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第275話:渡り続けるもの


口にした名前は、

思っていたよりも小さな声になった。


それでも、

目の前にいる古い竜には、

はっきり届いたらしい。


金色の瞳が僅かに揺れる。


巨大な鼻先は俺の手のすぐ近くにあったまま、

掌の上で燃える火と俺の顔を交互に確かめていた。


「……ダック、なのか?」


もう一度。


今度は、

少しだけ強く呼んだ。


あいつを呼ぶ時と同じように。


森の向こうへ走っていった時。


飯を見つけて戻ってこない時。


ルゥに怒られて、

少し離れたところで拗ねるように伏せていた時。


何度も使った名前。


呼べば、

必ず来た。


そんな名前を。


俺は今、

羽毛も嘴もない巨大な竜へ向けて呼んでいる。


おかしなことをしているのは、

分かっていた。


目の前にいるこいつが、

あの頃のダックそのものなはずがない。


それでも。


さっき聞いたもの。


俺とは逆側から語られた、

同じ時間の感触が。


そう聞かずにはいられなくさせていた。


古い竜の目が、

さらに大きく開いた。


けれど。


返ってきたのは、

俺が期待したものとは少し違った。


「……その音を、我は知らぬ」


「知らない?」


胸の奥へ、

少し重いものが落ちた。


名前までは残っていない。


そういうことか。


長い時が経っている。


俺が消えてから、

この世界が今の形になるまで。


その間にどれだけの世代が生まれ、

どれだけのものが変わったのか、

俺にはまだ全部分からない。


当たり前と言えば、

当たり前なのかもしれない。


それでも。


さっきまでこいつの口から出てきたものは、

あまりにも鮮明だった。


森。


ルゥ。


背中へ掛かる人の重み。


俺の声。


火。


そこまで残っているのに、

名前だけがない。


その方が、

かえって不思議だった。


「何で……」


言い掛けたところで、

古い竜が俺の手へ鼻先をもう少し寄せた。


火が、

古びた鱗の表面を赤く照らす。


「知らぬのは、名だけだ」


低い声が、

身体の奥まで響いた。


「名は、薄れる」


「……」


「声も。

 言葉も。

 形も」


古い竜は、

一つずつ確かめるように続けた。


「長く時を渡れば、

 全てがそのまま残るわけではない」


俺は何も言わなかった。


若い竜は、

こいつを『多く覚えている者』だと言った。


でも、

その意味は、

古いから昔の話をたくさん知っているというだけじゃないらしい。


こいつの言う「覚えている」は、

俺達が普段使っている意味とは少し違う。


「それでも」


竜の瞳が、

俺を捉え直す。


「消えぬものがある」


「消えぬもの?」


問い返すと、

古い竜はしばらく答えなかった。


代わりに目を閉じる。


俺の手の火が、

閉じた瞼の下を赤く照らしていた。


「熱」


短い言葉。


「匂い」


次。


「重み」


俺の指が、

僅かに動く。


さっき聞いたものと同じだ。


「怖れ」


古い竜の声が、

さらに低くなる。


「喜び。

 飢え。

 痛み。

 守ろうとしたもの」


そこで、

息が僅かに止まった。


「……守ろうとしたもの?」


「ああ」


古い竜が目を開く。


「それらは、消えにくい」


その言葉に、

ダックがまた頭へ浮かんだ。


あいつは、

頭がいいとは言えなかった。


変なものを食うし。


勝手に走っていくし。


ルゥに怒られても、

少し経てば同じことをする。


腹が減れば、

俺達の分まで狙った。


小さい頃なんて、

何を食えるのかすらろくに分かっていなかった。


それでも。


何かが来れば、

必ず俺達の前へ出た。


教えた覚えはない。


俺がそうしろと言ったわけでもない。


影が近付いた時も。

獣が姿を見せた時も。


あいつは自分から身体を起こして、

俺達と相手の間へ立った。


「……」


胸の奥が、

また熱くなる。


あいつが何を考えていたのか。


その時の俺は、

いちいち考えたことなんてなかった。


家族だった。


一緒にいるのが、

当たり前だった。


だから、

