第261話:試す火
ユーリスの言葉に、
竜はしばらく何も答えなかった。
潮風が岩壁へぶつかり、
低い音を立てながら海の方へ抜けていく。
その間も巨大な瞳だけは俺から離れない。
左手で揺れる火から俺の顔へ、
そして地面へ突き立てた槍へと、
一つずつ確かめるように視線を移していた。
やがて。
「……エア?」
竜が、
初めて俺の名を口にした。
「そうだ」
「…知らぬ名だ」
「え?」
隣でユーリスが目を瞬く。
「し、知らないんですか?」
「知らぬ」
迷いのない返事だった。
「我が知るのは、かの者の火。
そして、祖より受け継がれた僅かな記憶」
「……」
「名はない」
風が吹き、
左手の火が小さく揺れた。
「そ……そうか……」
思っていたより、
その言葉は少しだけ胸に残った。
別に、
忘れないように覚えていてほしくて、
昔を生きていたわけじゃない。
名前を残そうとも思っていなかった。
それでも……。
少しくらいは、
何か残っていると思っていた。
「……」
ふと、
少し離れた場所に立つマリスを見る。
「?」
あいつ。
確か、『竜は覚えている』とか言ってなかったか?
(ルクナスめ…)
そんなことを考えながら見ていると、
マリスの身体が僅かに揺れた。
「っ……」
纏う空気が変わり、
顔つきまで僅かに変わる。
だが、
何も言わない。
俺と目が合った瞬間、
その口元がほんの僅かに上がった。
「……(二コ)」
「……」
なんだ、その顔。
話が違うだろ。
そう思ったが、
今は口に出さなかった。
少しすると、
さっきまで纏っていた空気が薄れ、
マリスの表情も元へ戻っていく。
俺はそれを横目で確かめてから、
竜へ向き直った。
巨大な身体は、
さっきまでと変わらず石の上に立っている。
海から吹き上がる潮風だけが、
大きな翼の膜を僅かに揺らしていた。
「それで――」
口を開こうとした、
その瞬間。
竜の胸が、
ゆっくりと膨らんだ。
「……?」
何をしている。
そう思った時には、
喉の奥が赤く染まっていた。
最初は小さかった光が、
見る間に膨れ上がり、
その周囲の空気まで歪ませていく。
潮の匂いが消えた。
代わりに、
焼けた岩のような熱い臭いが鼻を刺す。
「エア!」
ユーリスの声が飛ぶ。
次の瞬間、
竜が口を開いた。
―――ゴォォォォォォッ!!
火が来た。
さっき空へ吐いたものとは違う。
真正面から、
俺達へ向かっている。
赤い炎が視界を埋め尽くし、
一瞬で距離を喰い潰してくる。
熱い。
まだ肌へ届いていないのに、
空気そのものが焼けるような熱が押し寄せた。
背後で、
誰かが息を呑む。
避ける。
そう考えるより先に、
後ろにいるユーリス達の姿が頭へ浮かんだ。
ここで退けば、
全部あいつらへ行く。
「チッ……!」
地面へ突き立てていた槍を引き抜く。
柄が手の中へ収まった瞬間、
身体の奥にある火が一気に動いた。
考える必要はなかった。
こいつも、
もう分かっている。
「行けッ!!」
槍を前へ突き出す。
―――ゴォッ!!
赤い火が、
穂先から噴き上がった。
炎は一度大きく広がると、
捻れながら長く伸びていく。
巨大な顎。
燃え上がる鬣。
炎で形作られた四肢。
火は俺が何度も見てきた姿へ変わった。
火竜。
咆哮するように口を開き、
真正面から竜のブレスへ喰らい付く。
―――ドォォォォォォンッ!!
耳の奥まで震えた。
火と火が真正面からぶつかり、
膨れ上がった赤い炎が、
俺達と竜の間を丸ごと飲み込む。
熱風が頬を殴った。
足元の石から水分が一気に抜け、
表面へ細かな亀裂が走る。
すぐ横では、
海面が白く染まった。
―――ジュウウウウウッ。
大量の蒸気が立ち上がり、
潮風に巻かれながら吹き抜けていく。
白い蒸気と赤い炎が入り混じり、
視界が激しく揺れた。
それでも槍は離さず、
腕へさらに力を込める。
火竜も止まらない。
竜が吐き続ける炎へ噛み付き、
その中を押し返すように進んでいく。
一歩、
足を前へ出した。
靴底が石を擦る。
重い。
さっきまで扱っていた火とは、
まるで違った。
向こうの炎も、
ただ熱いだけじゃない。
その奥から、
重さのある圧そのものが押してくる。
まるで炎ではなく、
巨大な生き物そのものを相手にしているようだった。
「っ……!」
槍を握り直す。
「ッ行け!!」
赤い火が腕を走り、
火竜の身体がさらに大きく膨れ上がった。
―――ゴォォォォォォッ!!
押し返す。
互いの炎が、
中央で限界まで膨らみ――
弾けた。
―――ドンッ!!
