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第256話:お帰りと、ごめんなさい


流れが落ち着き、

マリエルを抱き上げた時だった。


―――コォォォォォ……。


弱い鳴き声が、

静かになった海へ響いた。


顔を上げる。


海王鯨。


全身へ絡み付いていた触手は、

もう動いていない。


黒い塊となったそれらが、

一本ずつ巨体から剥がれ落ち、

海底へ沈んでいく。


けれど、

海王鯨は動かなかった。


青い紋様も、

消えかけたまま弱く明滅している。


「……毒か」


槍を握り直す。


片腕には、

眠ったままのマリス。


呼吸は落ち着いている。


俺はその身体を抱き寄せたまま、

海王鯨へ視線を向けた。


流れが見える。


青い身体の奥。


本来なら、

途切れることなく巡っているはずの水。


その中へ、

黒紫の毒が幾つもの筋となって広がり、

身体中の流れへ絡み付いている。


「待ってろ」


足元へ流れを集める。


水を蹴るのではない。


その中へ身体を乗せると、

力を込めていないのに身体が滑り始めた。


「……」


海王鯨との距離が、

一気に縮まっていく。


近衛達が道を開ける。


アーダも、

カイルも。


何も言わず、

こちらを見ていた。


海王鯨の前へ辿り着く。


片腕でマリスを抱いたまま、

もう片方の手を青い巨体へ触れた。


冷たい。


けれど、

その奥では弱い鼓動がまだ続いている。


「大丈夫だ」


目を閉じる。


毒を押し返さない。


流す。


海王鯨の中へ、

俺の水を繋げる。


触れた手から青い光が広がり、

巨体の奥へ流れ込んでいった。


一度。


また一度。


消えかけていた紋様が、

俺の流れへ応えるように脈打つ。


「……もう少しだ」


毒の道。


身体中へ絡み付き、

水の巡りを塞いでいる黒い染み。


そこへ新しい水を通す。


一つの場所へ集めるんじゃない。


身体の外へ。


海へ。


止まることなく、

流れ続ける場所へ。


やがて、

黒ずんだ紫色が傷口から滲み始めた。


一本。


また一本。


毒が青い巨体の中から抜け、

海水へ散っていく。


そして、その後に。


残っていた俺の火が黒い毒だけを焼いた。


―――ボッ。


小さな赤い火が、

海王鯨の周囲で幾つも弾ける。


海へ流れ出した毒が消え、

それに合わせるように、

青い紋様が少しずつ本来の光を取り戻していった。


けれど。


まだ足りない。


弱っている。


毒は抜けても、

命そのものが消耗しすぎていた。


「もう平気だぞ……」


胸の奥へ、

静かに火を灯す。


焼くためではない。


消えかけたものへ、

もう一度立ち上がる力を渡すために。


「戻れ」


赤い火を、

水の流れへ乗せる。


火は海王鯨の身体へ入り、

青い光の中をゆっくりと巡っていった。


水が運ぶ。


火が灯す。


一つ。


また一つ。


消えかけていた紋様が、

今度は力強く輝き始める。


―――どくん。


触れた手へ、

大きな鼓動が返ってきた。


―――どくん。


もう一度。


海王鯨の胸びれが、

僅かに動く。


「……」


やがて、

深い青の瞳がゆっくりと開いた。


―――コォォォォォォォン。


今度の鳴き声は、

弱くない。


低く、

長く。


海の奥まで震わせる、

力の戻った声だった。


「動いた……!」


近衛達から、

声が上がる。


「海王鯨が!」


「助かったぞ!」


俺は手を離した。


その瞬間、

海王鯨が大きく尾を動かす。


押し出された海流が周囲へ広がり、

青い巨体がゆっくりと泳ぎ出した。


一度、

俺達の周囲を回る。


アーダ達の上を通り、

カイルの横を抜け、

砕けた底殻の跡を大きく巡っていく。


それから、

もう一度俺の前へ戻ってきた。


深い青の瞳が、

真っ直ぐこちらを見ている。


「……?」


しばらく、

互いに見つめ合う。


やがて、

海王鯨はゆっくりと頭を下げた。


王族を乗せる時と同じように、

広い背が俺達の前へ差し出される。


「乗れってことか……?」


―――コォォォォォン。


短い鳴き声。


返事に聞こえた。


俺は腕の中のマリスを見る。


眠っている。


けれど、

顔色はもう悪くない。


穏やかな呼吸が、

抱いている腕へ伝わってくる。


「帰るぞ」


海王鯨の頭へ足を乗せる。


水の流れへ身体を預け、

そのまま背へ上がった。


アーダ達も、

負傷した近衛達を支えながら、

次々と海王鯨へ乗っていく。


最後に、

カイルが父親の身体を支え、

背へ上がった。


全員が乗ったのを確かめると、

海王鯨は静かに身体を起こす。


青い紋様が、

再び海中を明るく照らした。


―――コォォォォォォォン。


長い鳴き声と共に、

巨体が海を進み始めた。



ーーーーー



三人を抱えたまま、

城へ飛び込む。


「何者だ!?」


近衛達が、

一斉に振り返った。


「マリエル様!?」


「どいて!!」


返事を待たず、

人の間を抜ける。


尾で水を押し、

地上人用の客室へ一直線に向かった。


「開けて!」


扉の前にいた近衛が、

慌てて脇へ退く。


勢いを落とさないまま、

扉を押し開けた。


次の瞬間、

身体を包んでいた海水が空気へ変わる。


「わっ……!」


支えを失った。


尾のまま、

三人と一緒に部屋の中へ落ちる。


―――べちゃっ!!