あいつが俺達を守ろうとしていたことも、

俺の中では当たり前になっていた。


けれど。


今になって。


何千年も先で、

それが残っていると聞かされている。


古い竜は、

俺の顔を見ながら続けた。


「我らは人と違い、

 何も持たずに生まれるわけではない」


「……人と違う?」


後ろから、

小さく息を呑む音がした。


ユーリスだ。


振り返らなくても分かる。


こういう話を聞いて、

こいつが何も気にしないはずがない。


多分、

今すぐいくつも聞きたいことがある。


それでも、

声は挟まなかった。


杖を持ったまま、

俺と古い竜の会話を黙って聞いている。


セレス達も同じだった。


背後に気配はある。


誰も離れていない。


けれど今は、

誰も俺達の間へ入ってこなかった。


古い竜も、

俺から目を離さない。


「卵の中」


その言葉が落ちる。


「我らは、前に生きたものを見る」


「……見る?」


「正しくは、違う」


古い竜の喉が震える。


「見るだけではない」


谷の奥から風が吹き抜ける。


俺の掌の火が横へ揺れ、

古い竜の鼻先へ赤い光と影を流した。


「走る」


「……」


「喰う、眠る」


一つずつ。


今までよりも、

言葉がはっきりしていく。


「傷付く」


古い竜の目が、

俺を通り越すように遠くへ向く。


「誰かに触れられる」


胸がまた鳴った。


「誰かを待つ」


「……」


「誰かを失う」


今度は、

すぐに返事が出来なかった。


失う。


その言葉だけで、

嫌でも頭に浮かぶものがある。


俺が消えたあと。


ダックが、

どれだけ生きたのか。


誰と一緒にいたのか。


リヒトやナハトの傍に残ったことは聞いている。


でも、

あいつが俺のいない時間を、

どう生きたのか。


何を見て。


誰を見送り。


最後に何を思ったのか。


俺は知らない。


知ることが出来なかった。


古い竜は、

俺が黙ったのを見ても急かさなかった。


「それを」


声が続く。


「我らは、自分のものとして受け取る」


「自分の……?」


目の前の竜を見る。


「結局、お前はあいつじゃないってことか?」


考えるより先に、

言葉が口から出た。


古い竜は、

すぐには答えなかった。


金色の目が、

俺を映している。


「そうとも言える。

 違うとも言える」


「……どっちだよ」


「それが、我らだからだ」


答えになっているようで、

やっぱり分からない。


顔に出ていたのか。


古い竜は、

少しだけ首を下げた。


「人は、

 己が見たものだけを己の記憶と呼ぶのか」


「普通は、そうだろ」


少なくとも、

俺はそうだ。


ルゥと会ったこと。


リルが支えてくれたこと。


リヒトやナハトが生まれたこと。


全部、

俺自身がその場にいて、

見て、聞いて、触れたものだ。


誰かの記憶を、

自分が生きたものとして考えたことなんてない。


「我らは違う」


迷いのない声だった。


「我が生きたものも、我だ」


「……」


「我より前が生きたものも、

 我の中にある」


その言葉を聞いて、

さっきの違和感が少しだけ形を持ち始めた。


羽毛を掴んだ、

俺の手。


その手に掴まれていた感触。


背中へ乗っていた俺達と、

そこへ掛かっていた重み。


俺が呼んだ声。


同じ出来事なのに、

俺が知っているものとは向きが違った。


「親の記憶が残る……。

 そういうことか?」


古い竜は、

首を僅かに横へ振った。


「親だけではない」


「……?」


「親が受け取ったもの。

 その親が、さらに前から受け取ったもの。

 それらもまた、次へ渡る」


「ずっと前のものまで……?」


「ああ」


古い竜の目が、

俺の火へ落ちる。


「だが、全てではない」


「全部じゃない?」


「ああ」


やっぱり、

そうか。


言葉。


細かな形。


残っているものと、

抜け落ちているものがある。


俺達なら、

名前の方が先に残りそうな気もする。


でも、

こいつらはそうじゃないらしい。


「強く刻まれたものほど、長く残る」


古い竜が言った。


「強く?」


「長く共にいたもの。

 命へ深く触れたもの。

