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第270話:まだ燃えられる


倒れた竜を前にしたまま、

しばらく拳を下ろせなかった。


殴った左手には、

まだ重い感触が残っている。


人を殴るとはまるで違う。


分厚い鱗と、

その奥にある巨大な骨や肉まで、

まとめて打ち抜いたような手応えだった。


少し痺れてる。


けれど、

指は動く。


手首も。


腕も。


あれだけのものを殴ったというのに、

痛みらしい痛みはほとんどなかった。


「……」


握っていた拳を開く。


覆っていた火が、

細く揺れながら消えていった。


それに合わせるように、

肩や背中から立ち上っていた炎も少しずつ勢いを失っていく。


さっきまで竜の火すら飲み込むように燃えていたはずなのに、

止めようと意識すれば、

不思議なくらい素直に収まっていった。


最後に胸元を覆っていた赤い火が薄れ、

熱で歪んでいた視界が元へ戻る。


そこでようやく、

風を感じた。


「……」


冷たい。


いや、

試し原を吹く風そのものは別に冷たくない。


今まで身体の周囲が熱すぎたせいで、

普通の風が冷たく感じるだけだ。


頬から肩へ。


胸。


腕。


足。


乾いた風が、

身体のあちこちへ直接触れていく。


(直接……?)


そこで、

自分の身体へ目を落とした。


「……あ」


服がなかった。


肩や胸を覆っていた皮の防具も、

火の中へ入る前まで着ていた服も、

何一つ残っていない。


焼け焦げた布すら、

ほとんど見当たらなかった。


部分的に使われていた金属だけが焦げ、

少し離れた地面へ転がっている。


「……そりゃ、そうなるか」


あれだけ燃えれば、

普通の服が残っている方がおかしい。


それよりも、

自分の身体だけが何事もなかったように残っている。


そのことの方が、

よほど変だった。


改めて腕を見る。


その表面に、

青い光がゆっくりと浮かび上がっていた。


「……」


腕から肩へ。


胸元へ。


腹へ。


海で見た時と同じ、

波の流れを思わせる紋様。


ネレイディアの身体にあるものとよく似た、

あの青い線だった。


ただ、

以前見た時よりも今はずっと強く光っている。


火が収まるほど、

その下に隠れていた青が逆に鮮明になっていった。


胸の奥から腕へ流れ、

そこから脇腹を通り、

また身体の中心へ戻っていく。


今も自分の中で巡り続けているものを、

そのまま外から見ているようだった。


(……水か)


火の中にいた時、

水を使おうとは考えていなかった。


冷やそうとも、

火を弱めようともしていない。


むしろ、

自分が消えていく感覚がなかった分、

あの時よりも強く燃やしていたはずだ。


それなのに、

熱は身体を崩すような形では残っていない。


胸の奥から全身へ流れ、

腕へ。


脚へ。


そして、

また戻ってくる。


火を止めた今になって、

その巡りだけがはっきり分かる。


マリスみたいに、

身体の外を水で覆っていたわけじゃない。


俺の周りにあったのは、

最初から最後まで火だけだった。


それでも中では、

確かに水が動いていた。


「……」


今度は、

足元へ意識を向ける。


地面を踏んでいる。


ただそれだけなのに、

身体の重さが妙に安定していた。


竜の前脚を受けた時と同じだ。


力を入れれば、

足元からその分だけ支えが返ってくる。


大地が俺を押し返しているというより、

身体と地面の境目が、

前よりずっと近くなったような感覚。


火が身体を崩そうとしても、

水は中を巡り続ける。


土は、

身体と足場を支えている。


多分。


今起きているのは、

そういうことなんだろう。


「……昔と、だいぶ違うな」


小さく漏れた。


あの日、

最後に全てを燃やした時は、

火を強めるほど自分がなくなっていった。


肉も。


骨も。


身体という形そのものも。


最後には、

俺自身が火になった。


だから、

戻れなかった。


でも今は違う。


同じところまで踏み込んだつもりなのに、

身体が残っている。


呼吸も出来る。


腕も動く。


足にも、

ちゃんと力が入る。


それだけじゃない。


身体の奥には、

まだ何かが残っていた。


「……」


少し怖いくらいだった。


あれだけ燃やした。


昔の俺なら、

もうここにはいない。


それなのに今は、

胸の奥へ意識を向ければ、

消したはずの火がすぐにでも応えそうな感覚まである。


(……これでも、終わりじゃないのか?)


