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第260話:かの者


「何をしに来た?」


低い声が、

岩壁に反響する。


「……」


喋るのか。


いや、

今さら驚くことでもない。


竜という種族が、

人と同じように言葉を扱うことは、

以前、学院の夜にユーリスから少し聞いていた。


それでも。


目の前にいるのは、

俺達など簡単に踏み潰せそうな巨体だ。


そこから、

はっきりと人の言葉を向けられると、

知識として聞いていた時とはまるで違う。


妙な感じがした。


「エア……」


後ろから、

ユーリスの小さな声が聞こえる。


振り返らない。


竜は俺を見ている。


言葉が通じるなら、

少なくとも話は出来る。


槍を持ち直した。


その瞬間。


竜の瞳が、

僅かに細くなった。


「…それを構える必要はない」


低い。


さっきよりも明確に、

警戒の混じった声だった。


俺は手の中の槍を見る。


「俺も戦う気はない」


「…ならば置け」


「それは無理だ」


竜はさらに目を細める。


岩を掴んでいた爪が動き、

硬い石の表面を僅かに削った。


―――ガリッ。


後ろで、

セレス達の気配が変わる。


「エア…」


「大丈夫だ」


片手を上げる。


槍を前へ差し出す。


だが、

手放しはしない。


「これを預けに来た」


「……預ける?」


「ああ」


竜の視線が、

俺から槍へ落ちる。


長い。


こちらが何を言い出したのか、

測っているような沈黙だった。


「人の武器を…」


やがて、

低い声が落ちる。


「…なぜ我らが預からねばならない」


「人の手に置いておけないからだ」


「…ならば海へ捨てろ」


「それも出来ない」


「…なぜだ」


竜の瞳が、

僅かに動いた。


「これを欲しがってる奴がいる、

 簡単には捨てられない」


槍へ目を落とす。


「俺が持って歩けば、人は求める。

 そして、敵も追ってくる」


だから。


人のいない場所。


簡単には近付けない場所。


そして、

これを奪おうとする奴が来ても、

容易く突破出来ない相手。


それを考えて、

ここまで来た。


「お前達になら、預けられると思った」


「……」


竜は答えない。


崖と海の間を、

風だけが抜けていく。


頭上のどこかで、

大きな翼が一度鳴った。


しばらくして。


「…勝手なものだ」


低い声が返ってきた。


「何?」


「…人は変わらぬ」


竜の尾が、

石の上をゆっくりと這う。


「己の争いを生み…、

 手に余れば我らの元へ持ち込む」


「……」


「そして…」


竜の瞳が、

槍から俺へ戻った。


「我らに守れと言う…」


返す言葉が、

すぐには浮かばなかった。


こいつの言っていることは、

間違っていない。


人の側で生まれた問題を持ち込んでいることに変わりはない。


だが…。


「勝手だが、他に宛がなくてな」


竜は何も言わず、

俺を見ていた。


その大きな瞳が、

こちらの言葉の奥まで測るように止まる。


そして一言。


「去れ」


「断る」


即答すると。


―――ドンッ!!