 失いたくないと強く抱いたもの」


「……」


忘れたくない。


そういう言葉ではなかった。


けれど、

俺にはほとんど同じ意味に聞こえた。


失いたくないと。


あいつが、

そう感じていた。


ダックが。


俺達を。


俺がいなくなったあとも。


「……」


しばらく、

何も言えなかった。


俺は、

あいつを残していった。


選んでそうしたわけじゃない。


あの時、

俺が燃え尽きなければ、

リヒト達が死んでいた。


それは今でも変わらない。


あの場へ戻れたとしても、

きっと俺は同じことをする。


だからといって。


残された方が、

何も感じなかったわけじゃない。


ルゥを失った時、

俺がそうだったように。


俺がいなくなったあと。


ダックも。


リヒトも。


ナハトも。


それぞれの時間を生きた。


俺だけが知らない。


その先を。


古い竜の中にあるものは、

その一部なんだろうか。


何をどう受け継いでいるのか。


まだ全部分かったわけじゃない。


何世代先まで残るのかも。


一頭の中にどれほど残るのかも。


同じものを全ての竜が持っているのかも。


分からない。


それでも。


一つだけ。


さっきまでより、

はっきりしたことがある。


俺がダックを覚えているように。


ダックも、

俺達を覚えていた。


俺がいなくなって。


時間が流れて。


あいつ自身がいなくなったあとまで。


名前は薄れても、

俺の火は残った。


声も。


匂いも。


背中へ乗った俺達の重みも。


それだけ深く、

あいつの中に俺達がいた。


「……馬鹿だな」


口から、

勝手に出た。


古い竜の目が、

少しだけ動く。


「何がだ」


「いや……」


手の火を見る。


赤い。


始まりの頃から。


何度世界が変わっても、

俺にとってはずっと同じ火だった。


「随分昔のことなのに……」


声が少し掠れた。


「まだ……覚えてくれてるんだな」


俺の言葉に、

古い竜はしばらく何も返さなかった。


ただ、

金色の目が、

さっきまでとは少し違う形で俺を見ているように感じた。


目の前にいるのは、

ダックそのものじゃない。


それはもう分かっている。


でも、

さっきまでなら、

そこで終わっていた。


今は違う。


こいつ自身が生きてきた時間の奥に、

俺の知らない形で、

あいつから続いてきたものがある。


だったら。


完全に他人だとも、

もう思えなかった。


古い竜が、

鼻先をほんの少しだけ俺の手へ押し付ける。


硬い鱗の感触が、

掌へ触れた。


火はそのまま消えない。


鱗も焼けない。


俺も引かなかった。


間に残った熱は、

昔、

羽毛の奥へ手を埋めた時の温かさとは全然違う。


それなのに。


何故か、

同じ場所へ触れているような気がした。


「父」


低い声が落ちる。


今度は、

さっきよりもその呼び方が自然に聞こえた。


ダックが俺を、

そういう存在として覚えていた。


名前も。


言葉も。


細かな形さえ薄れていく中で。


育てられ。


守られ。


共に生きた相手としての感覚だけが、

形を変えながらここまで残った。


古い竜は、

今の言葉でそれを「父」と呼んでいる。


鼻先は、

まだ俺の掌へ触れている。


「我らは、全てを残せぬ」


俺は顔を上げた。


「名も。

 声も。

 いつか形を失う」


金色の瞳が、

俺を捉える。


「それでも」


低い声が、

谷の底へ広がった。


「深く刻まれたものは、

 我らの中を渡り続ける」


「……」


「父」


もう一度。


今度は、

呼び掛けるように。


「我らは、忘れぬ」


全部を覚えているわけじゃない。


名前さえ失くしている。


それでも、

その言葉は不思議と嘘には聞こえなかった。


「……そうか」


それ以上、

何も言えなかった。


胸の奥へ沈んだものが大きすぎて、

無理に言葉へしようとすれば、

かえって違うものになりそうだった。


だから。


火を消さず。


手も離さず。


俺はしばらく、

目の前の古い竜へ触れたままでいた。

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