第264話:竜の大地
階段を登り始めてから、
しばらくが経った。
途中にある大きな岩棚へ辿り着くたびに足を止め、
その先の岩壁を確かめて、
また新しい階段を作る。
それを何度か繰り返しながら、
俺達は少しずつ大陸の上を目指していた。
最初のうちは。
「すごいですね……下がもうあんなに……」
なんて、
階段の端から海を覗き込んでいたユーリスも。
三度目の休憩を迎える頃には、
そんな余裕は完全になくなっていた。
「はぁ……っ、はぁ……ちょ、ちょっと……待ってください……」
背後から聞こえた声に振り返る。
数段下で、
ユーリスが杖へ両手をつき、
ほとんど身体を預けるように立っていた。
額には汗が浮かび、
乱れた呼吸に合わせて肩が大きく上下している。
「またか?」
「またって……!」
息を切らしたまま、
ユーリスが恨めしそうに俺を見上げる。
「エア……これ……普通に山登りより酷いですよ……!」
「そうか?」
「そうですよ!」
「ミリカは平気そうだけどな」
「にゃ?」
名前を出されたミリカが、
ずっと上の段から振り返った。
いつの間にあそこまで行ったんだ。
疲れている様子はほとんどない。
尻尾を揺らしながら階段の端に立ち、
まだ先へ行けそうな顔をしている。
「まだ上にゃ?」
「まだだ」
「じゃあ先に行くにゃ」
「待て。勝手に行くな」
「にゃー……」
不満そうな声を出しながらも、
ミリカは素直に階段を降りてきた。
ユーリスの横まで戻ると、
杖へもたれた顔を覗き込む。
「ユーリス弱すぎにゃ」
「ミリカが元気すぎるんです……!」
「普段から本ばっかり読んでるからにゃ」
「関係ありません!」
「あるかもな」
「エアまで!?」
声を上げたせいで余計に苦しくなったのか、
ユーリスはその場で何度か深く息を吸った。
こいつは俺なんかより、
知っている知識も、
魔法の術式も比べものにならない。
けれど、
こういう時だけは普段の生活がそのまま出るらしい。
「……少し休むぞ」
「最初からそうしてください……」
そこから少し上にある岩棚まで進み、
俺達も一度足を止めた。
ここまで来ると、
海面はもう遥か下にしか見えない。
さっきまで俺達が船で乗り付けた場所も、
今では指先ほどの大きさになっていた。
顔を上げると、
これまでずっと頭上を塞いでいた崖の縁も、
かなり近いところまで来ていた。
「……もう少しだな」
「やっとですか……」
ユーリスが、
その場へ座り込む。
隣ではマリスが、
俺達の登ってきた崖の下を眺めていた。
息は少し上がっているが、
ユーリスほど酷くはない。
セレスも岩壁へ背を預けている。
額には薄く汗が浮かんでいるものの、
呼吸はほとんど乱れていなかった。
ここまで登ってきた距離を考えれば、
俺より少し疲れている程度にしか見えない。
……はずなのだが。
しばらく見ているうちに、
妙なことに気付いた。
セレスは、
壁から離れようとしない。
休んでいるというより、
背中を岩へぴたりと付けたまま、
一度も岩棚の端へ近付こうとしていなかった。
「……?」
その目が、
一瞬だけ崖の下へ向く。
だが、
すぐに正面へ戻った。
「セレス」
「何だ……?」
「お前……」
言いかけたところで、
先に気付いた奴がいた。
「にゃふふ〜?」
ミリカの耳が、
ぴんと立つ。
口元をにやりと上げながら、
セレスへ近付いていった。
「怖いのかにゃ?」
「……な」
セレスの眉が動いた。
「……何を馬鹿なことを言っている」
「でも、さっきから端っこに一回も行かないにゃ?」
「……行く必要がないだけだ」
「じゃあ見てみるにゃ」
ミリカが、
岩棚の端を指差す。
その下には、
俺達が登ってきた階段が、
遥か海面まで続いている。
「ほら、すっごくいい眺めにゃ」
「……」
「セレス〜?」
「……くだらん」
そう言いながら、
動かない。
「やっぱり怖いにゃ!」
「違う!」
「じゃあ来るにゃ!」
「何故わざわざ崖際へ行かなければならない!」
「怖くないなら平気にゃ!」
「貴様……!」
面白がったミリカが、
セレスの腕を掴んで引こうとする。
「触るな!」
「ちょっとだけにゃ!」
