第259話:竜の大陸
扉を開ける。
潮風が、
船室の中へ吹き抜けた。
そして。
目の前に広がっていた景色を見て、
誰も言葉を失った。
「……」
海の向こう。
切り立った巨大な大陸が、
空へ突き刺さるようにそびえている。
視界に映る景色一面が、崖。
人が登れる高さじゃない。
首を上げても、
その頂上がどこにあるのか分からない。
そんな絶壁が、
左右の果てまでどこまでも続いている。
「これが……」
ユーリスが呟く。
「竜の領域……」
誰も返事をしなかった。
見上げているだけで、
首が痛くなる。
その崖の途中で、
巨大な影が動いた。
「……!」
翼だ。
広げれば、
それだけで俺達の船より大きい。
一頭。
また一頭。
岩壁から突き出した岩へ、
次々と降り立っていく。
陽を受けた鱗が、
鈍く光った。
…竜だ。
襲ってはこない。
吼えもしない。
ただ、
静かにこちらを観察している。
「……でかいにゃ」
ミリカの声が、
いつもより小さい。
耳も、
ぺたりと伏せていた。
「あれ、本当に生き物にゃ……?」
「生き物です」
ユーリスが答える。
だが、
その声もどこか上擦っている。
「文献では、大型の竜は家屋を上回る体躯を持つと……」
そこまで言って、
ユーリスが黙った。
崖にいた一頭が、
ゆっくりと身体を起こしたからだ。
さっきまで岩の一部にしか見えなかった巨体が動く。
長い首が持ち上がり、
爪が岩壁を掴む。
そして、
巨大な翼がゆっくりと開いていった。
「……文献より大きいです」
―――バサッ!!
翼が振り下ろされた。
ただ、
それだけだった。
それだけで海面が大きく沈み、
一拍遅れて風が届く。
―――ドンッ!!
船全体へ、
空気の塊が叩き付けられた。
「うわっ!?」
ユーリスが慌てて手すりを掴む。
ミリカの髪が大きく煽られ、
俺も足へ力を入れた。
船体が横へ傾き、
帆が激しくはためく。
「全員、何かに掴まれ!」
船頭が叫んだ。
竜が飛ぶ。
巨体が、
岩壁から離れた。
一度、
翼を打つ。
それだけで、
船より遥か上まで昇っていく。
もう一度。
今度は、
俺達の頭上を横切った。
陽が消えた。
「……」
船ごと、
巨大な影の中へ入る。
思わず見上げる。
腹を覆う鱗。
折り畳まれた脚。
そこから伸びる爪は、
一本一本が俺の身体より太い。
近い。
あれだけ巨大なのに、
ほとんど音もなく頭上を抜けていく。
こちらを見ることすらなく、
竜はそのまま大陸の向こうへ消えていった。
しばらく、
誰も声を出さなかった。
「……あんなのと」
セレスが小さく呟く。
聖杭槍杖へ、
無意識に手を添えている。
「…昔の人間は共に暮らしていたというのか?」
「らしいな…」
答えながら、
もう一度崖を見る。
正直、
俺にも実感はない。
竜。
名前は知っている。
今の時代へ来てから、
何度か話にも聞いた。
けれど、
実際に見るのは初めてだ。
当然と言えば当然だった。
俺が生きていた頃には、
こんな生き物はいなかった。
少なくとも、
俺の知る世界には。
「…エア」
マリスが声をかけてくる。
「…そろそろ限界だって」
「船か?」
「…うん」
進行方向を見る。
いつの間にか、
崖がかなり近付いていた。
そこで、
ユーリスが何かに気付く。
「……港がない?」
岩の壁を端から端まで見ても、
船を着けられそうな場所はない。
流れが止まる場所も、
浜も見当たらない。
海から直接、
巨大な岩壁が立ち上がっているだけだった。
マリスが頷く。
「…流れも複雑、これ以上は船じゃ無理」
海面へ目を向ける。
外海の荒れを抜けたはずなのに、
ここも決して穏やかではない。
崖へ押し寄せる水と、
そこから沖へ戻ろうとする流れ。
二つがぶつかり合い、
船体を少しずつ横へ押している。
これ以上近付けば、
操船そのものが難しくなる。
「ここから泳いで行くのにゃ?」
ミリカが崖を見上げる。
「無理にゃ…」
海を挟んでるせいか、
珍しく弱気だ。
俺も見上げる。
ほとんど垂直、
途中に岩の出っ張りはある。
だが、
人間が登るためにあるわけじゃない。
その上。
そこかしこに、
竜がいる。
岩壁の上。
突き出した岩。
遥か上空。
さっきより、
明らかに数が増えていた。
数える気にもならない。
「歓迎されてはいないようだな…」
セレスが言った。
「ああ」
俺達が近付くほど、
こちらへ向けられる視線が増えている。
襲ってはこない。
だが、
確実に見られている。
―――来るな―――。
言葉なんて聞こえない。
それでも、
そう告げられているような感覚があった。
「どうします?」
ユーリスが俺を見る。
槍を預けるために、
ここまで来た。
この程度で、
引き返すわけにもいかない。
もう一度、
崖を見る。
岩。
なら。
「上がればいい」
「え?」
船首へ歩く。
「エア?」
背中から、
マリスの声が聞こえた。
崖へ手を向ける。
距離はある。
だが、
届かないほどじゃない。
「……」
手の中の槍へ、
視線を落とす。
ここまで。
何度も、
俺の手へ戻ってきた。
火を纏い。
水を受け入れ。
俺と一緒に戦ってきた。
なら、今回も。
「……頼むぞ」
槍を握る手へ、
力を込める。
土。
獣人の領域で知った、
大地の力。
海を越えた先にある、
巨大な大陸を意識する。
重い。
硬い。
ただそこにあるだけじゃない。
支え。
繋がり。
積み重なって、
大地そのものを形作っている。
その感覚を手の中へ集め、
槍へゆっくりと流していく。
―――ズズ……。
槍が、
小さく震えた。
まるで、
返事をするように。
「……」
顔を上げる。
海の向こう。
垂直に立ち上がる、
巨大な岩壁。
狙いを定める。
槍を後ろへ引き、
一歩踏み込んだ。
「行けッ!」
投げる。
―――ドォンッ!!
