第267話:人の身で
竜は試し原の中央まで進むと、
そこでようやく足を止めた。
俺達が立っている場所からでも、
踏み締められた前脚の周囲で、
乾いた地面が僅かに沈むのが分かる。
近くまで来てみると。
試し原に刻まれた傷は、
遠目に見ていた以上に深かった。
地面を走る爪痕の中には、
俺がそのまま横になっても、
身体ごと隠れてしまいそうなものまである。
一度や二度じゃない。
ここで何度も竜同士が力をぶつけ、
そのたびに削られ、焼かれ、同じ場所が使われてきたのだろう。
(何度ここで戦えば、こんな場所になるのか……)
周囲を見回していると、
試し原を囲む岩壁の上でも動きがあった。
空を旋回していた一頭が岩棚へ降り、
遠くで寝そべっていた別の竜まで頭を上げる。
別に声を掛け合っているわけでもない。
それでも、
これから何が始まるのかは分かっているらしい。
「……増えてません?」
ユーリスの声に、
改めて周囲を見る。
「増えてるな」
「ですよね……」
ユーリスは杖を胸の前へ抱え直しながら、
岩壁へ並び始めた竜達を順番に見上げていた。
さっきまで竜の暮らしを見て目を輝かせていたのに、
今は好奇心と不安のどちらを優先すればいいのか、
自分でも決めかねているように見える。
「見物にゃ?」
ミリカが耳を動かす。
中央にいた竜が、
こちらへ顔を向けた。
竜は俺達全員を見渡した。
「試すのは、お前だけだ。残りは外へ」
「随分勝手だな?」
すぐにセレスが反応した。
聖杭槍杖は下げているものの、
手は柄から離れていない。
周囲の岩壁へ集まり始めた竜達にも警戒を残したまま、
一歩だけ俺の隣へ寄ってくる。
「全員をここまで連れてきておいて、今度は離れろと?」
「お前達がそこにいれば、そやつの邪魔になる」
「貴様……」
セレスの周囲へ、
白い火が滲みかける。
けれど、
今回は竜の言うことにも一理あった。
崖下でまともに戦えなかった一番の理由は、
後ろにこいつらがいたことだ。
わざわざこれだけ広い場所まで移動してきたのに、
また全員がすぐ近くに立っていれば意味がない。
「セレス」
「何だ……」
「皆と外にいってくれ」
俺が言うと、
セレスの顔がこちらへ向いた。
「……本気か?」
「ああ。ここなら足場が崩れるのも気にしなくても済む」
少しの間、
返事はなかった。
納得したわけではなさそうだ。
それでも、
俺が考えを変えないことは分かったらしい。
セレスは聖杭槍杖を握る手から少しだけ力を抜いた。
「……死ぬなよ」
「試しだろ?」
「この竜の言う『試し』を信用しすぎるなと言っている」
さっき目の前で見た、
二頭の竜の試しを思い出す。
火を真正面から浴び、
岩へ叩き付けられ、
それでも最後には何事もなかったように歩いていった。
竜同士なら、
あれでいいのかもしれない。
けれど、
俺は竜じゃない。
そこだけは、
セレスの言う通りだった。
「分かってる」
短く返す。
セレスはまだ何か言いたそうに俺を見たあと、
ようやく試し原の端へ向かって歩き始めた。
「エア、本当に危なくなったら言ってくださいね?」
ユーリスも、
何度も振り返りながら後へ続く。
「言ってどうするんだ?」
「援護します!」
「それじゃ、試しじゃなくなるだろ」
「でも死ぬよりいいです!」
「……まあ、それはそうだが」
「にゃ。エアが潰れそうになったら助けるにゃ」
「潰れん。何で俺が潰れる前提なんだよ」
「竜がでかいからにゃ」
それだけ言って、
ミリカはユーリスを追っていった。
最後に残ったマリスが、
白銀の槍を持ったまま俺を見る。
「エア……無理しないで」
「ああ」
「……多分、するけど」
「信用ないな」
マリスは小さく口元を緩めると、
それ以上は何も言わずに離れていった。
四人が十分な距離を取ったところで、
俺も試し原の中央、向かい合うように移動する。
歩くたび、
