第268話:引いていた線
槍越しに掛かっていた重さが、
ほんの少しだけ軽くなった。
押し返した。
本当に僅かだったが、
頭上を覆っていた竜の前脚が持ち上がっている。
「……ォオオッ!!」
さらに腰を入れる。
膝近くまで埋まった両足では、
もう普通に踏ん張ることすら出来ない。
それでも地面へ流れ込んでいた力は途切れず、
足元の土が内側から締まり、
砕けかけていた地面ごと俺の身体を支えるように固まっていく。
自分でやろうとした覚えはない。
ただ押し潰されないように力を入れたら、
いつの間にか土まで一緒に応えていた。
火みたいに、
出そうと思って出しているわけじゃない。
神木で土へ触れてから、
こういうことが少しずつ増えている。
必要になれば勝手に流れ、
足元や身体へ馴染む。
まだ火ほど自由じゃないが、
前よりずっと俺の中へ近付いていた。
「っ……!」
肩が軋み、
槍を握る手の奥まで熱を持つ。
それでも、
俺を地面へ押し込んでいた前脚は、
少しずつ離れていった。
「なんだ?力比べは終わりか?」
槍の向こうから、
竜の大きな瞳が俺を捉えている。
火を見せた時とも、
土を使った時とも違う。
竜の顔なんてまだ細かく読めないが…少なくとも、
俺がここまで耐えるとは思っていないように見えた。
「……なんだよ」
歯を食いしばったまま、
どうにか声を出す。
「人間が受け止めちゃ悪いのか?」
「……そうではない」
低い声が、
頭上から重く降ってくる。
「じゃあ……どけッ!」
さらに槍を押し上げた、
その時だった。
掛かっていた重さが、
唐突に消えた。
「っ!?」
支えを失った槍が跳ね上がり、
身体まで前へ持っていかれそうになる。
竜が、
自分から前脚を引いていた。
巨大な身体がまとめて数歩分後ろへ下がり、
開いた翼を一度、大きく振る。
―――バァンッ!!
風が真正面から叩き付けられた。
両足が土へ埋まっていたおかげで吹き飛ばされはしなかったが、
舞い上がった砂と小石が頬へ当たり、
目を開けているだけでも痛い。
腕で顔を庇いながら、
固まった地面から片足ずつ引き抜いていく。
埋まっていたせいで、
脚を抜くだけでも思った以上に力が必要だった。
「……ったく」
ようやく両足を地面へ戻し、
槍を握り直す。
手にはまだ痺れが残っていた。
肩も重く、
腕の奥には鈍い痛みまで残っている。
それでも、
動かないほどじゃない。
むしろ思っていたより、
ずっと平気だった。
自分の腕へ目を落とす。
あれは咄嗟だった。
受けられるかどうかなんて考える前に、
身体が槍を上げていた。
とはいえ、
まさか本当に正面から止められるとは思っていなかった。
ルクナスが以前言っていた言葉が、
ふと頭へ浮かぶ。
『他よりも少しだけ死ににくく』
今なら、
あいつが何を言っていたのかも少し分かる。
俺は昔から、
何かを倒し、触れ、その力を知るたびに変わってきた。
底殻に一度負け、
毒に侵された。
マリエルに助けられ、
その中にいたネレイアへ触れて水を知った。
そして、
もう一度底殻と戦い、
今度は倒した。
あれ以前の身体と、
今の身体が同じじゃないことくらいはなんとなく分かっていた。
ただ、
その差を実際に測ったことはない。
自分より遥かに大きな竜の前脚を、
槍一本で真正面から受け止める。
そんなことを試せる相手なんて、
今までいるはずもなかった。
「何だ?本当にもう終わりか?」
少し離れたところで、
竜は一度、自分の前脚へ顔を向けていた。
自分で振り下ろした脚を確かめるように眺め、
それから俺へ向き直る。
「……お前は、見た目ほど脆くない」
「今さらかよ」
「人は脆い」
「俺も一応、人なんだけどな?」
「そうは見えぬ」
「……」
どういう意味だよ。
聞こうとしたが、
竜はそれ以上答えなかった。
代わりに地面へ下ろした爪が、
試し原の硬い土を深く掻く。
ざり、と。
人の頭ほどありそうな石まで、
小石みたいに押し退けられた。
嫌な予感しかしない。
「……おい」
「ならば、もう少し出来るな」
竜が身体を低くする。
今度は前脚だけじゃない。
左右へ開いた翼が、
先ほどより大きく風を受け始める。
「待て。今のより強くする気か?」
「そうだ」
「おいおい逆だろ。
受け止めたんだからもう十分だろ」
「何故?」
「……もういい」
こいつら相手に、
説明している方が疲れる。
槍を構え直した。
向こうがさらに上げるなら、
こっちも同じままというわけにはいかない。
試しが続くというなら、
付き合うしかない。
こいつが見たいものを見せて、
終わればそれでいい。
「来るなら来い」
そう言った途端、
竜の翼が地面へ向かって強く打ち下ろされた。
―――ドンッ!!
