第269話:燃え尽きない火の中で
竜の目が、
ほんの少しだけ動いた。
ぶつかり合う炎の向こうから、
こちらを真っ直ぐ捉えている。
「我を案ずる前に、己を案じろ」
低い声が、
轟く火の奥から返ってきた。
「……そうかよ」
思わず、
口元が緩んだ。
そこまで言われるなら、
勝手に止めた方が、
かえって失礼なのかもしれない。
正面から押し寄せる熱へ、
意識を戻す。
二つの火がぶつかる場所では、
空気そのものが歪んでいた。
地面は焼け、
熱に耐えきれない石が次々と割れる。
乾いた大地を這う炎の向こうから、
焦げた土の臭いが押し寄せ、
息を吸えば肺へ届くより先に喉の奥が焼けるようだった。
その熱と臭いが、
遠い記憶の中にある別の広野と重なる。
「……」
あの日も、
地面は焼けていた。
焦げた肉と土の臭いが辺り一面に染み付き、
その向こうには、
何度攻撃しても止まらない強大な敵がいた。
矢を降らせ、
槍を突き刺した。
火を纏わせ、
外からも内側からも何度も焼いた。
ナハトと二人で火を重ね、
肉が崩れ落ちるほど燃やしたはずだった。
それでも、
あれは止まらなかった。
焼けた身体を引きずりながら地面を揺らし、
一歩ずつ確実に俺達との距離を詰めてきた。
今でも覚えている。
地面が震えるたび、
背中側から聞こえてきた声を。
子供が泣いていた。
大人達も怯え、
誰かが逃げろと叫べば、
別の誰かが逃げても行く場所がないと返していた。
あの時、
俺達の後ろにあったのは村だった。
俺が森で生き始め、
ルゥと出会い、
リヒトが生まれた。
リルと暮らし、
ナハトが育ち、
いつの間にか大勢の人間が生きるようになった。
俺にとって、
帰る場所になっていた村。
そこまで、
あいつは来ていた。
炎越しに揺らぐ竜の巨体が、
一瞬だけ記憶の中の敵と重なる。
けれど、
同じじゃない。
あの日、
俺の前にいたものには言葉が通じなかった。
何度焼いても、
肉を削いでも、
ただ村へ向かって進み続けた。
目の前のこいつは違う。
話せる。
考えている。
俺を殺そうとしているわけでもない。
何より、こいつが何から続いているのかを、
俺はもう知っている。
だから、
あの日と同じように怒りへ任せ、
全部を燃やすつもりはなかった。
それでも身体の奥では、
あの時によく似た感覚が戻り始めていた。
相手だけを見る。
どこから来るのか…何をされるのか。
それへどう返すのか。
戦うために必要のないものが、
少しずつ頭の外へ押し出されていく。
怖さも。
痛みも。
この先、
自分がどうなるのかという考えも。
あの日は、
最後には「生きて帰る」という考えまで捨てた。
今は違う。
そこまで外す必要はない。
後ろにはユーリスがいる。
マリスも。
ミリカも。
セレスもいる。
目の前の竜だって、
殺したくて戦っている相手じゃない。
だったら、
自分まで燃やし尽くす必要はない。
壊れないところだけを残して、
その手前まで踏み込めばいい。
(……出来るのか?)
昔は、
そんな器用な真似をする余裕すらなかった。
全部残すか。
全部捨てるか。
あの時は、
それしかなかった。
でも、
今の身体はあの頃とは違う。
前脚を受け止めた時だって、
意識していなかったのに、
足元の大地が俺の身体を支えた。
火だけじゃない。
あの頃にはなかったものが、
今の俺の中にはある。
なら。
今の身体で、
昔と同じところまで踏み込んだらどうなる。
それを確かめるための場所が、
きっとここなんだろう。
正面では、
竜の火がまだ俺の炎を押し続けている。
俺が強くすれば、
向こうも上げる。
ここまで来ても、
こいつは退こうとしない。
だったら、
試してみる。
槍を握ったまま、
前へ出していた手を下ろした。
同時に、
俺の火を止める。
―――フッ。
竜の炎を押し返していた赤い火が、
何の前触れもなく消えた。
竜の瞳が、
大きく開く。
当然だ。
さっきまで正面からぶつかり合っていた力が、
突然なくなった。
遮るものを失った炎が、
そのまま俺へ雪崩れ込んでくる。
「あ――」
遠くから、
誰かの声が届いた。
次の瞬間。
視界が、
赤一色に染まった。
―――ゴォォォォォォォッ!!
