第271話:試しの先
倒れていた竜の前脚が、
ゆっくりと地面を掴んだ。
―――ズズ……。
太い爪が焼けた土へ食い込み、
巨体の下で地面が沈んでいく。
「……」
すぐ横で、
空気が張った。
ユーリスが杖を両手で握り直し、
セレスの聖杭槍杖も僅かに持ち上がる。
ミリカは耳を真っ直ぐ竜へ向け、
マリスも俺から半歩離れると、
白銀の槍へ手を戻した。
俺はその場から動かず、
起き上がろうとしている竜を見る。
拳を叩き込んだ顎の横。
何枚かの鱗が割れ、
その隙間から血が滲んでいた。
それでも前脚には、
しっかり力が入っている。
首も動いているし、
息は荒いものの止まってはいない。
「……よかった」
思わず、
口から漏れた。
「何がですか?」
ユーリスが竜から目を離さないまま聞いてくる。
「死んでない」
「そこを心配してたんですか?」
「当たり前だ」
殺すつもりなんてなかった。
そのつもりで殴ったし、
拳を入れた場所だって、
頭そのものではなく顎の横へずらした。
けれど、
あの一撃が自分で思っていた以上のものだったことは、
倒れたこいつを見れば嫌でも分かる。
あれだけ大きな身体が地面から浮き、
丸ごと横倒しになった。
無事だと分かるまでは、
さすがに安心出来なかった。
竜が身体を持ち上げる。
前脚が立ち、
続いて後ろ脚。
土へ触れていた片翼が大きく開き、
纏わり付いていた砂や砕けた石を、
まとめて振り落とした。
―――バサッ!!
一度の羽ばたきだけで、
強い風が試し原を走る。
服も防具も失った身体へ、
乾いた空気がまともに触れた。
肌に当たる風が冷たい。
けれど、
身体の奥まで冷えていく感じはなかった。
表へ出ていた炎は消えていても、
胸の奥にはまだ熱が残っている。
その熱が全身を巡っているせいか、
風に触れるほど、
内側との違いがはっきりした。
「……」
竜が、
完全に立ち上がる。
さっきまでより、
頭の位置が少し低い。
殴られた場所を庇っているだけなのか。
それとも、
別の理由があるのか。
そこまでは読めなかった。
俺も槍を握り直す。
火を出すつもりはない。
もう一度襲ってくるなら受けるが、
さっきまでみたいに自分の力を確かめる必要は、
もうなかった。
十分だ。
昔なら自分ごと消えていた火を使い、
今の俺はこうして立っている。
竜の前脚を受け止めた。
火の中も歩いた。
最後には、
あの巨体を拳で倒した。
今の自分が昔とはまるで違うことくらい、
これ以上試さなくても分かる。
竜の大きな瞳が、
俺へ向いた。
「……」
来ない。
爪も。
尾も。
翼も動かない。
喉の奥へ火が集まる気配もなかった。
ただ、
じっとこちらを見ている。
「まだやるのか?」
問い掛けても、
すぐには返ってこなかった。
代わりに、
竜の目が俺の身体を上から下まで辿っていく。
顔。
肩。
胸。
腹。
足。
まだ薄く残る青い紋様を、
確かめるようにゆっくりと。
それから、
右手にある槍へ移った。
「……?」
戦っていた時とは違う。
次にどこを狙うのか、
考えているようには見えない。
俺が何をしたのか。
その結果として、
何がここに残っているのか。
一つずつ確かめられているようだった。
俺も何も言わず、
その視線を受ける。
やがて、
巨大な頭が少し下がった。
「…試しは終わりだ」
低い声が、
試し原へ響く。
「終わり?」
「ああ、そうだ」
それだけだった。
あれで勝負がついたのか。
これ以上続けられないと判断したのか。
それとも、
見たいものを見たからなのか。
こいつらの試しが何をもって終わるのか、
俺にはまだ完全には掴めない。
ただ、
さっきまで感じていた、
こちらを測るような圧だけは消えていた。
槍の穂先を下げる。
「なら、よかった」
正直、
もう一度あの火を出せと言われても困る。
身体は平気だった。
でも、
周囲は全然平気じゃない。
俺と竜の火がぶつかっていた場所は黒く焼け、
一部にはまだ赤い熱が残っている。
俺が歩いた跡も酷い。
石は溶け、
地面の表面は硝子みたいに固まり、
最後に踏み込んだ場所には大きな亀裂まで走っていた。
それに、
服までなくなった。
これ以上やる理由なんてない。
そう思っているのに、
竜はまだ俺から目を逸らさなかった。
「……何だよ」
聞く。
返事はない。
竜の目が、
今度は俺の後ろへ移った。
試し原。
俺が歩いてきた跡。
赤く焼けた大地。
そこから、
また俺へ戻る。
「何なんだよ?、気になるならハッキリ言え」
二度目に聞くと、
ようやく竜が口を開いた。
「分からぬ」
「……は?」
思っていたのと、
まるで違う返事だった。
「何が?」
「お前だ」
「俺?」
「ああ」