「やめろと言っているだろう!」
今にも白火まで出しそうな勢いで振り払われ、
ミリカは笑いながら少し離れた。
「図星にゃ! ビビってるにゃ!」
「違う!」
「顔ちょっと怖がってるにゃ」
「黙れ!」
ユーリスが、
座ったまま二人を見上げる。
「セレスさんにも……苦手なもの、あるんですね……」
「お前まで何を言っている!」
「いや、私は別に……」
「意外だな」
俺も、
思わず口を挟んだ。
セレスの目が、
ものすごい勢いでこちらへ向く。
「エア」
「なんだよ?」
「余計なことを言うな……」
「別に悪いとは言ってないだろ」
あれだけ平気な顔で戦うくせに。
竜を前にしても、
火を吐かれても、
真っ先に武器を構える。
そんなセレスが、
ただ高いというだけで崖際へ寄りたがらない。
「……本当に意外だ」
「二度言うな!」
「にゃはは!」
ミリカの笑い声が、
岩壁へ響いた。
セレスは完全に機嫌を悪くしたらしく、
腕を組むとそのまま壁へ背を預ける。
ただし、
やっぱり崖側へは行かない。
少し離れたところでは、
マリスが何も言わず二人を見ていた。
けれど、
その口元がほんの少しだけ緩んでいる。
セレスはそれを見て――
「マリス」
「……何?」
「今、笑ったな?」
「……気のせい」
「貴様ら……」
低く唸る。
さすがに可哀想になってきた。
「もうその辺にしとけ」
「エアが一番言ってたにゃ」
「俺は二回しか言ってない」
「二回言えば十分だ!」
まだ怒鳴るだけの余裕はあるらしい。
その声を聞きながら、
俺はもう一度崖の上へ目を向けた。
風が吹く。
ここまで高度が上がると、
海から来る潮の匂いはほとんど消えている。
代わりに感じるのは、
乾いた草と、
日に焼かれた土の匂い。
そこへ時折、
何かが燃えた後のような、
薄い焦げ臭さまで混じっている。
「次で最後だな」
「絶対ですよね? もう登るの嫌ですよ?」
「もう見えてる。
……竜と登るのどっちが嫌だ?」
「それは……今は階段の方が嫌です」
ずいぶん疲れているらしい。
しばらくそのまま休み、
ユーリスの呼吸が落ち着くのを待ってから、
俺は岩壁へ手を当てた。
手から岩の奥へ、
意識を伸ばしていく。
中を走る亀裂、岩の厚み、
崩れそうな場所。
前よりもはっきり拾える感覚を一つずつ確かめ、
そこへ土の力を流した。
―――ゴゴゴゴゴ……。
再び、
崖が低く唸り始める。
向こうで岩が押し出され、
一段目が形を作る。
その上へ二段目。
さらに三段目。
今度は途中で止めず、
崖の縁まで届くように、
岩壁そのものを順番に押し出していった。
最後の石が、
上へ向かってせり上がる。
―――ゴンッ。
足元へ伝わっていた振動が止まった。
「着いたぞ」
「本当に!?」
ユーリスが、
急に元気になった。
「行くにゃ!」
ミリカはもっと早い。
岩棚を蹴り、
出来たばかりの階段を、
軽い足取りで駆け上がっていく。
「おい、待てミリカ」
俺達も、
その後へ続く。
セレスは最後に一度だけ、
崖の下を見ないようにしたまま、
階段へ足を掛けた。
……やっぱり怖いんじゃないか。
今度は、
口に出すのをやめておいた。
また怒鳴りそうだ。
階段を登る。
最後の数段へ近付くにつれて、
上から吹き付ける風が強くなった。
今まで岩壁に遮られていた風が、
崖の縁へ近付くほど、
まともに身体へ当たるようになる。
さっきまで微かだった焦げ臭さも、
上へ進むにつれて少しずつ濃くなっていった。
先を行っていたミリカが、
崖の縁へ手を掛ける。
そのまま、
ひょいと身体を持ち上げた。
「……おお」
珍しく、
それだけだった。
「何がある?」
返事がない。
俺も最後の段を上がり、
崖の縁へ手を掛ける。
腕へ力を込めて、
身体を持ち上げ――
「……」
足が止まった。
最初に目へ入ったのは、
空だった。
遮るもののない青が、
視界いっぱいに広がっている。
その下。
目の前には、
圧倒されるほど広い平原が続いていた。
森はない。
いや、
全くないわけじゃない。
遥か遠く。
谷の底や、
山の陰。
風を避けられるような場所には、
濃い緑がまとまって見える。
けれど、
