第276話:槍を預ける理由
古い竜の鼻先から手を離しても、
まだ鱗の硬さと熱が残っていた。
さっきまで灯していた火は、
もう消えている。
夕暮れの風が谷を抜け、
岩肌を撫でながら俺達の間を通り過ぎた。
目の前の竜は、
しばらく俺を見たまま何も言わなかった。
その金色の瞳には、
さっきまでのような、
何かを思い出そうとしている迷いはもうない。
やがて。
巨大な頭が、
ほんの少しだけ持ち上がる。
「父よ」
「何だ?」
「何故…ここにいる」
その問いに、
すぐ答えようとして言葉が止まった。
俺自身が何故ここにいるのか。
それを説明し始めれば、
ルクナスとの契約も。
神話も。
アンカーも。
ルゥのことも出てくる。
全部、
繋がってはいる。
けれど。
今こいつへ最初に話すべきものは、
もっと単純だった。
左手へ意識を向ける。
いつもの重さ。
前から握っていたはずなのに、
俺の知らない時間まで背負って戻ってきた槍。
「……こいつを預けに来た」
槍を少し持ち上げる。
古い竜の瞳が、
俺の顔から穂先へ移った。
驚きはなかった。
それどころか、
槍の形を確かめるより早く、
低い声が返ってくる。
「それか…」
「知ってるんだな」
「知っている…」
短い返事だった。
けれど、
その声には、
俺を見た時のような曖昧さがない。
「祖と共にあった頃から知る」
金色の目が、
柄を辿る。
「父が消えた後も」
その言葉に、
握っていた指が少し止まった。
「その後の事もか?」
古い竜は頷く。
「そうだ」
たったそれだけなのに、
妙に重かった。
俺が使っていた頃の槍なら、
ダックの記憶にあっても不思議じゃない。
でも。
こいつが言っているのは、
そこから先だ。
俺がいなくなり。
リヒトやナハト達の時間が過ぎ。
さらに何世代も人が生き。
その間、
この槍がどう扱われてきたのか。
俺よりも、
目の前の竜の方が知っている。
「何があった?」
聞くと、
古い竜は少しだけ槍から目を外した。
谷の向こう。
夕日に染まる岩山へ向いた瞳は、
今ここにはない何かを見ているようだった。
「かつて」
低い声が響く。
「それを巡り、大陸は争った」
「……大陸?」
背後で、
杖の石突きが小さく岩へ触れる音がした。
振り返らなくても分かる。
ユーリスだ。
古い竜の言葉に、
今まで黙っていたこいつの身体が僅かに前へ出た。
「待ってください」
やっぱり来た。
ユーリスは俺の横まで来ると、
古い竜を見上げた。
巨大な相手を前にしているのに、
さっきまで竜そのものへ向けていた緊張より、
今は別のものが勝っているように見える。
「その戦争は……いつの話ですか?」
古い竜の目が、
ユーリスへ動く。
「いつ?」
「今の暦でなくて構いません」
ユーリスは、
一度言葉を整えるように息を入れた。
「この槍が使われた大陸規模の戦争なら、
私達にも記録があります」
俺も知っている。
森で、
焚き火を囲みながら聞いた。
白塔同盟。
中央宗教国家。
第一次大陸戦争。
この槍が一度振るわれ、
戦局がひっくり返った。
地形まで変わった。
今でも、
使用地点には歪みが残っていると。
あの時、ユーリスが教えてくれて、
俺は初めて知った。
ただの鉄だったはずの俺の槍が、
人間を数えきれないほど殺したかもしれないことを。
「春紀百五十年前後」
ユーリスが続ける。
「白塔同盟と中央宗教国家が衝突した、
第一次大陸戦争です」
古い竜は、
少し考えるように黙ったあと。
「その名は知らぬ」
と答えた。
ユーリスの口が僅かに開く。
「では……違う戦争?」
「ああ」
その返事に、
俺より先にユーリスの表情が変わった。
「もっと……前?」
古い竜は、
何も急がず答える。
