第262話:戦う理由
竜が――止まった。
途中まで開いていた翼が、
時間をかけて元の位置へ戻っていく。
岩へ食い込んでいた爪も緩み、
砕けた石が乾いた音を立てながら、
一つずつ崖下へ落ちていった。
それでも、
巨大な瞳だけは俺から外れない。
「……何故、構えぬ」
低い声が、
潮風を押し退けるように響いた。
「先ほどは我が火を退けた。
…戦えぬわけではあるまい」
「……」
俺は腕を組んだまま、
目の前の竜を見上げる。
こいつの言う通り、
戦えないわけじゃない。
必要なら戦える。
さっきの火だって、
全力まで出さずに止められた。
爪が来れば避ければいいし、
尾を振るわれても、
受けるなり躱すなりやりようはある。
ユーリス達だって、
そこまでやわじゃない。
それに、俺には槍がある。
火だけじゃなく、
今は水も土も使える。
けれど、
そんなことを考えて槍を置いたわけじゃなかった。
「お前と殺し合うつもりはないからだ」
竜の瞳が、
僅かに動いた。
「殺し合う、だと?」
「ああ」
竜は一度、
俺の身体を上から下まで眺めた。
そこに、
侮るような色は見えない。
ただ俺が何を言っているのか、
確かめようとしているように見えた。
「…小さき人の身で、我と命を奪い合えると考えているのか?」
「そんなことは関係ない」
返事は、
すぐに出た。
勝てると思っているのか。
負けると思っているのか。
たぶん、
こいつが聞いているのはそこなんだろう。
…でも。
俺が考えているのはそんなことじゃない。
改めて、
目の前の竜を見る。
分厚い鱗。
岩を簡単に削る爪。
船よりも大きな翼。
槍の火竜と真正面からぶつかっても、
傷一つ負わなかった身体。
俺の知っている姿とは、
何一つ似ていない。
それなのに、
見ているうちに別の姿が頭へ浮かんできた。
アホっぽい…間抜けな顔。
……ダック。
最初はただの卵だった。
あの頃は先のことなんて何も考えていなかったし、
正直、飯にしようと思っていた。
けれど、
それをルゥが気に入った。
そのまま俺達のそばへ居着いて、
いつしか一緒にいることが当たり前になっていった。
まだ小さい頃は、
俺の後ろをついて歩いていた。
火を焚けば少し離れた場所で丸くなり、
大きくなってからは俺を背に乗せて、
森の中も雪の中も走った。
首を軽く叩けば、
言葉なんて分からないくせに、
分かったように進む方向を変える。
『ギョワ』
妙な鳴き声だった。
それでも何度も聞いていれば、
機嫌がいい時も、
嫌がっている時も、
腹を空かせている時も、
何となく違いが分かるようになった。
ただの鳥だったはずなのに、
いつしか家族の中にいることが当たり前になっていた。
俺がいなくなったあとも、
ダックは生きていた。
リヒトやナハト達と一緒に過ごし、
その先の子供達とも生きて。
さらに何代も、
俺の知らない時間を繋いでいった。
魔物と戦い、
生き残り、
長い時間の中で姿まで変えていった。
その果てにいるのが――
今、目の前にいるこいつらだ。
こいつ自身が、
ダックなわけじゃない。
何代離れているのかも分からない。
さっき俺の名前を知らないと、
はっきり言われたくらいだ。
それでも…、
あいつから続いている。
そのことを知ってしまった以上。
俺にはどうしても、
こいつをただの敵として見ることが出来なかった。
「……」
胸の奥へ、
重いものが沈んでいく。
似た感覚は、
今までにもあった。
この時代へ来てから、
俺は…人へ火を向けた。
俺から見れば、
あいつらもリヒトやナハトから続いた、
さらにその先の命だ。
顔も知らない。
名前も知らない。
何百年、
何千年と離れていても、
繋がっていることだけは変わらない。
その人間を…俺は焼いた。
放っておけば、
別の誰かが死ぬ。
止めなければ、
俺の後ろにいる奴らへ刃が向く。
だから、
火を使った。
必要だった。
あの時は、
そうするしかなかったと思っている。
今でも間違っていたとは思わない。
同じ状況になれば、
たぶん俺はまた同じことをする。
守るためなら。
止めるためなら。
迷わず、
火を出すと思う。
けれど、
それと何も感じないことは違う。
焼ける臭いを忘れたわけじゃない。
火の中で崩れていった姿も、
灰になった人間も覚えている。
全部どうでもよかったから、
次へ進んだわけじゃない。
立ち止まっていられなかっただけだ。
仕方がない。
そう思って。
そう思うしかなくて、
その先へ進んだ。
親が、
自分の子を殺したいわけがない。
どれだけ遠く離れていても、
どれだけ血が薄れていても。
俺にとっては、
たぶんそこは変わらない。
だからこそ、
目の前にいる竜まで、
