら止める。
何がおかしいのか。
火を少し弱め、
別の面へ返す。
その間にも、
竜達の夜は続いていた。
食事を終えた一頭が岩棚へ上がり、
翼を畳んで寝始める。
角を押し付け合っていた二頭はまだ続けていて、
何度か身体をぶつけたところで、
近くにいた大きな竜から翼でまとめて押し退けられていた。
追い払われても、
少し離れた場所でまた始める。
「……元気にゃ」
肉を頬張りながらミリカが言う。
「お前も似たようなもんだろ」
「元気にゃ!……何がにゃ!?」
そんなふうに騒いでいるうちに、
焼いた肉はほとんどなくなった。
竜達も腹を満たしたのか、
谷に響いていた骨を噛み砕く音や、
翼の動く音が少しずつ減っていく。
「この場所なら、見張りもいらないな……少し散歩してくる」
「……気をつけて」
隣にいたマリスが頷く。
俺は腹ごなしに少し見て回ろうと、
立ち上がった。
すると、
ユーリスも一緒に立つ。
「私も行きます」
「お腹いっぱいだから行かないにゃ〜」
「私も、今はいい」
ミリカは食べ過ぎたのか、
腹を抱えて寝転がる。
セレスも地面に座り、
聖杭槍杖を磨いていた。
夜が深くなり、
上を見れば岩山の切れ目から星が見え始めている。
昼間は、
竜の大きさばかりが目に入った。
今は違う。
眠る。
食う。
じゃれる。
子供を押し退ける。
生きるのに、
当たり前のことをしている。
そうして歩いているうちに、
岩壁の奥で身体を丸めている一頭が目に留まった。
翼が、
地面へ広がっている。
その下。
白っぽい丸いものが、
いくつか並んでいた。
足が止まる。
「……卵?」
横にいたユーリスも、
気付いたらしい。
「ああ、でも空だな」
竜の卵の空。
半分に砕けているが、
まとめれば人間の身体ほどある。
伏せている竜は、
外から吹き込む風を遮るように翼を傾け、
子供を身体の内側へ抱え込んでいた。
それを見ていると。
岩の色が、
一瞬だけ黒く焼けた土へ重なった。
焦げた草。
焼けた羽。
血と、
獣の内側から出てきた臭い。
死んだ大きな鳥の腹から転がり出た、
白い卵。
あの時の俺は、
食えるかどうかを考えていた。
手に取った直後、
殻へ細い亀裂が入ったのを覚えている。
『……ん?』
ぴき、ともう一度。
そして、
内側から弾けた。
『ギョワッ!』
「……」
思い出しても、
変な鳴き声だった。
「エア?」
ユーリスの声で、
意識が戻る。
「何だ?」
「今、笑ってました」
「そうか?」
「はい。
何かありましたか?」
もう一度、
竜のそばにある卵の殻を見る。
生まれたばかりのダックは、
逃げるどころか俺の足元へ真っ直ぐ来た。
羽毛を擦り付け、
膝へ頭を押し付けて。
それでも俺は、
大きくなったら食えばいいと思っていた。
親があれだけ大きかった。
育てれば、
かなりの肉になる。
そんなことしか考えてなかった。
「……馬鹿だったな」
「何が?」
ユーリスがすぐ拾う。
「昔の俺だ」
「昔の?」
俺の顔を覗き込んだあと、
ユーリスも卵を見る。
「もしかして、ダックのことですか?」
「ああ。
育てて食おうとしてた」
「食うって……エアらしいですね」
「まあな」
「エア、その……。
久しぶりに……エアの話、聞きたいです」
ユーリスには、
学院で色々話す機会はあった。
でも、
細かいところまでは、
いちいち聞かせていなかった。
だから。
卵から生まれたこと。
最初は食うつもりだったこと。
川の水が冷たくて渡れず、
足をつけただけで変な声を上げたこと。
そんな昔のことを、
少しずつ話した。
「ルゥさんが抱えて川を?」
「ああ」
「エアじゃなくて?」
「俺は先に渡ってた」
「置いてったんですか?」
「最初は食うつもりだったからな。
情はかけてなかった」
「意外ですね……」
「飯に名前をつけるか?」
ユーリスが額へ手を当てる。
「昔のエア、本当に今以上に……雑というか……」
「生きるのに必死だったんだ」
当時は、
それが普通だった。
生きられる奴は生きる。
無理なら死ぬ。
俺自身が、
そうやって生きていた。
でも。
あの日、
ルゥは違った。
川を渡ったあと。
ダックを腕へ抱えたまま、
俺のところまで来た。
そして、
顔の前へ突き出した。
『……なまえ!』
何を言われているのか分からず、
本気で頭が止まった。
名前なんて、
付けるつもりはなかった。
名前を付ければ、
区別が生まれる。
区別すれば、
情が湧く。
そうなれば、
食いにくくなる。
だから、
そのまま言った。
『……名前、付けたら食いにくくなるぞ』
それでも、
ルゥは引かなかった。
『エア、なまえ!』
結局、
俺が折れた。
「それで……ダック?」
ユーリスが聞く。
「そうだ」
「何でダックだったんですか?」
「鳥だったから」
「……?」
何だその顔。
「どうして鳥だと、ダックになるんですか?」
「……」
言われてみれば、
妙だった。
あの頃の俺は、
今の言葉なんて知らなかった。
ルゥと話す時ですら、
物を指して音を覚え合っていたような時期だ。
なのに。
あの時だけは、
ほとんど迷わず「ダック」と口にした。
何故そう呼んだのか。
鳥だから。
ずっと、
それで終わらせていた。
けれど今は、
自分の中に、
俺自身が覚えていないものまであることを知っている。
俺は俺だ。
そこを疑うつもりはない。
それでも、
俺という存在の中にはルクスへ繋がるものがあり、
自分では知らないはずの何かが、
昔から混じっていたのかもしれない。
だとしたら。
どこまでが俺で。
何が、
俺より前からあったものなのか。
考えたところで、
綺麗に分けられる気はしなかった。
「……変な話だな」
「何がです?」
「あいつが俺にしてくれた。
だから俺は、自分が何から出来てようが俺だと思ってる」
ユーリスが、
こちらを見る。
その視線を感じながら、
別の顔が頭へ浮かんだ。
白い髪。
酒に酔いながら、
それでも痛いほどはっきり言った声。
『私として……見てほしかった』
胸の奥へ、
鈍いものが残る。
自分については、
何が混じっていようが俺だと言える。
なのに俺は。
セレスの中へ、
ルゥを探した。
あいつはあいつだと、
分かっているくせに。
触れて。
抱いて。
唇まで重ねて。
その向こうに、
ルゥを探した。
「……俺も大概だな」
「エア?」
「いや……」
自分が同じことをされたら。
そんなの知らん。
そう言って、
済ませてしまう。
何から生まれたかではなく、
今ここにいるのは俺だと思う。
それを。
俺は、
セレスに出来ていなかった。
分かっているつもりでも。
まだ、
どこかで整理出来ていない。
俺は何なのか。
ルゥを探して。
セレスを傷付けて。
それでも今は、
昔にはいなかった奴らと一緒に、
ここまで来ている。
そんなことを考えていると。
「……エア」
横から声がした。
「何だ?」
ユーリスは俺ではなく、
翼の下に並んだ卵を見たまま、
少しだけ間を置いた。
「エアは……この旅が終わったら、どうするんですか?」
「……」
ユーリスの問に。
すぐには…答えが出なかった。