「あの頃」
金色の瞳が、
遠い岩山の向こうへ向いた。
「我らはまだ、人と共にいた」
ユーリスが、
完全に黙った。
俺も。
一瞬遅れて、
その意味を拾う。
今の人間にとって、
竜は本当にいるのかさえ怪しい存在だ。
ユーリスですら、
ここへ来るまで実物を見たことがなかった。
本にはある。
古い文献にも、
名前は残っている。
けれど。
いつまで人と共にいたのか。
何故いなくなったのか。
それすら、
今の人間は知らない。
「……竜が」
ユーリスの声が、
さっきより低くなった。
「その戦争に参加していたんですか?」
古い竜は答える。
「我らも戦った」
その言葉に、
試し原が頭へ浮かんだ。
若い竜の前脚を槍で受け。
火をぶつけ合い。
最後には、
俺自身が火になって近付き。
拳で巨体を倒した。
あれは試しだった。
互いに、
殺すためじゃなかった。
「なぜだ?」
俺が聞く。
「なぜ俺を知るお前たちまでもが、争った」
古い竜は、
すぐに答えた。
「守るためだ」
迷いのない声だった。
「誰を?」
「…共に生きた人を」
胸の奥へ、
何かが重く落ちる。
古い竜の声は、
そこで止まらない。
「我らは長く、人と共にあった。
人が子を産み、
その子が育ち、
老い、死ぬ。
その間を共に生きた」
今の、
この竜の領域とはまるで違う。
俺が知らない時代。
人のすぐ傍に、
こいつらがいた。
ダックが、
リヒトやナハトの傍にいたように。
その続きとして、
ずっと。
「だが」
古い竜の声が低くなる。
「人は分かれた」
「国か?」
俺が聞くと、
竜は僅かに頭を下げた。
「ある地で共に生きた竜は、
その地の人を守った」
少し間を置き。
「別の地で生きた竜も、
そこにいる人を守った」
その先は。
聞かなくても分かった。
「……竜同士でも、戦ったのか」
「戦い……殺し合った」
今度は、
返事までに少しだけ間があった。
「多く…」
谷を抜ける風が、
翼の端を鳴らした。
俺は、
何も言えなかった。
守るため。
どちらも。
自分の傍にいた人間を。
家族みたいに生きてきた奴らを。
だから、
どちらも退けなかった。
「人の争いへ」
古い竜が続ける。
「我らの力が加わった。
山が焼け、森が消え、川の流れが変わった」
金色の瞳が、
俺へ戻る。
「人だけならば失わなかったものまで」
低い声が、
腹の奥へ響く。
「我らは壊してしまった」
頭へ、
ルクナスの言葉が浮かんだ。
『人を嫌ったわけじゃない』
『むしろ逆だよ』
『近すぎたんだ』
あの時は、
何となくしか分かっていなかった。
「……それでか」
周囲を見る。
どこまで行っても、
人の家はない。
道も。
城も。
街も。
巨大な岩と。
山と。
竜だけ。
「人から離れたのか……」
古い竜は、
一度だけ俺の後ろにいる皆へ目を向けた。
ユーリス。
ミリカ。
マリス。
そして、
聖杭槍杖を持つセレス。
「我らが傍にいれば……人は、我らの力を戦へ求める……」
少しだけ、
声が止まる。
「我らも、共に生きた者を見捨てられぬ」
だから、
離れた。
人間を見捨てるためじゃない。
好きだったから。
次に戦争が起きた時、
また守ろうとしてしまうから。
「……」
横を見ると、
ユーリスが杖を握ったまま古い竜を見上げていた。
さっきまでの、
知りたがる顔じゃない。
「そんな話……」
小さな声。
「残ってません」
古い竜の瞳が、
ユーリスへ動く。
「……人は忘れる」
「でも、完全にじゃないです。
竜が人と近くに暮らしていたこと自体は、
古い記録に断片があります」
ユーリスは、
少しだけ言葉を選びながら続ける。
「でも、竜同士が人間の戦争で殺し合ったことも……。
その結果、自分達から離れたことも」