巨体が浮く。
真正面から突っ込んでくると思ったが、
竜は地面すれすれを滑るように横へ流れ、
そのまま一気に俺の右側へ回り込んだ。
速い。
身体が大きいから、
動きが読みやすい…なんてことはなかった。
翼を一度動かすだけで、
人間なら何十歩も走らなければ埋まらない距離が消える。
首だけ見ていればいいわけでもない。
前脚。
尾。
翼。
あの巨体は、
どこを取ってもそのまま武器になる。
右側から、
地面を覆うような影が伸びた。
「ッ!」
尾だ。
横薙ぎに振られたそれを見た瞬間、
前脚の時みたいに受ける選択肢は捨てた。
正面から止めれば、
今度は槍ごと身体を横へ持っていかれる。
地面を蹴る。
同時に足元の土が盛り上がり、
踏み込んだ脚をさらに押し上げた。
―――ブォンッ!!
竜の尾が、
身体の真下を通り過ぎる。
触れていない。
それでも風圧だけで脚を取られ、
空中で身体が傾いた。
その先に、
竜の背がある。
落ちるのを待たず、
槍へ火を流した。
―――ゴォッ!!
鉄の穂先を、
赤い火が包み込む。
そのまま身体を捻り、
落下する勢いごと竜の背へ槍を叩き込んだ。
「そこッ!」
―――ガァンッ!!
硬い。
岩を殴ったような衝撃が、
手首から肘まで一気に跳ね返ってくる。
それでも、
前脚を受けた時よりは手応えがあった。
火が鱗の隙間へ入り込み、
竜の巨体が横へ傾く。
このまま押せる。
槍をもう少し滑らせれば、
さらに奥まで届く。
その先まで――。
そう思ったところで、
腕の動きが変わった。
「……」
止めたつもりはない。
けれど穂先は、
深く入りそうだった鱗の隙間から自然に外れ、
硬い表面へ流れていく。
―――ボンッ!!
火だけが、
鱗の上で弾けた。
直後、
竜の翼が振り抜かれる。
「っ!」
巻き起こった風に身体を押され、
背中から引き剥がされた。
空中で一度姿勢を崩したものの、
どうにか足から地面へ落ち、
膝を曲げて衝撃を逃がす。
それでも勢いまでは殺し切れず、
そのまま前へ転がった。
乾いた土が服へ入り込み、
鼻の奥まで砂の匂いが押し寄せる。
槍を支えにすぐ立ち上がると、
竜もこちらへ身体を向け直していた。
槍を当てた場所には、
焦げ跡が残っている。
鱗の端も、
少し欠けていた。
けれど、
それだけだ。
(まあ、いい)
これは試しだ。
わざわざ深く刺して、
翼まで使えなくする必要はない。
そう考えて槍を構え直したが、
向こうはすぐには来なかった。
巨大な顔をこちらへ向けたまま、
しばらく動かない。
「何だ?」
「……いや」
「気になるなら言え」
「…続けろ」
「お前が言うなよ」
返した途端、
竜の喉が赤く染まった。
今までとは違う。
炎が出るより前から、
熱が空気を押してくる。
肌の表面がじりじりと焼かれ、
乾いた風に混じって、
焦げた石の臭いが鼻へ届いた。
「……今度は火か」
槍を地面へ突き立てる。
竜の胸が、
大きく膨らんだ。
次の瞬間。
―――ゴォォォォォォォッ!!
視界いっぱいに、
炎が広がった。
細い火の筋なんかじゃない。
試し原そのものを押し流すような巨大な炎の壁が、
地面を舐めながら一直線に迫ってくる。
熱風が服を後ろへ引っ張り、
目を開けているだけで、
眼球まで乾いていくようだった。
逃げてもいい。
横へ抜けるだけなら、
今の俺なら間に合う。
けれど、
最初に崖で火を出した時から、
こいつは俺の火にだけ妙に反応している。
だったら、
今度はこっちも火で受ける。
槍を引き抜き、
後ろへ下げる。
呼吸を一つ。
肺へ入った空気まで熱い。
それでも、
俺にとって火は怖いものじゃない。
手足を動かすのと、
ほとんど同じようにそこへある。
「……燃えろ」
下げた槍とは反対の手を前へ出す。
火が応えた。
―――ゴォォォォッ!!
赤い炎が、
一気に噴き出す。
正面。
竜の火と、
俺の火が試し原の中央で衝突した。
―――ドォォォォンッ!!