俺達の前に広がっているのは、
どこまでも草に覆われた大地だった。
人間領域で見るような、
畑を作るために切り開かれた平地じゃない。
獣人領域のように、
巨大な木々が空を覆う森とも違う。
空が近い。
そして、
とてつもなく広い。
視界を遮るものがほとんどないまま、
風が平原を駆け抜け、
背の低い草を大きな波のように揺らしている。
その景色の中へ、
所々で巨大な岩盤が剥き出しになっていた。
黒い。
目を凝らすと、
一部は完全に焼け焦げている。
さらに遠くには、
大地そのものを長く抉ったような場所まであった。
最初は、
自然に出来たものかと思った。
だが、
よく見れば違う。
巨大な爪で引き裂いたような跡。
何かが地面へ叩き付けられたような窪み。
火で焼かれ、
表面が溶けたまま固まった岩。
そんなものが、
一つや二つじゃない。
平原のあちこちへ、
古いものも新しいものも混ざって残っている。
「……」
なるほど。
木が少ない理由が、
なんとなく分かった。
あいつら、
ここで戦ってるのか。
何度も。
何年も。
いや、
何百年どころじゃないのかもしれない。
そのたびに木が倒れ、
地面が抉れ、
火で焼かれる。
それでも時間が経てば、
また草が生える。
焼けた大地を覆い、
その上でまた竜が戦えば、
そこだけが新しく剥がされていく。
そうやって、
この景色が出来たのかもしれない。
「……すごい」
後ろから、
ようやく上がってきたユーリスの声がした。
息を切らしながら、
俺の横まで並ぶ。
だが、
平原を見た途端。
さっきまで疲れ切っていた顔が変わった。
「こんな……」
目の前の景色を追うように、
視線が忙しなく動く。
「竜の領域って、もっと山ばかりだと思ってました……」
「俺もだ」
切り立った崖に囲まれていたから、
中も岩山ばかりなのだと思っていた。
けれど、
実際は違う。
大陸の上。
山々の間に、
とんでもなく広い高原が広がっている。
その時、
地面を大きな影が横切った。
「……!」
反射的に見上げる。
竜。
大きな翼を広げた一頭が、
風に乗るように空を進んでいる。
さらに、
その遥か向こうにも別の影があった。
地上にもいる。
少し離れた岩盤の上では、
一頭の竜が身体を横たえ、
翼を畳んだまま眠っていた。
さらに奥。
平原を歩く三頭ほどの竜の姿も見える。
どれも、
時折こちらへ顔を向ける。
気にされていないわけではない。
それでも、
こちらへ降りてこようとする竜はいなかった。
さっきの火は、
ちゃんと伝わっているらしい。
「……本当にいるんですね」
ユーリスが呟いた。
「……こんなに普通に」
ちょうどその言葉に重なるように、
もう一頭の竜が俺達の前を横切った。
襲い掛かってくるでもなく、
そのまま平原の向こうへ飛んでいく。
「竜が……生活してる」
その言い方が妙で、
少し笑いそうになった。
けれど、
言いたいことは分かる。
俺達のいる場所では、
一頭見るだけでも大騒ぎになる存在だ。
それがここでは、
鳥が空を飛ぶのと大して変わらない。
寝ている奴もいれば、
歩いている奴もいる。
空を飛んで、
どこかへ向かう奴もいる。
「……あっ」
ミリカが声を上げた。
耳を立て、
平原の奥を指差す。
「なんかやってるにゃ!」
そちらへ目を向ける。
二つの大きな影。
竜だった。
かなり離れているはずなのに、
その巨体はここからでもはっきり分かる。
一頭が地面を蹴った。
翼を大きく広げ、
もう一頭へ向かって一気に飛び込む。
―――ドォンッ!!
少し遅れて、
腹の奥まで響くような衝撃音が届いた。
巨体同士が真正面からぶつかり、
片方の竜が地面の上を大きく滑っていく。
草が巻き上がる。
土煙が、
その身体を追うように広がった。
「……喧嘩か?」
セレスが、
一歩前へ出る。
さっきまでの高さへの警戒は、
もうどこかへ消えていた。
その目は、
戦う竜達だけを追っている。
「同族同士で争っているのか?」
次の瞬間。
倒れた竜の喉が、
赤く光った。
「え?」
ユーリスが目を見開く。
―――ゴォォォォォッ!!
平原を横切るように、
巨大な炎が走った。