靴の裏で細かな砂が擦れた。
地面には火で溶けた石まで混じり、
場所によっては黒い硝子みたいに固まっている。
ここで戦ってきた竜達が、
毎回どれだけの力をぶつけていたのか。
足元を歩いているだけでも、
嫌というほど伝わってきた。
正面から向き合う。
崖下では、
足場の狭さや後ろにいる仲間ばかり気になっていた。
今は違う。
左右にも、
後ろにも何もない。
多少火が逸れたところで、
ユーリス達へ直接届くような距離でもない。
ようやく、
目の前の竜だけを見られる。
「それで?」
肩に担いでいた槍を下ろす。
「何をすればいい?」
竜が、
僅かに首を傾けた。
「何を、とは?」
「試しの決まりだよ。
どこまでやったら終わりだとか、火を使っていいのかとか」
さっきの二頭は、
最後に互いへ頭を下げて終わっていた。
何かしら、
こいつらなりの決まりがあると思っていた。
けれど、
返ってきた答えはあまりにも簡単だった。
「好きにすればよい」
「……それだけか?」
「どちらかが続けられぬと判断すれば終わる」
「死ぬまでとかじゃないよな?」
「何故殺す」
そのつもりはないのだろうが、
やっぱりどうにも信用できない…。
「確認しただけだ。武器は?」
「使え」
「火も?」
「使え」
「土も水も?」
そこで、
竜の目が俺の槍へ落ちた。
「使えるのならな」
「分かった」
結局、
何でもあり。
ただし、
殺し合いではない。
人間同士の試合よりずっと乱暴だが、
余計なことを考えなくて済む分、
俺には分かりやすかった。
槍を握り直し、
足の位置を少しずらす。
穂先を竜へ向けたところで、
さっきまで普通に話していた相手の大きさが、
改めて身体へ入ってきた。
目の前には、
分厚い鱗に覆われた巨体がある。
俺の身体より太い前脚。
一度振るわれれば、
普通の人間なんて簡単に吹き飛ばしそうな尾。
翼も、
少し開いただけで視界の半分を塞ぐ。
別に、
怖くないわけじゃない。
ただ、やるしかない。
目の前へ意識を集中する。
そして、構えを取る。
「…これで、いいか?」
竜の前脚が、
地面を深く掴んだ。
「先ほどよりはな」
「……その言い方、腹立つな」
返事の代わりに、
竜の喉が低く鳴った。
笑ったのか。
ただ息を漏らしただけなのか。
まだ、
そこまでは分からない。
けれど次の瞬間、
巨体が深く沈んだ。
来る。
そう思った時には、
地面が爆ぜていた。
―――ドンッ!!
竜が地面を蹴る。
あれだけの巨体が、
信じられない速度で真正面から迫ってきた。
最初の一歩を見た時には、
まだかなり距離があったはずだ。
それなのに、
翼が一度開いた次には、
巨大な前脚が頭上を覆っていた。
「ッ!」
考えている暇はない。
横へ踏み込みながら槍を両手で持ち上げ、
振り下ろされる爪の側面へ柄を当てる。
―――ガァンッ!!
衝撃が、
槍から両腕へ叩き込まれた。
肩まで一気に痺れ、
身体の芯まで揺さぶられる。
(重いッッッ!!??)
崖下で受けた火とは、
まるで違う。
熱でもない。
魔力でもない。
巨大な身体そのものが持つ重量が、
槍一本を挟み、
真正面から俺を地面へ押し込んでくる。
「ぐっ……!」
腕が沈む。
腰を落として踏ん張ったはずの両足も耐えきれず、
靴底の下で乾いた地面がひび割れた。
―――ミシッ。
石が割れる音と一緒に、
足首まで一気に土へ沈む。
それでも、
槍は折れない。
俺の身体も、
まだ潰れない。
目の前には、
巨大な爪がある。
一本一本が、
俺の腕より太い。
少しでも槍を外せば、
そのまま頭から押し潰されてもおかしくない重さが、
今も両腕へ乗り続けている。
「……っ!」
歯を食いしばり、
槍を握る手へさらに力を込める。
それでも押される。
沈んだ足は、
今度は膝近くまで地面へ埋まった。
けれど、
これ以上は俺も下がる気はない。
ーーーーー
―――ガァンッ!!