同じように「仕方がない」で燃やしたくなかった。
まして…。
こいつらの始まりがダックだというのなら、
…なおさらだ。
「勝てるかどうかじゃない」
俺は竜を見る。
「お前を倒したいと思ってない。それだけだ」
「……」
竜は黙っている。
「必要なら戦う。
後ろにいる奴らを殺そうとするなら、俺は止めるだろうな」
潮風が吹いた。
さっきまで強く残っていた焦げた臭いが薄れ、
代わりに海の匂いが戻ってくる。
「でも、お前を殺す理由がない…」
口にしてみても、
考えていたことは何も変わらなかった。
まだ怒っている。
さっき火を吐かれたことには腹が立っているし、
試されたことにも納得していない。
それでも、
殺したいわけじゃない。
最初から、
一度もそう思っていない。
竜はしばらく、
俺から目を逸らさなかった。
さっきまでと同じ巨大な瞳。
けれど、
そこに浮かぶものが少しだけ変わったように見える。
敵を見る目とも違う。
獲物を狙うようなものでもない。
何か、
自分の中にあるものと俺を重ね、
確かめているように見えた。
やがて。
「……不思議な者だ」
低い声が落ちる。
「そうか?」
竜は、
巨大な頭を僅かに傾けた。
「我を恐れぬわけでもない。
戦えぬわけでもない。
それでも武器を置く…」
「怖いかどうかは関係ないだろ?」
「ならば…何故退かぬ」
「退いたら後ろに当たる」
答えると、
竜の目が俺の背後へ動いた。
ユーリス。
セレス。
ミリカ。
マリス。
一人ずつ確かめるように見てから、
再び俺へ戻る。
長い沈黙だった。
何を考えているのかは分からない。
ただ、
さっきまでみたいに力だけを測っているようには見えなかった。
「……ならば」
竜が口を開く。
「一つ、聞こう」
「何だ?」
「貴様は、どうすれば本気で我へ応える?」
「……何?」
意味が分からず、
少し眉を寄せる。
竜は続けた。
「火を向けても、貴様は我を殺そうとはしなかった。
諦めたわけでもなく、武器を手放した」
翼が、
ゆっくりと広がっていく。
今度はさっきのような攻撃の気配はなく、
大きな翼膜が風を受けて低い音を立てた。
「ならば」
巨大な瞳が、
真っ直ぐ俺を捉える。
「何をすれば、貴様は本気で我へ牙を向ける?」
「……」
少し考える。
本気。
そう言われても、
今すぐ答えられるようなものじゃない。
そもそも戦う度に、
これは本気だとか、
ここまでは本気じゃないとか、
そんなことを考えた覚えもなかった。
必要なだけ力を出す。
止めなければならないなら止める。
守らなければならないなら、
前へ出る。
ずっと、
それだけだった。
「知らん」
竜の瞳が、
僅かに動いた。
「知らん、だと?」
「ああ。そんなこと考えて戦ったことなんてない」
それよりも、
今いる場所の方が気になった。
足元には、
海から突き出すように作った石の道がある。
無理矢理伸ばしただけの場所で、
幅はそれなりに取ったつもりだった。
けれど、
目の前の竜が立つだけで、
ほとんど埋まってしまう。
すぐ横は海。
下を覗けば、
岩壁へ打ち付ける波が遥か下に見える。
それに、
後ろにはユーリス達がいる。
さっきは、
俺が真正面から受け止めたからよかった。
だが、
今度も同じになるとは限らない。
少しでも火が逸れれば。
爪を避けた先に誰かがいれば。
こいつの尾が横へ流れれば。
…俺だけでは済まない。
俺がどこまでやれるのかを考える以前に、
こんな場所で続けること自体が馬鹿げていた。
「少なくとも、ここじゃ無理だな」
顎で後ろを示す。
「こいつらもいる。足場も悪い」
ユーリスは杖を握ったまま、
まだ完全には警戒を解いていない。
セレスも聖杭槍杖を下ろしてはいるが、
白い火は消していなかった。
ミリカに至っては、
いつでも飛び掛かれるように足を開いたままだ。
マリスも、
白銀の槍を手に立っている。
誰も、
さっきの一撃を忘れてはいない。
「本当にまだ試したいなら」
竜へ目を戻す。
「もう少しマシな場所にしろ」
「……」
しばらく、
竜は俺を見ていた。
その後ろでは、
崖に沿って吹き上がった風が、
大きな翼の端を揺らしている。
やがて、
巨大な頭が僅かに持ち上がった。
「……ならば」
竜が空を見上げる。
「?」
さっきまでとは違う。
俺へ向けていた身体を少し逸らし、
崖の上へ鼻先を向けた。
その胸が、
大きく膨らんでいく。
「……おい」
喉の奥が、
再び赤く灯る。
反射的に、
背後でセレスの白火が強まった。
「またか!」
ユーリスも杖を上げる。
「よせ!」
俺は二人を止めた。
さっきとは違う。
こいつは、
俺達を見ていない。
竜の目は、
空だけを向いていた。
次の瞬間。
―――ゴォォォォォォッ!!