槍が空気を突き破る。
海の上を一直線に飛び。
―――ズガァァンッ!!
崖へ突き刺さった。
…、…、…何も起こらない。
だが…、
次の瞬間。
―――ゴゴゴゴゴゴ……。
大陸が鳴った。
「……!」
ユーリスが目を見開く。
槍の刺さった場所から、
岩肌へ亀裂が走る。
崩れているんじゃない。
動いている。
崖の下。
海面のすぐ上から、
巨大な岩盤がゆっくりと前へせり出した。
―――ゴゴゴゴゴゴゴゴ!!
一つ。
さらに、
もう一つ。
岩が押し出され、
その先へ次の岩が繋がっていく。
海の上へ。
俺達の船へ向かって、
大陸そのものがこちらへ手を伸ばしてくるように。
「道が……」
ユーリスが呟く。
やがて、
せり出した岩盤が船のすぐそばまで届いた。
人が何人並んでも歩けるほど広い。
巨大な、
石の桟橋。
「……よし」
右手を伸ばす。
遠く。
崖へ突き刺さっていた槍が火を吹き、
岩から抜けた。
宙を走り、
真っ直ぐこちらへ戻ってくる。
その柄を掴む。
「行くぞ」
槍を手に、
船の縁へ足を掛ける。
「ッ」
石の桟橋へ飛び移った。
―――コツッ。
靴底が、
岩を踏む。
「……」
硬い。
当たり前だ。
石で作ったんだから。
目の前には、
さっきまで海の向こうから眺めていた大陸がある。
ここから先は。
竜の領域。
人が踏み入れない、
未知の場所だ。
振り返る。
「来ないのか?」
ユーリスが、
恐る恐る船縁から下を見る。
「……い、いきます!」
「あたしがさきにゃ!」
「うわ!?」
へたり込んだユーリスの横を、
ミリカが先に飛び移った。
「ほら、ユーリスも早くするにゃ!」
「ちょ!?、ミリカ!?今押しましたよね?!」
「押してないにゃ?」
「絶対押しました!」
二人の声が、
海の上へ響く。
その後ろから、
マリス。
セレス。
順番に、
石の上へ降りてくる。
最後に船頭達を見る。
「世話になった」
「気をつけろよ」
船頭は崖を見上げたまま、
即答した。
「俺達が行けるのはここまでだ」
「ああ、あんたらも無事に帰れ」
それだけ言って、前を向く。
石の桟橋。
その先には、
巨大な絶壁。
波が岩へぶつかり、
足元で白く砕ける。
頭上から、
翼の音がした。
―――バサッ。
一頭。
―――バサッ。
また一頭。
「……」
さっきより近い。
崖の突起へ降りた竜が、
長い首を伸ばし、
俺達を見下ろしている。
その上にも。
さらに一頭。
もっと上にも。
気付けば、
崖のあちこちから、
いくつもの目がこちらへ向けられていた。
「……また、増えてません?」
ユーリスが小声で言う。
「増えてるにゃ……」
ミリカも、
今度は否定しなかった。
「数えるな」
セレスが、
前を見たまま言う。
「余計に足が止まる」
「もう止まりそうです……」
「なら歩け」
「はい……」
進む。
竜達は動かない。
吼えもしない。
襲ってもこない。
ただ、
見ている。
その静けさが、
かえって落ち着かなかった。
やがて、
桟橋の先へ辿り着く。
目の前には、
岩壁。
近くで見ると、
さらに大きい。
首を上げても、
やはり頂上は見えなかった。
「……さて」
ミリカが見上げる。
「ここからどうするにゃ?」
「同じだ」
道がないなら。
作る。
岩壁へ手を向けようとした。
その時だった。
―――ドンッ!!
後ろ。
石の桟橋へ、
何かが落ちた。
「っ!?」
衝撃で、
足元の岩が大きく震える。
細かな石が跳ね、
砂埃が一気に舞い上がった。
ユーリス達が、
一斉に身構える。
「エア!」
振り返る。
砂埃の向こう。
巨大な影が、
ゆっくりと起き上がった。
四本の脚。
岩を掴む爪。
折り畳まれていく翼。
そして、俺達を見下ろす…、
…巨大な瞳。
竜。
さっきまで崖の途中にいた一頭とは違う。
少し小さい。
それでも、
俺達と比べれば十分すぎるほど巨大だった。
竜は、
俺達を順番に見る。
ユーリス。
ミリカ。
マリス。
そして。
セレスで、
視線が止まった。
「……?」
セレスが眉を寄せる。
竜の鼻先が、
僅かに動いた。
何かを嗅ぐように。
その瞳が細くなる。
だが、
何も言わない。
最後に俺を見る。
「……」
妙な間だった。
竜が俺だけを、
じっと見ている。
敵意とは違う。
警戒。
それだけでもない。
何かを、
探しているような。
「お前達…」
低い声が響いた。
腹の底まで、
その音が震えて届く。
「何をしに来た?」
初めて。
竜の領域から。
俺達へ、
言葉が向けられた。