竜の尾が、

石の桟橋へ叩き付けられた。


足元から衝撃が伝わり、

砕けた岩の破片が海へ落ちていく。


「エアッ」


セレスが一歩、

前へ出る。


「下がってろ!」


「しかし――」


「話してるだけだ、怯える必要はない」


セレスが口を閉じる。


その時。


竜の視線が動いた。


俺から外れ、

またセレスへ向く。


「……」


鼻先が、

僅かに上がった。


さっきと同じだ。


見るというより、

何かを探っている。


「なんだ?」


セレスも気付いた。


「先ほどから私を見ているな」


「……その火だ」


「火?」


竜が、

ゆっくりと身体を起こす。


それだけで、

俺達の上へ落ちる影が大きくなった。


「お前から臭う」


セレスの眉が寄る。


「何の話だ?」


「かの者の火ではない」


「……?」


「人が作った偽りの火だ」


空気が変わった。


セレスの手が、

聖杭槍杖へ触れる。


「貴様…侮辱するつもりか?」


「侮辱?」


竜の首が傾く。


本当に、

その意味が分からないようだった。


「なぜそう受け取る?」


「……」


「ただ違うと言った…」


竜が、

セレスを見下ろす。


「我らの記憶にある火と、人間が用いる火は違う」


「記憶……?」


ユーリスが反応した。


だが、

竜はそちらを見ない。


視線はまだ、

セレスへ向けられている。


「その匂いは、白い衣を身につける者の匂いだ」


鼻先が、

僅かに近付く。


「偽りの火を用いて、人間たちは自ら死にゆく。

 かの者の名を掲げて…」


セレスの表情が変わった。


「……何を言っている」


「お前達は、今も…」


竜の声が、

さらに低くなる。


「かの者を…エンラと呼ぶのか?」


「……!」


セレスが息を呑んだ。


ユーリスも。


ミリカも。


ほとんど同時に、

俺を見る。


「なぜ……」


セレスの声が掠れた。


「貴様が、その名を知っている?」


竜は答えなかった。


代わりに。


今度は、

俺を見る。


長い。


妙に長い視線だった。


「……」


まただ。


こいつは、

さっきから俺を見る時だけ、

何かがおかしい。


警戒しているなら分かる。


知らない相手が、

勝手に領域へ入ってきたんだから。


けれど、

それだけじゃない。


竜の瞳が細くなる。


「なんだ?」


「……」


鼻先が近付く。


巨大な顔が、

ゆっくりと俺の目の前まで降りてきた。


「ッ!?、エア!」


後ろでセレスが叫び、

白い火が立ち上がる。


俺は槍を地面へ突き立てた。


―――ガンッ。


セレスは俺と竜を何度か見比べ、

やがて火を収めた。


竜は、

俺を喰おうとしているわけじゃない。


ただ。


近くで見ている。


確かめるように。


巨大な鼻先が僅かに動き、

低く息が漏れた。


「……知らぬ」


「?」


「だが…」


竜の瞳が、

俺の槍へ落ちる。


「なぜだ…」


低く。


誰かへ尋ねるというより、

自分自身へ問い掛けるような声だった。


「なぜ、お前を」


一度、

言葉が止まる。


「知っている気がする…」


俺にも意味が分からない。


こいつと会った覚えなんてない。


それどころか、

俺が生きていた時代には、

竜そのものがいなかったはずだ。


なら。


確かめられるものは、

一つしか思い付かなかった。


左手を前へ出し、

掌を開く。


意識を向ける。


―――ゴッ。


赤い火が立ち上った。


「お前は……これを覚えているか?」


風に揺れる。


ただの火。


俺にとっては、

昔から何度も使ってきた、

いつもの火だった。


だが。


目の前の竜が、

初めて大きく目を見開いた。


「…これは」


左手の火へ、

視線が釘付けになっている。


さっきまでの警戒も。


俺達を追い払おうとしていた威圧も。


一瞬だけ、

消えたように見えた。


鼻先が、

ゆっくりと近付いてくる。


「…」


竜は、

火に触れる寸前で止まった。


じっと見ている。


炎の揺れまで、

一つずつ確かめるように。


鼻先が、

僅かに動く。


「……その火」


声が変わっていた。


低さは同じだ。


なのに、

さっきまでとは何かが違う。


「何だ?」


尋ねても、

竜は答えない。


―――ゴォオ…。


代わりに、

大きく息を吸った。


巨大な胸が膨らむ。


「エア!」


ユーリスが叫ぶ。


セレスも聖杭槍杖を完全に抜き、

駆け出そうとする。


だが、

その前に。


竜の口が開いた。


喉の奥。


赤い光。


―――ゴォッ!!