音が響いた瞬間、
私は反射的に杖を握り締めていた。
エアの姿が、
竜の前脚の下へ完全に隠れたように見えたからだ。
「エア!」
叫んだ。
身体が先に前へ出かける。
けれど、
一歩踏み出したところで足が止まった。
竜の前脚は、
地面へ着いていない。
その下に、
一本の槍がある。
そしてその槍を――
エアが両手で支えていた。
「……え? えぇええええ!?」
一瞬、
何を見ているのか分からなかった。
さっき見たばかりだ。
あの竜は、
地面を蹴っただけであれほどの速度を出す。
前脚を落とせば、
岩だって簡単に砕ける。
竜同士がぶつかった時には、
大地そのものが揺れていた。
その力を。
人間一人が、
槍一本で受け止めている。
「……す、すごいにゃ」
隣で、
ミリカの尻尾が大きく膨らんでいた。
「エア……潰れてないにゃ」
「見れば分かる!」
セレスの声が飛ぶ。
強い声だった。
けれど、
そこに混じっているものは、
いつもの苛立ちとは少し違って聞こえた。
聖杭槍杖を握る指も、
いつの間にか白くなるほど強く締まっている。
マリスも何も言わない。
白銀の槍を抱えるように持ったまま、
中央から目を離していなかった。
私も、
同じだった。
見間違いじゃない。
エアの足は、
地面へ深く沈んでいる。
それだけの力を、
まともに受けている。
なのに、
膝は折れていない。
腕も。
肩も。
槍も。
まだ、
竜の前脚を支えている。
「……」
周囲が、
妙に静かに感じられた。
実際には風が吹いている。
地面が軋む音も、
エアが踏ん張る声も聞こえている。
それでも、
試し原を囲んでいた竜達からは、
さっきまでのような動きが消えていた。
岩壁の上。
空。
離れた岩棚。
さっきまで寝そべっていた竜まで、
全てが中央を見ている。
エアを。
そして、
目の前で前脚を押し付けている若い竜自身も。
「土の強化……いや、それだけじゃない」
思わず、
声が漏れた。
「どういう事だ?」
隣でエアを見ていたセレスが、
こちらへ顔を向ける。
「以前、エアから聞いたことがあるんです。
自分より強いものを倒して以来、強くなったと」
「その通り」
聞こえたのは、
マリスのものとは違う調子の声だった。
反対側を見る。
白銀の槍を持つ姿は、
間違いなくマリスのまま。
けれど、
その口元には、
マリスが普段浮かべるものとは違う笑みがある。
「この前、結構な大物をエアは倒したばかりだからねぇ。
でも、流石にこれは僕も予想外すぎるなぁ〜」
ルクナスだった。
それだけ言い残すと、
表情からふっと力が抜ける。
マリスが一度だけ目を瞬かせ、
改めてエアへ顔を向けた。
「……土も無意識で使ってるけど、底殻の力も加わってる」
それを聞いてからは、
誰もすぐには何も言えなかった。
周囲の竜達も、
同じように動かない。
竜の表情なんて、
まだ私にはよく分からない。
それでも、
目の前の若い竜の大きな瞳が、
さっきより明らかに開いているのは分かった。
まるで、
あの前脚を止められるとは思っていなかったみたいに。
次の瞬間。
―――ズンッ!!
さらに重い音が響き、
エアの足元がもう一段沈んだ。
「っ!」
身体も、
僅かに下がる。
「エア!」
もう一度叫ぶ。
今度こそ、
飛び出すべきなのか。
そう思った直後。
「……らぁああああああッ!!」
試し原の中央から、
エアの声が響いた。
沈んでいた身体が、
止まる。
そして。
竜の巨大な前脚が――
ほんの僅かに持ち上がった。
「……」
声が出なかった。
あれだけ押し込まれていたのに。
地面へ膝近くまで沈められていたのに。
今度はエアの方が、
押し返し始めている。
隣でセレスが、
小さく呟いた。
「……馬鹿力にも程がある」
呆れているような言い方だった。
けれど、
聖杭槍杖を握る手からは、
まだ少しも力が抜けていなかった。