首を振る。
「私が読んだ記録にはありません…」
古い竜は、
驚かなかった。
「…そうか」
「はい…」
ユーリスの返事が、
少し遅れた。
そこで。
古い竜が、
俺の槍へ目を戻した。
「我らは離れた」
低い声。
「だが……。
人は、それを手放さなかった」
視線の先。
俺の手にある槍が、
今までより少し重く感じる。
「国が滅び、別の国が生まれ。
教えも、名も、何度も変わった。
それでも、それらは残った……。
人は、求め続けた」
神器。
俺が知らないうちに。
残ったものへ意味が付き。
後の世界で、
大きすぎる力を持っていた。
「それも」
古い竜が言う。
「何度も争いに使われた」
「何度も……?」
思わず聞き返す。
俺は、
第一次大陸戦争の一度きりだと思っていたわけじゃない。
でも少なくとも、
ユーリス達から聞けた大きな記録は、
そこだった。
「それより前にも?」
横から、
ユーリスが聞く。
古い竜は、
金色の瞳を向ける。
「あまりに多い」
それだけだった。
ユーリスの口が閉じる。
俺も、
槍を見る。
狩りに使った。
影を消し去った。
家族を守った。
ただの鉄だった。
それが。
俺がいなくなったあと、
誰かの旗になり。
誰かの正しさになり。
奪われ。
守られ。
何度も、
戦場へ持ち出された。
こいつで、
大勢の人が死んだ。
最初は、
壊すつもりだった。
壊せないなら、
隠す。
それも無理なら、
俺が持つ。
でも今は…。
俺一人が抱えているだけじゃ、
結局こいつを求める奴らまで俺のところへ集まってくる。
「……やっぱり」
柄を握り直す。
「こいつは、人の手には置いておけない」
ユーリスが、
俺を見る。
何も反論しなかった。
あの頃なら。
神器一つを動かせば、
均衡が崩れる。
そう言っていた。
それも、
間違ってはいない。
でも。
その均衡を作っているもの自体が、
何千年も同じ争いを繰り返してきた。
「俺が持ってても」
槍を見る。
「結局、欲しがる奴は来る」
教会。
国家。
中央。
神器を、
自分達の側へ置きたい奴ら。
「だから」
古い竜へ顔を上げる。
「ここに預けたい」
古い竜は、
しばらく俺を見ていた。
「誰の国でもなく、
誰の教えにも使われない場所に」
「人の争いから……遠ざけるためか?」
「……それもある」
金色の瞳が、
僅かに止まる。
「それも?」
答える前に。
後ろから、
空気の違いを感じた。
水の気配そのものは変わらない。
でも、
立ち方が変わった。
振り返る。
マリスの身体。
青い髪。
水色の模様。
同じ姿なのに。
目だけが、
さっきまでと違う。
「そう」
口元に、
見慣れた軽い笑みが浮かぶ。
「それだけじゃない」
「……ルクナス」
「やぁ、はじめまして」
マリスの身体を借りたルクナスが、
俺達の方へ歩いてくる。
古い竜は、
その姿を長く見た。
何かを探るようではあったけれど、
俺の時ほど強く反応はしなかった。
ルクナスも、
無理に名乗ろうとはしない。
俺の横まで来ると、
まず槍へ目を落とした。
「昔は」
声から、
さっきまでの軽さが少し消える。
「人間に奪われるのが、一番面倒だった」
古い竜の瞳が、
ルクナスへ向く。
「…今は違うと?」
「うん」
ルクナスは、
俺を見る。
次に、
俺の手の槍を見る。
「今は」
短く息を入れる。
「人間だけじゃない」
谷の上を、
風が抜けた。
「エアも、僕も」
最後に、
俺の槍を指す。
「それも」
ルクナスの目から、
笑みが消えた。
「世界の外にいる者達から、回収対象にされてる」
古い竜の金色の瞳が、
初めて槍から離れた。
「……世界の、外」
低く繰り返されたその言葉だけが、
夕暮れの谷へ残った。