熱と音と風が、
まとめて身体へ叩き付けられる。
足元も。
竜も。
空も。
試し原を囲む岩壁さえ見えない。
ただ赤い火の中に、
俺だけが立っている。
熱い。
確かに熱い。
けれど、
それだけだった。
皮膚が焼け落ちる感覚はない。
息が出来なくなるほど、
苦しくもない。
それどころか、
身体の奥から湧き上がってくる火の方が、
外から浴びせられている炎よりずっと熱かった。
(……そうか)
昔とは違う。
あの時は、
俺自身を燃料にしていた。
身体を残すことすら考えず、
最後まで自分ごと燃やし尽くした。
でも今は、
これだけの火に包まれても、
身体の形が崩れない。
足がある。
腕もある。
槍を握る手には、
鉄の硬さがちゃんと残っている。
意識も、
まだはっきりしている。
だったら。
(まだ……行ける)
ーーーーー
「エアッ!!」
叫んだ自分の声が、
炎の轟音に呑み込まれた。
ほんの一瞬だった。
さっきまで竜の火と押し合っていたエアの炎が突然消え、
何が起きたのか理解するより先に、
竜の火がそのまま彼を飲み込んだ。
「そんな……エア……!」
杖を握る指へ、
勝手に力が入る。
身体が前へ出そうになる。
隣ではセレスも聖杭槍杖を持ち上げ、
ミリカの耳はぴんと立っていた。
マリスも白銀の槍を強く握り、
試し原へ足を踏み出している。
服越しにも分かるほどネレイディアの紋様が青く光り、
唇から水の詠唱が流れ始めた。
けれど、
それが形になるより早く、
火を吐いていた竜が顎を閉じた。
―――ゴォォ……。
炎が途切れる。
遮られるはずだった自分の火が、
そのままエアを飲み込んだ。
竜自身も、
それを予想していなかったように見えた。
試し原の中央には、
まだ大量の炎が残っている。
草一つない地面を赤い火が走り、
熱せられた石があちこちで弾けていた。
その奥に、
エアの姿は見えない。
喉の奥が詰まる。
まさか。
そんな考えが頭を掠めかけた時、
炎の奥で何かが動いた。
「……え?」
最初は、
火が揺れただけだと思った。
でも違う。
炎の中に、
人の形がある。
頭。
肩。
腕。
脚。
片手には、
一本の長い槍。
その人影が、
竜へ向かって歩いている。
「……エア?」
名前を呼んだ自分でも、
本当にそうなのか分からなくなりそうだった。
姿は確かにエアだ。
体格も。
槍も。
歩き方も。
全部知っている。
なのに、
今まで見てきたエアとは、
どこか決定的に違っていた。
炎に照らされて赤く見えているだけじゃない。
身体の輪郭そのものが揺らぎ、
腕を動かせば肩口から火が流れ、
足を運ぶたび、
踏み締めた場所へ赤い光が滲んでいく。
火を纏っているというより、
火そのものが人の形を取っている。
そんな姿だった。
隣で、
短く息を呑む音がした。
セレスだった。
踏み出しかけていた足が止まり、
聖杭槍杖を握ったまま、
炎の中を進むエアを追っている。
私も、
目を逸らせなかった。
あれがエアだとは分かっている。
知っている人だ。
一緒に旅をして。
面倒そうにルクナスへ文句を言って。
ミリカに絡まれて。
セレスと言い合って。
さっきまで竜に向かって、
『普通は逆だろ』
なんて言っていた人。
それなのに、
今の姿だけを見れば。
教会の壁画や、
古い本に描かれていた神話の存在だと言われても、
私は否定出来なかった。
試し原を囲む竜達にも、
変化が現れていた。
岩棚へ身体を横たえていた竜が起き上がり、
空を旋回していた一頭も、
翼を広げたまま速度を落としている。
鳴き声はない。
飛び込んでくる竜もいない。
ただ、
何頭もの大きな瞳が、
炎の中を進む人影へ集まっていた。
その中心で、
向かい合っていた若い竜が初めて後ろへ脚を引く。
巨大な前脚が地面を擦り、
乾いた土へ新しい跡を刻んだ。
ほんの少し。
それでも、
今までエアが何をしても前へ出続けていた竜が、
確かに自分から距離を取った。
炎の奥から現れたエアは、
そのまま歩みを進める。
槍は下げたまま。
構えてすらいない。
それでも竜の喉が、
再び赤く染まり始めた。
「ま、また……!?」
声が漏れる。
一度止めたはずの火を、
竜がもう一度吐き出した。
―――ゴォォォォォォォッ!!