炎が吐き出される。


俺達へじゃない。


空へ。


巨大な火柱が、

崖に沿って一気に立ち上った。


熱風が上から降り注ぎ、

ユーリスが腕で顔を覆う。


「熱っ……!」


やがて、

炎が消える。


竜はもう一度、俺の左手を見た。


自分が吐いた炎。


俺の掌で揺れている炎。


二つを、

比べるように。


「……違う」


竜が呟いた。


「何がだ?」


「我らの火とは違う…だが」


「……?」


竜が、

俺の火へさらに顔を近付ける。


「熱ではない…」


炎を見る。


「色でもない…」


鼻先が、

僅かに動く。


「魔力の流れ……」


その瞳が、

僅かに細くなる。


「…いや」


自分で否定するように、

ゆっくりと首を振った。


「もっと、深い…」


俺には、

何を言っているのか分からなかった。


振り返らなくても分かる。


後ろでも、

誰も声を出していない。


分かっているのは、

目の前の竜だけだ。


俺達には見えていない何かを、

こいつだけが火の中に見ている。


「その火を」


竜が呟く。


「どこで得た?」


「さぁな」


竜は少し俺を睨んだ。


それでもすぐ、

視線は左手の火へ戻る。


「これは、俺の火だ」


「……」


「昔から使ってる。

 誰かに習ったわけじゃない」


その瞬間。


竜の瞳が、

再び大きく開いた。


「昔から……?」


「ああ」


長い沈黙。


風が吹いても、

竜は動かなかった。


やがて。


一歩。


竜が、

後ろへ下がる。


初めてだった。


俺達を追い払おうとしていた竜が、

自分から距離を取った。


「……」


それでも、

視線は俺の左手から離れない。


消さずに残している、

小さな赤い炎。


何か遠いものと、

重ねているように見えた。


「……人よりも、我らに近い」


竜が呟いた。


「何がだ?」


返事はない。


その代わり。


後ろから、

小さな足音がした。


「……あの」


ユーリスだった。


「ユーリス?」


さっきまで、

竜の大きさにあれだけ怯えていたのに。


今は俺の横まで出てきている。


竜の瞳が、

ユーリスへ向いた。


その瞬間。


ユーリスの身体が、

僅かに固まる。


それでも、

下がらなかった。


「一つ、聞いてもいいですか?」


「……何だ」


「あ、答えてくれるんですね……」


「ユーリス」


「す、すみません」


一度、

咳払いをする。


それから改めて、

竜を見上げた。


「先ほどから言っている、

 その……『かの者』とは」


一度。


俺を見る。


「誰のことですか?」


「……」


竜は、

すぐには答えなかった。


その視線が、

再び俺の火へ戻る。


「我も」


低い声が響く。


「かの者の全てを知るわけではない」


「全てを……知らない?」


竜の瞳には、

俺の左手で揺れる火が映っていた。


「我よりも古き翼ですら、

 その時代を直接は知らぬ」


「……」


「古の火を知る、

 我らが最も古き竜より聞いた話だ」


そう言いながらも、

視線は一度も火から動かない。


「我らが竜となるよりも、遥かに古い」


「……竜となるよりも?」


ユーリスの声が変わった。


さっきまで残っていた怯えが、

一瞬で薄れていく。


「それは、どういう……」


「我らの祖は」


竜が続ける。


「かの者と共にあった」


「……!」


「共に生き、共に歩き、その背を見ていた」


風が吹く。


左手の火が、

小さく揺れた。


竜の瞳は、

その動きを追う。


「かの者は前に立ち、全てを守った。

 闇が来れば…」


鼻先が、

僅かに俺の火へ近付く。


「その火で焼いた」


「……」


「我らの祖は」


竜の胸が、

ゆっくりと上下する。


「その火を見ていた」


竜が一度、

空を見上げた。


先ほど、

自ら炎を吐いた場所。


何もない空だけが、

そこに広がっている。


「見て、覚え、追った」


「追った?」


ユーリスが聞き返す。


竜の喉の奥で、

僅かに赤い光が灯った。


「我らの火は、

 そこから始まった」


「……!」


ユーリスが息を呑む。


俺も、

思わず竜を見る。


「お前達の……火?」


竜は、

当然のことを話すように答えた。


「我らは、かの者の火を追った。

 闇を焼くために」


巨大な爪が、

静かに岩を掴む。


「故に…分かる」


その視線が、

セレスへ向いた。


「人の火は、かの者のそれではない」


そして。


再び、

俺へ戻る。


「だが、お前の火は…同じには見えぬ」


「……」


誰も口を挟まない。


ユーリスだけが、

何かを必死に考えていた。


俺。


竜。


左手の火。


そして、

地面へ突き立てた槍。


その視線が、

何度も行き来する。


「祖……」


小さく呟く。


「竜になるより前……」


また、

俺を見る。


「影を焼いた、火……」


少しずつ。


ユーリスの顔から、

迷いが消えていく。


代わりに、

別のものが浮かび始めた。


何か一つ。


頭の中で、

バラバラだったものが繋がっていくような顔だった。


「……あの」


竜がユーリスを見る。


だが、

ユーリスはもう竜を見ていなかった。


俺を見ている。


「エア」


「なんだ?」


「この竜が言っている……」


言葉を探すように。


一度、

息を呑む。


「『かの者』」


ユーリスの目が、

大きく開いていた。


「それ……」


俺と。


左手の火を見比べる。


「エアのことですよね?」

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