腹の底まで響く音と一緒に、
二つの炎が左右へ膨れ上がった。
押し出された熱が地面を焼き、
残っていた草の切れ端まで一瞬で黒くなる。
足元に転がっていた石が次々と割れ、
飛び散った欠片が槍を持つ腕へ当たった。
熱だけじゃない。
向こうから押し込まれる火には、
巨大な身体で直接押されているような重さまである。
槍を握る両手へ力が入り、
靴底が少しずつ土を削った。
「……っ」
強い。
崖下で打ち消した火よりも、
明らかに火力を上げている。
だったら、
こっちも上げればいい。
流す火を強める。
赤い光が太くなり、
正面で押し合っていた境目が竜側へ動いた。
数歩。
さらに数歩。
俺の火が前へ出る。
炎の向こうでも、
竜に焦った様子はない。
押し込まれているのに、
火を止める気配もなかった。
むしろ、
もっと来いとでも言われているようだった。
直後。
竜の火が膨れ上がる。
炎の境目が、
一気にこちらへ押し戻された。
「……やっぱり、そういうことか」
思わず漏れる。
俺が上げれば、
向こうも上げる。
向こうが強めれば、
俺も押し返す。
火の境目だけが試し原の中央を行ったり来たりして、
どちらも決定的に相手を飲み込まない。
勝ちたいだけなら、
こいつには他にもいくらでも方法がある。
前脚も。
翼も。
尾もある。
このまま横から突っ込んできたっていい。
なのに、
今は火しか使わない。
(……まだ火を見たいのか)
それなら…。
「付き合ってやるッ」
火の境目が、
再びこちらへ近付いてくる。
押し返す。
まだ出せる。
火を増やそうとすれば、
その先にもっと大きなものがある感覚もあった。
けれど、
そこへ手を伸ばそうとすると、
どうしても目の前の竜が頭へ入る。
鱗を焼く。
肉まで届く。
回り込めば、
翼にも目にも喉にも入る。
どこまで耐えられるのか、
俺には判断出来ない。
だから、
ちょうど押し合えるところで止めた。
下手にやりすぎて壊れられても、
気分が悪い。
そう判断したところで。
「エア!」
炎の轟音の向こうから、
セレスの声が届いた。
「なんだ!今忙しい!」
火から目を離さずに返す。
珍しく、
セレスが戦いの途中で口を挟んできた。
次に飛んできた言葉は、
予想していたものとは違った。
「力を抑えるな!」
「……なに?」
一瞬、
何を言われたのか飲み込めなかった。
その間にも、
竜の火は押してくる。
反射的に力を戻し、
炎の境目を押し返した。
抑えている?
そんなつもりはない。
止めはしたが、火力はでている。
腕は痛いし、
火だって最初より何倍も強くしている。
底殻と戦った時ほど追い込まれてはいないが、
遊んでいるわけでもない。
「抑えてねぇよ!」
そう返した声は、
火の音に半分掻き消された。
少し離れた試し原の端。
炎越しに見えるセレスは、
聖杭槍杖を竜へ向けていなかった。
最初はあれほど周囲の竜を警戒していたのに、
今は槍を地面へ立てたまま、
こちらへ視線を据えている。
「抑えている!」
先ほどより、
落ち着いた声だった。
怒鳴りつけるというより、
俺が分かっていないことを、
そのまま言葉にしているように聞こえる。
「貴様はいつもそうだ。
相手を倒すところまでは力を出す。
だが、必要以上に壊れると分かったところで必ず止める」
「……」
その言葉と一緒に、
竜の背へ槍を入れた時の感触が手へ戻ってきた。
あのまま奥へ押し込めたはずだった。
けれど、
穂先は自然に外れた。
俺が、
寸前で止めた。
それ自体を、
否定する気はない。
だって、
殺したくないんだから。
「それの何が悪い!」
火を押し返しながら、
セレスへ返す。
「殺す必要がない相手を壊してどうする!」
炎の揺らぎの向こうで、
セレスの表情が僅かに動いた。
「私は殺せと言っているんじゃない!」
その一言だけは、
妙にはっきりと耳へ届いた。
「殺さないことと、
力そのものを抑えることは別だ」
「……別?」
槍を握る手へ、
さらに力が入る。
俺の中では、
今までそれを分けて考える必要がなかった。
人を相手にするなら、
止めるために必要な力を出す。
セレスと戦った時もそうだった。
マリスを止めた時も。
殺す必要がないなら、
そこまでで終わるだけの力を出す。
影のように、
消さなければならないものなら、
燃やせるだけ燃やす。
俺にとって戦うというのは、
ずっとそういうものだった。
セレスはそんな俺をしばらく見たあと、
竜へ顔を向けた。
「相手を見ろ、エア」
言われて、
炎の向こうへ意識を戻す。
竜は、