爆風が身体を叩いた。
足が後ろへ流れ、
靴底が石の上を滑る。
背後から、
ユーリスの短い悲鳴が聞こえた。
だが、
倒れるわけにはいかない。
槍を石へ打ち込み、
両腕へ力を込めてどうにか身体を止める。
蒸気と火の粉が辺り一面を覆い、
赤い光が雨のように海へ落ちていった。
「……」
乱れた呼吸を整える。
頬が熱い。
髪の先からも、
僅かに焦げた臭いがする。
ゆっくりと顔を上げると、
白い蒸気の向こうに竜の姿が見えた。
さっきと同じ場所。
鱗の隙間から熱が立ち上り、
口元には僅かに赤い火が残っている。
それなのに、
傷はない。
「……」
こいつ。
今のを正面から受けて、
平然としてやがる。
そのことにも驚いたが…、
それ以上に腹が立った。
「いきなり何しやがる!!」
声が岩壁へ響く。
相変わらず、
竜は答えない。
何事もなかったように、
ただ俺を見ていた。
「エア!」
背後で金属音が鳴った。
振り返らなくても分かる。
セレスだ。
「これ以上問答無用だ!」
聖杭槍杖を構え、
その周囲へ白い火が細く纏わり始めている。
さっきまでの戸惑いは消え、
銀の瞳も完全に戦う時のものへ変わっていた。
「話し合いを続ける必要はない!」
「やっぱり襲ってきたにゃ!」
ミリカの声も続く。
低く腰を落とし、
石を掴むように足へ力を入れている。
耳は伏せられ、
目だけが竜の動きを追っていた。
ユーリスも遅れて杖を上げる。
さっきまで知識欲に押されて前へ出ていたのに、
今は顔色が少し悪い。
それでも、
杖の周囲ではすでに術式が組まれ始めていた。
「え、エア!撃ちますよ!」
「やめろ!」
振り返り、
声を叩きつける。
「え!?」
ユーリスの杖が止まる。
「にゃ!?」
ミリカも踏み出しかけた足を、
その場へ残した。
「何故だ!」
セレスの白火が揺れる。
「今のは明確に攻撃だ!」
「分かってる」
分かっている。
だからこそ、
もう一度竜を見る。
白い蒸気が俺達の間を流れ、
火竜とブレスがぶつかった熱は、
まだ石の中へ残っていた。
靴底越しでも分かるほど熱い。
頬にも、
焼けた空気が張り付いている。
それなのに。
目の前の竜からは、
このまま俺達を殺すために攻撃を続けようとする気配が感じられなかった。
「……」
あれだけの身体だ。
爪も、
尾もある。
翼だって、
振るうだけで船を傾けるほどの風を起こした。
本当に俺達を殺すつもりだったなら、
やりようはいくらでもあったはずだ。
ブレスを止められた直後。
俺が爆風で押し返され、
槍を石へ突き立てたあの瞬間なら、
爪でも尾でも使えたし、
もう一度火を吐くことだって出来た。
だが、
こいつは何もしなかった。
俺が出した火竜を見て、
そのあとで俺を見ていた。
まるで、
何かを確かめるように。
その考えへ辿り着くと、
胸の奥へ別の怒りがじわりと広がった。
「……チッ」
舌打ちが漏れる。
竜の瞳が、
僅かに動いた。
「てめぇ……」
槍を握る指へ、
自然と力が入る。
いきなり火を吐かれたことだけでも、
十分に腹は立っている。
だが、
もし最初からこいつが俺達を殺すつもりではなく、
何かを見定めるために撃ったのだとしたら。
なおさら腹が立つ。
狙われたのは、
俺だけじゃない。
後ろには、
ユーリス達もいた。
「試したな?」
問い掛ける。
竜は答えない。
巨大な瞳で、
こちらを見返すだけだった。
否定もしない。
「……」
余計に腹が立つ。
その時、
竜の目が俺から外れた。
向いた先はマリス。
いや。
その手に握られている、
白銀の槍だった。
「……?」
マリスも、
その視線に気付いたらしい。
白銀の槍を握ったまま、
僅かに顎を上げる。
人が作った神器。
俺の槍を模して作られたもの。
竜はその穂先から柄へ、
さらに刻まれた術式へと、
一つずつ確かめるように目を動かしていった。
それから、
再び俺を見る。
「……」
さっきと同じだ。
俺が持つ槍と、
人が作った槍。
何かを比べている。
何を見ているのかまでは分からない。
だが。
(何か分かってやがる……)
海から風が吹き上がり、
立ち込めていた蒸気が散っていく。
その向こうで、
竜の前脚が動いた。
―――ギリッ。
巨大な爪が岩へ食い込み、
表面を削る。
身体が僅かに沈み、
それに合わせて翼もゆっくりと開き始めた。
次が来る。
そう感じた瞬間、
背後で再び白火が膨らむ。
「エア!」
「動くな」
「だが――」
「…」
短く振り返る。
「バカがッ…」
セレスは構えを解かない。
だが、
それ以上は動かなかった。
俺もすぐに前へ向き直り、
竜から目を離さない。
またやる気なのかもしれない。
何を考えているのかまでは、
俺には分からない。
それでも、
さっきと同じように何かを確かめようとしていることだけは、
嫌でも伝わってきた。
「まだやる気か?」
答えはない。
少しだけ息を吐き、
槍を持ち上げる。
竜の目が、
その動きを追ってきた。
そのまま、
自分の真正面へ。
―――ガンッ!!
石の桟橋へ、
深く突き立てる。
手を離す。
火も消す。
構えも解く。
そして、
その場で腕を組んだ。
「……」
背後から、
ユーリスが息を呑む音がした。
セレスも。
ミリカも。
マリスも。
誰一人として、
前へ出てこない。
俺は真正面から、
竜を見た。
武器は持っていない。
避けるために腰も落とさず、
すぐに動ける姿勢すら取っていない。
戦うつもりがないことくらい、
これなら分かるだろう。
それでも試すなら。
「勝手にしろ」
吐き捨てるように言った。
潮風が吹く。
服の裾が揺れ、
火の残り香と海の匂いが混ざって鼻を抜けていく。
竜の翼は、
途中まで開いたままだ。
爪も、
深く石を噛んでいる。
俺は動かない。
腕も解かない。
ただ、
目だけは逸らさなかった。
「……」
しばらく、
互いに何も言わない。
波が崖の下へぶつかり、
遠くで白く砕ける音だけが響いていた。
そして。
竜が――止まった。