先ほど以上の炎が試し原を覆い、
エアの姿を再び完全に飲み込む。
熱風が離れたここまで押し寄せ、
腕で顔を庇わなければ、
目を開けていられない。
「エア!」
名前を呼んでも、
返事はなかった。
けれど、
今度はさっきほど怖くない。
火の奥にある影が、
まだ前へ進んでいる。
「……歩いてる」
掠れた声が、
自分の口から漏れた。
竜が吐き続けている炎の中を、
エアはそのまま進んでいた。
頭まで火に包まれているのに、
身体を庇う様子はない。
槍を盾にすることすらせず、
歩幅も変えない。
真正面から、
竜との距離だけを削っていく。
近付くほど、
その姿がはっきりしてきた。
そこで初めて、
さっき感じた違和感の正体が分かった。
竜が吐いている火と、
エア自身から溢れている火の境目がない。
ブレスが身体へ触れるたび、
その炎までエアの周囲を流れる赤へ溶け込むように揺れ、
長い尾を引いて背後へ抜けていく。
身体を火が覆っているんじゃない。
今のエア自身が、
炎の中心になっているように見えた。
通り過ぎた後の地面は、
さらに赤く染まっていた。
砂と石が輪郭を失い、
熱で軟らかくなった表面が歪んでいる。
「……嘘」
竜との距離が、
みるみるなくなっていく。
十歩もない。
もっと近い。
巨大な頭が、
炎を吐いたままエアのすぐ前にある。
大きさが違いすぎる。
エアの身体なんて、
竜の頭一つで何人も隠れてしまう。
それでも、
エアは止まらなかった。
右手には、
槍を下げたまま。
空いている左手が、
強く握られる。
「あ……」
何をするつもりなのか。
理解した時には、
もう遅かった。
エアの身体が低く沈む。
踏み込んだ足の下で、
焼けた地面へ赤い亀裂が走った。
次いで。
左の拳が炎を裂き、
竜の顎の横へ叩き込まれる。
―――ドォォォォォォォンッ!!
音より先に、
空気が身体へぶつかった。
胸の奥まで一気に揺さぶられ、
遅れて轟音が試し原全体へ広がっていく。
竜の頭が、
横へ弾かれた。
「……え」
頭だけじゃない。
長い首まで大きく持っていかれ、
前脚が地面から浮く。
開いていた翼も均衡を失ったように傾き、
あれほど巨大だった身体全体が横へ崩れていった。
爪が試し原を深く削る。
それでも、
勢いは殺し切れない。
―――ズガァァァァンッ!!
竜の巨体が地面へ叩き付けられ、
大地そのものが大きく震えた。
大量の土と砕けた岩が舞い上がり、
その中へ残っていた火の粉まで巻き込まれていく。
翼が一度、
地面を強く打った。
尾が土を抉る。
それきり、
巨体が試し原へ横たわった。
「……」
言葉が出なかった。
ついさっきまで、
エアはあの前脚を槍と両腕で必死に支えていた。
膝近くまで、
地面へ沈められながら。
それを今は。
拳一つで、
竜の身体ごと倒した。
舞い上がった砂煙の向こう。
まだ火の残る試し原に、
エアの背中が見える。
片手には槍。
身体の輪郭には、
赤い炎が揺れていた。
けれど、
倒れた竜へ追い打ちはしない。
次の一撃を構える様子もない。
火をその身へ残したまま、
エアは倒れた竜の前にただ立っていた。