自分のことなのに、

上限が掴めない。


昔より、

体が強くなっていること自体は分かっていた。


土に触れ、

水を知り、

底殻を倒した。


そこへ至るまでにも、

戦い、触れたものから少しずつ何かを取り込んできた。


一つ一つなら、

変わったことにも気付いていた。


けれど、

それらが全部重なった今。


自分がどこまで変わっているのかを、

今日まで本当に確かめたことはなかった。


「エア!!」


背後から声が飛んできた。


振り返る。


ユーリスが、

杖を抱えるように持ったまま走ってきていた。


その後ろにはミリカ。


少し遅れて、

セレスとマリスも続いている。


全員、

俺を見るなり足を止めた。


「「「「……」」」」


「……何だよ」


誰も、

すぐには答えない。


ユーリスは目を見開き、

ミリカは耳を立てている。


セレスは、

何とも言えない顔のままこちらを見ていた。


マリスだけは、

俺の身体に残っている青い紋様を、

じっと追っている。


「エア……」


最初に口を開いたのは、

ユーリスだった。


「服……」


「燃えた」


「見れば分かります!」


何故か怒られた。


「というか防具まで全部なくなってるじゃないですか!」


「燃えて吹き飛んだから仕方ないだろ?」


「し、仕方ないで済ませないでください!」


「他に言い方が思いつかん……」


言い返すと、

横からミリカが俺の身体を覗き込む。


「でもエア、竜の火でも全然焼けてないにゃ」


「それはいつも通りだ」


「それれは…そうにゃ?」


ミリカの目が、

腕へ落ちる。


「…すごい光ってるにゃ」


「ああ」


自分の腕を持ち上げる。


青い波紋は、

まだ消えていない。


むしろ、

火が完全に収まった今の方が、

はっきり見えていた。


その時。


マリスが近付いてきた。


「……触っていい?」


「ああ」


腕を差し出す。


マリスの指が、

青い紋様の上へ触れた。


少し冷たい。


けれど、

以前マリエルから治療を受けた時みたいに、

外側から水を当てられる感覚はない。


マリスはしばらく黙ったまま、

俺の腕へ指を当てていた。


やがて。


「……流れてる」


小さく呟いた。


「何が?」


「水」


俺の腕から胸元へ、

青い光の流れを辿っていく。


「でも……私とも違う」


マリスが、

自分の腕へ一度目を落とした。


「冷やしてない。

 火を弱くもしてない」


指先が、

もう一度俺の紋様へ触れる。


「中で流してる……。

 熱も、力も……全部」


「……そうなのか?」


火は消していない。


抑えてもいない。


ただ、

身体の中で止まらないように巡り続けていた。


「土も」


マリスが今度は、

俺の足元を見る。


「多分……ずっと支えてた」


「俺も、そんな気がする。

 これのおかげか、限界って感じはしなかった」


答えると、

それまで黙っていたセレスが近付いてきた。


聖杭槍杖を持ったまま、

まず俺の身体へ残る青い模様を見る。


次に、

炎の跡が残る試し原へ目を向けた。


溶けた地面。


赤熱した岩。


そして、

倒れている竜。


それらを順番に確かめてから、

またこちらへ顔を戻す。


「……つまり」


低い声だった。


「貴様は、あれだけ燃えておきながら……」


一度。


言葉が止まる。


「まだ余力があるのだな?」


「ああ、行けそうだ」


少なくとも、

残そうとして残したわけじゃない。


「たぶん……昔より出てたと思う」


セレスの銀色の目が、

少しだけ見開かれた。


「それで」


俺の身体を見る。


「この程度なのか?」


「この程度って何だよ」


「違う」


セレスはすぐに首を振る。


「体の方だ」


「……ああ。別に何ともない」


言われて、

もう一度自分の手を見る。


傷はない。


火傷もない。


息も乱れていない。


ただ、

青い模様だけが静かに光っている。


「……平気だな」


口に出してみると、

自分でも改めて変な感じがした。


竜の火を真正面から受け、

その中でさらに自分の火まで強めた。


最後には、

あの巨体を殴り倒した。


それでも、

身体には何も起きていない。


胸へ手を当ててみる。


鼓動は少し速い。


けれど、

苦しいわけじゃない。


脚にも力は入り、

指先までちゃんと感覚がある。


それどころか、

全身を巡っていた熱が落ち着くにつれて、

内側の流れまで整っていくようだった。


青い紋様は呼吸に合わせて淡く明滅し、

身体の中を巡るものを映すように光り続けている。


本当に、

何も壊れていない。


…妙に現実味がなかった。


その時だった。


―――ズ……。


背後で、

重いものが土を擦る音がした。


全員の顔が、

同時にそちらへ向く。


倒れていた竜の前脚が、

ゆっくりと地面を掴んでいた。

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