竜は短く答え、
また俺を見る。
「力は見た」
少し離れていたミリカの耳が動く。
「なら十分だろ?」
「力だけならばな」
「……」
何だ。
まだ何かあるのか。
竜の視線が、
再び腕の青い紋様へ落ちた。
そこから胸。
右手の槍。
そして、
最後に俺の顔へ戻る。
「火も見た」
「見せた…」
「我らの火へ向かい、火を返した」
「ああ…」
「我が火の中を歩いた」
「それも見てただろ…?」
「見た」
分かっていることを一つずつ言われ、
少しずつ面倒になってくる。
「だから何だよ?」
「…分からぬ」
「またそれか…」
思わず返す。
竜は気にした様子もなかった。
分からないことを、
分からないと言っているだけ。
本当に、
それ以上でもそれ以下でもないらしい。
「お前の火が何なのか。
我には分からぬ」
「……」
そこで、
少しだけ引っ掛かった。
俺の火が何なのか。
そんなこと、
俺に聞かれても困る。
俺にとっては、
昔から火は火だ。
ルクナスと契約してから使えるようになり、
影を焼き、
家族を守り、
最後には自分ごと燃やした。
今では水や土まで身体の中で働いているらしいが、
それでも火そのものへ、
別の名前を付けたことなんてない。
「お前らにもあるだろ。火」
俺が言うと、
竜はすぐには答えなかった。
少し離れた岩棚へ、
一度だけ顔を向ける。
そこに集まっていた竜達は、
試しが終わった今も一頭として散っていない。
岩壁の上。
空。
遠くの風棚。
戦っていた時とは、
少し空気が違った。
あの時は、
力比べを見物しているように思えた。
今は、
誰も動かない。
鳴き声すらない。
ただ俺と、
焼けた試し原を見ている。
「我らにも火はある…」
ようやく若い竜が言った。
「なら――」
「…だが」
言葉を遮られる。
「我では、あれを語れぬ」
「あれ?」
竜の目が、
俺の歩いた跡へ落ちる。
赤く溶け、
形の変わった地面。
「お前が見せた火だ」
「……」
俺も、
その跡へ目を向ける。
自分では、
ただ昔と同じところまで踏み込もうとしただけだった。
違ったのは、
身体が消えなかったこと。
昔は一度使えば終わりだった。
今は、
火を止めればこうして戻れた。
俺からすれば、
むしろそっちの方が気になっている。
「それで?」
聞くと、
竜は試し原のさらに奥へ顔を向けた。
平原の向こう。
岩山が幾つも連なり、
その間を雲の影が流れている。
ここからでは、
その先までは見えない。
「来い」
「またかよ」
「我では分からぬ」
三度目。
さすがに俺も、
少し顔をしかめる。
「なら、どうすれば分かるんだ?」
竜はしばらく遠くを見たまま、
低い声で答えた。
「我らの中で、
最も古く生きる者」
「……一番上の奴か?」
「上?」
竜がこちらを見る。
本当に、
意味が分からないらしい。
「一番偉い奴とか」
「何故、古いだけで偉くなる?」
「……そういう感じじゃないのか」
「違う」
即答だった。
少し考える。
こいつらには、
王もいない。
国もない。
さっき見た試しだって、
誰が強いかを確かめるためのもので、
それがそのまま身分になるわけじゃない。
年齢。
強さ。
経験。
その全部が、
別々に扱われているのだろう。
なら、
人間みたいに長だの王だのと呼ぶ方が、
こいつらには変なのかもしれない。
「じゃあ、その古い奴が何なんだ?」
「古く生きる」
「それは聞いた」
「多く覚えている」
「……覚えてる?」
その言葉だけが、
妙に耳へ残った。
竜は黙る。
一瞬、
何かを言うべきか考えたようにも見えた。
けれど、
結局それ以上の説明はしなかった。
「会え」
「そいつに?」
「そうだ」
「会えば何か分かるのか?」
「分からぬ」
「……お前、本当にそればっかりだな」
「分からぬものを、
分かるとは言えぬ」
「まあ、そうだけど…」
変なところで真面目というか…素直だ。
こいつに聞き続けても、
答えが増える気はしなかった。
竜がもう一度、
俺の身体へ目を向ける。
薄くなり始めた青い紋様。
槍。
それから、
焼けた試し原。
「見せろ」
「何を?」
「先ほどのものを」
竜の目が、
俺の胸元へ向く。
「火だ」
「……」
もう消したんだけどな。
そう思ったが、
口にはしなかった。
多分、
もう一度ここで燃えろという意味じゃない。
こいつが見たものを。
もっと古く生き、
もっと多くを覚えている竜へ見せろ。
そういうことなんだろう。
「分かった」
槍を肩へ担ごうとして、
途中で止まる。
革の肩当てもない。
直接載せれば、
鉄が肌へ当たる。
別に痛くはないが。
そこで改めて、
自分が何も着ていないことを思い出した。
「その前に」
「何だ?