床へ水が広がった。


抱えていた三人も、

濡れた音を立てて転がる。


「っ!?」


部屋の中にいた者達が、

一斉にこちらを向いた。


「マリス!?」


知らない女の子が、

椅子から立ち上がる。


けれど、

私の顔を見るとすぐに目を見開いた。


「……え?」


その隣にいた白い髪の女も、

鋭くこちらを見る。


獣人の女の子は、

耳をぴんと立てたまま固まっていた。


そんなことは、

今はどうでもいい。


「お願い!」


床へ手をつき、

サリスの身体を起こす。


「サリス!」


反応がない。


頬へ触れる。


冷たい。


「みんな、お願い……息して!」


胸元へ手を当てる。


弱い。


でも、

まだ動いている。


「サリス!」


身体を横へ向け、

背中を強く叩く。


一度。


もう一度。


「げほっ……!」


サリスの身体が跳ねた。


口から、

大量の海水が溢れる。


「げほっ、ごほっ……!」


「サリス!」


肩を抱く。


息をしている。


ちゃんと。


それを確かめると、

すぐにレギスへ向かった。


「起きて!」


胸を押す。


「ねえ、レギス!」


「……っ、ぶはっ!!」


レギスが、

勢いよく水を吐いた。


「ごほっ……くそ……。

 死ぬかと思った……」


「馬鹿!本当に死ぬところだったのよ!」


言い返す声が出た。


それだけで、

張り詰めていた胸の奥が少し緩む。


「ダルー!」


最後の一人へ向かう。


大きな身体を必死に横へ向け、

背中を叩く。


「起きて!ダルー!」


「……ごほっ!」


身体が大きく揺れた。


「げほっ、ごほっ……!」


水を吐き、

何度か荒く息を吸う。


やがて。


「もう……いや」


掠れた声が漏れた。


「水の中は…、

 二度とごめんよぉ〜……」


「……よかった」


その声を聞いた途端、

その場へ力が抜けそうになる。


生きている。


三人とも。


まだ苦しそうだけど、

ちゃんと呼吸をしている。


「本当に……よかった」


サリスの手を、

強く握った。


その時。


「……マリス?」


さっきの女の子が、

もう一度呼んだ。


私は顔を上げる。


知らない人達。


三人とも、

戸惑ったようにこちらを見ている。


「……誰?」


思わず聞く。


女の子も、

困ったように口を開いた。


「あなたは……マリスでは、ないんですか?」


「マリス……?」


その名前を繰り返す。


もしかして。


「あなた達、

 エアの……」


「知ってるんですか!?」


女の子が、

すぐ近くまで来る。


顔が、

目の前にあった。


その時。


遠くから、

海全体を揺らすような低い音が届いた。


「……!」


窓を見る。


エア達がいる方角。


私は濡れた床を這うように進み、

窓際へ向かう。


尾が、

少しずつ足へ戻り始めていた。


けれど、

変わり切るのを待たず、

窓枠へ手を掛ける。


外を見る。


遠い。


海墓域の方角。


海全体が、

巨大な渦を巻いていた。


水が海底から立ち上がり、

一本の巨大な柱となっている。


その奥で。


赤い光が、

一瞬だけ弾けた。


「……」