まだ火を止めていない。
俺がさらに上げるのを待つように、
一定の距離を保ったまま炎を押し続けている。
「あれは人ではない。
私でも、マリスでもない」
セレスの声が続く。
「相手は竜だ!貴様がいつも守ろうとする側ではない!」
「…」
「一度くらい、相手が壊れる前に自分から線を引くのをやめてみろ!!」
その言葉が、
胸の奥に引っ掛かった。
殺さない。
そこは変わらない。
ダックから続いたこいつを、
試しのためだけに燃やしたいわけじゃない。
でも、
セレスが言っているのはそこじゃない。
殺すところまでやれと、
言っているわけでもない。
俺がいつも相手を基準にして、
先に決めている。
ここまで。
これ以上は壊れる。
これ以上は必要ない。
そうやって自分から引いていた線を、
一度外してみろと。
そういう意味だった。
「……それに」
セレスの声が、
少し変わった。
そこまで言って、
一拍だけ間が空く。
炎越しでも、
その視線は逸れなかった。
「私も見てみたい」
「何をだよ!」
「貴様の…本当の火だ」
返ってきた言葉は、
短かった。
「神話ではない…今のお前の火を、私に見せろ!」
教会でエンラの火を教え込まれ、
白火を使い、
ずっと教会の神話の中にいたこいつが。
今、
求めているのは、
教会が語る「絶対神エンラ」の火じゃない。
目の前にいる俺が、
何も抑えずに火を出したら何が起きるのか。
それを見たい。
セレスは、
はっきりとそう言った。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
その空気へ割って入ったのは、
ユーリスだった。
杖を握ったまま、
セレスと俺を交互に見ている。
「本気って……エアの本気ですよね!?
それをここでやらせるんですか?
昔の戦争で、槍だけでも地形が代わったのに?!」
「…だからここだ」
「いや、相手が竜だからって!?」
ユーリスの声には、
竜を観察していた時の好奇心より、
はっきりと心配の方が出ていた。
俺の火を知っているからこそ、
止めたいのだろう。
その横では、
ミリカが真逆の反応をしている。
「いいにゃ!エアー!やっちゃえにゃ!」
「ミリカ!?」
「だって試しにゃ?
向こうももっと来いって顔してるにゃ!」
「竜の顔分かるんですか!?」
「なんとなくにゃ!」
「なんとなくで煽らないでください!」
いつもの調子で言い合う二人の、
さらに横。
マリスは、
白銀の槍を持ったまま黙っていた。
目が合う。
少しだけ間があって、
マリスは小さく頷いた。
「ここは……試しの場」
その言葉が、
改めて頭へ残った。
誰が強いか。
誰が前へ立てるか。
今の自分が、
どこまで戦えるか。
竜から聞いた時は、
随分乱暴なことをする奴らだと思った。
でも。
俺は最初から、
相手を壊さないところまで、
殺さないところまでと範囲を決めていた。
それでは、
自分の側の限界を確かめたことにはならない。
「……本気、か」
口にしてみても、
しっくり来ない。
今までだって、
手を抜いたつもりなんて一度もない。
底殻の時も。
セレスの時も。
マリスの時も。
影を相手にした時も。
必要なものは出した。
守るために足りないなら、
さらに出した。
倒さなければならないなら倒した。
殺さなければ誰かが死ぬなら、
…殺した。
「本気を出せ」と言われても。
どこからが本気なのか、
今の俺には掴めない。
ただ一つ。
自分がどうなるかすら考えず、
出せるものを全部出したことならある。
「……」
炎の向こうにいる竜へ、
意識を戻す。
こいつは俺の力を受け、
火を見て、
それでもまだ試しを終わらせようとしない。
単に強いか弱いかだけなら、
前脚を押し返した時点でも十分だったはずだ。
それでも、
まだ火を向けてくる。
なら、
こいつも確かめたいのだろう。
あいつから受け継いだ、
もう形も名前も薄くなった記憶。
そこに残っている火と、
今ここにいる俺が。
本当に同じものなのか。
「……分かった」
槍を握り直す。
火の向こうへ、
声を投げた。
「俺も、今の自分がどこまで出来るか分からない…」
竜の炎は、
止まらない。
けれど、
巨大な瞳は俺から逸れなかった。
「だから……」
一度、
喉の奥まで熱い空気を吸い込む。
試しなんだから、
死ぬまでやるつもりはない。
こいつだって、
何度も「何故殺す」と言っていた。
それでも、
これからやろうとしていることだけは、
俺自身にもどこまで行くのか読めない。
だから。
「……死ぬなよ」