「服、どうにかしたい」
後ろから。
「今さらですか!?」
ユーリスの声が飛んできた。
「今さらって何だよ」
振り返る。
ユーリスは、
顔を真っ赤にしていた。
何故か、
俺よりこいつの方が困っている。
ミリカは俺とユーリスを交互に見たあと、
面白そうに尻尾を揺らした。
「エア、そのままでもいいにゃ」
「よくないです!」
「ユーリスが決めることじゃないにゃ」
「そういう問題じゃありません!」
セレスへ目を向ける。
こういう時なら、
こいつが何か言いそうなのに。
「……」
黙っていた。
俺の身体ではなく、
さっきまで俺が立っていた場所を見ている。
黒く焼け、
一部が赤く溶け、
今も熱で空気が揺れている大地。
やがて、
その目が俺へ戻った。
「セレス?」
「……何でもない」
「そうか?」
「ああ」
短く答える。
でも、
何でもないようには見えなかった。
さっき、
本当の火を見せろと言ったのはこいつだ。
そして俺は、
扱える範囲で、出せるところまで実際に出した。
教会が語る火でも、
神話に書かれた火でもない。
今の俺の火を。
何を思ったのかは分からない。
今ここで、
無理に聞く必要もないだろう。
マリスも、
少し離れたところからこちらを見ていた。
身体の紋様は、
もうかなり薄くなっている。
それでも、
その目だけは、
さっき腕へ触れていた時と同じように、
まだ身体の中の流れを追っているように見えた。
その時。
頭上で、
大きな翼音がした。
―――バサッ!!
見上げる。
岩壁の上にいた一頭が、
空へ飛び上がった。
続いて、
もう一頭。
俺達を見物していた二頭の竜が、
平原の奥へ向かって飛んでいく。
「……見物は終わりか?」
聞いたわけではなかったが、
そう呟くと、竜が答えた。
「先へ知らせる」
「何を?」
「人が来る」
「それだけか?」
「…」
本当に、
こいつらは必要なことしか言わない。
二頭の影が、
岩山の向こうへ消えていく。
その先に、
俺達がこれから会うらしい、
最も古く生きる竜がいる。
俺の名前すら知らなかったこいつとは違い、
何かを知っているのかもしれない。
ルクナスは以前、
竜は覚えていると言った。
けれど、
目の前のこいつは俺を知らなかった。
それでも、
火には反応した。
なら。
何が残っていて。
何が消えているのか。
それを確かめるには、
実際に会うしかない。
若い竜が、
身体を反転させる。
「行くぞ」
「待て」
「何だ」
「だから服だ」
「必要なのか?」
「必要だよ」
即答した。
後ろから、
ミリカの笑い声が聞こえる。
俺は軽く頭を掻きながら、
もう一度自分の身体を見る。
青い紋様。
昔より遥かに強くなった身体。
そして、
跡形もなく消えた服と防具。
この先、
また全部燃やさないといけない時があるかもしれない。
「力を試すたびに服なくなるのは…面倒だな」
小さく漏らす。
すると。
「それは貴様が加減を知らんだけだ」
セレスが返してきた。
「お前が本気出せって言ったんだろ」
「全裸になれとは言っていない!」
「火を出せば燃えるだろ」
「そこまで考えてから燃えろ!」
「無茶言うなよ」
「貴様なら出来るだろう!」
「知らん」
「なら次までに覚えろ!」
試し原に、
さっきまでとは全く違う声が響いた。
岩棚に残る竜達の何頭かが、
こちらを見ている。
その目がどういう意味なのかは分からない。
少なくとも、
もう敵を見る目ではないように感じた。
俺は槍を持ったまま、
平原の奥へ目を向ける。
その先にいるのは、
こいつより古く、
もっと多くの何かを覚えている竜。
そして、
そいつへ見せるのは。
俺の名前じゃない。
俺の火だ。
「……」
胸の奥へ意識を向ける。
表へ出ていた炎は、
もう何も残っていない。
それでも呼べば、
すぐに応える感覚がある。
昔と変わらない火。
昔とは比べものにならないほど、
変わった身体。
その二つが、
今の俺の中に同時にある。
それを見た時。
古い竜が何を思うのか。
その答えは、
まだ知らない。