巨大な火柱が、
真上へ放たれた。
炎は岩壁に沿って空へ駆け上がり、
遥か高い場所で大きく広がった。
赤い光が昼の空へ広がり、
巨大な輪を描く。
一つ。
その外側へ、
さらにもう一つ。
炎が風へ散っていくより早く。
崖の上。
さらにその向こうから。
―――ゴォォン……。
低い音が返ってきた。
鳴き声。
いや、
一頭だけじゃない。
遠くから。
別の場所から。
さらに奥からも。
いくつもの竜の声が、
大陸の中を伝うように響いてきた。
「……」
空を見上げたまま、
その音を聞く。
さっきまで岩壁の途中から俺達を監視していた竜達にも、
少しずつ動きが生まれていた。
一頭が翼を畳む。
別の一頭は崖から離れ、
上空へ戻っていく。
こちらを囲むように集まっていた竜達が、
一頭、また一頭と離れていった。
「今のは……」
ユーリスが、
空に残る赤い火を見ながら呟いた。
「…合図?、ですか?」
「…そうだ」
若い竜が答える。
「我が通した…」
「通した?」
「この者達へ手を出すなと告げた…」
セレスは何か言い返しかけたが、
結局そのまま口を閉じた。
俺はもう一度、
空を見上げる。
火は、
すでに消え始めていた。
それでも、
たった一発の火を見ただけで、
あれだけこちらを見ていた竜達が引いていった。
命令されたから従ったというより、
こいつがそう判断したなら、
ひとまず任せる。
俺には、
そんなふうに見えた。
人間とは、
ずいぶん違う。
「これでよい…」
竜は、
再び俺を見る。
「来い…」
「どこへだ?」
「試し原…」
「……ためしはら?」
聞き慣れない言葉に、
ユーリスが小さく反応した。
「何ですか、それ?」
竜は、
そちらを見ることもなく答える。
「力を交えるための場所だ…」
「そんな場所まであるのかよ…」
思わず、
口から漏れた。
竜はそれを不思議がる様子もなく、
戦うための場所があることなど当然だとでもいうように、
大きく翼を広げた。
「ここは我らの領域の縁に過ぎぬ…」
海から吹き上げる風を受け、
翼膜が大きく張る。
次の瞬間。
翼が、
一度大きく打たれた。
―――ドンッ!!
空気が押し潰される。
「うわっ!」
「踏ん張るにゃ!」
ユーリスが身体を傾け、
ミリカが咄嗟にその腕を掴んだ。
砂利と砕けた石が道の上を転がり、
そのまま次々と海へ落ちていく。
俺も目に砂が入らないよう腕で顔を庇いながら、
竜を見上げた。
巨大な爪が石から離れ、
身体が少しずつ浮き上がっていく。
「内へ来い…」
低い声だけを残し、
次の羽ばたきで巨体が一気に上昇した。
ほとんど垂直に近い岩壁に沿って、
空へ駆け上がっていく。
「……」
その姿を追って見上げる。
あれだけ大きかった身体が、
あっという間に小さくなっていった。
それでも、
途中で一度だけ大きく旋回し、
こちらを確認する。
どうやら、
待つ気はあるらしい。
「結局……まだやるのか」
地面へ突き立てていた槍へ手を伸ばす。
柄を掴み、
力を込めて引き抜いた。
―――ガリッ。
石の欠片が、
足元へ落ちる。
そのまま槍を肩へ担ぎ、
もう一度。
遥か上にある、
まだ見えない大陸の中を見上げた。