息を呑む。


「あれ……何?」


巨大な渦を目で追う。


赤い光。


その周囲を巡る、

青い海流。


遠すぎて、

エア達がどうなっているのか分からない。


「エア……」


窓枠を握る指へ、

力が入る。


その時。


背後で、

扉が開いた。


「……マリエル?」


女の声。


聞いた瞬間、

身体が止まった。


忘れるはずがない。


七年経っても。


ずっと、

頭の奥へ残り続けていた声。


「……」


振り返れない。


心臓が、

大きく鳴った。


「マリエル……」


声が途切れる。


部屋が、

静まり返った。


後ろにいる知らない人達も。


咳き込んでいた仲間達も。


誰一人、

何も言わない。


「……マリエルなの?」


震えた声だった。


私は、

窓枠を握ったまま俯く。


顔を上げられない。


視線も、

向けられない。


逃げたいわけじゃない。


ずっと、

会いたかった。


何度も帰ろうと思った。


それなのに、

本当にその声を聞いた途端…。


振り返ることが…どうしようもなく怖くなった。


「……」


ゆっくりと、

身体だけを後ろへ向ける。


最初に見えたのは、

床へ伸びる青い衣だった。


その上。


胸元で強く握られた、

二つの手。


僅かに震えている。


顔までは、

見られなかった。


「本当に……」


掠れた声。


「本当に、

 マリエルなの……?」


「……うん」


それだけ答える。


声が、

上手く出なかった。


目は上げられない。


だから、

お母様がどんな顔をしているのかも分からない。


ただ、

浅く息を吸う音だけが聞こえた。


「生きて……」


声が詰まる。


「生きていたのね……」


「……」


何か言わないと。


そう思う。


でも、

言葉が出てこない。


謝りたい。


帰れなかったことも。

何も伝えなかったことも。


七年間、

ずっと心配させたことも。


全部。


それなのに、

最初に浮かんだのはあの日の言葉だった。


『あなたは王女です』


『王族には、

 果たすべき務めがあります』


胸が苦しくなる。


あれから七年も経ったのに、

あの日の声は今も残っている。


また、

同じことを言われたら。


そう思った瞬間、

足へ戻りかけていた身体が僅かに後ろへ下がった。


その動きに、

お母様の手が伸びかける。


けれど、

すぐに止まった。


「ごめんなさい」


突然だった。


「……え?」


思わず、

顔を上げる。


そこで初めて、

お母様の顔を真っ直ぐに見た。


記憶の中より、

少しだけ痩せている。


優しかった瞳は、

涙で滲んでいた。


頬には、

もう幾つもの雫が伝っている。


「あの日……」


震える声。


「あなたの話を、

 聞かなかった」


「……お母様」


「母親でいるべきだったのに」


お母様は、

何度も首を横に振った。


「私は、

 女王としてしか答えられなかった」


声が掠れる。


「あなたを追い詰めたのは、

 私です」


「違う……」


思わず、

言葉が出た。


お母様が、

顔を上げる。


「違うよ……」


喉が詰まる。


「私も、

 勝手だった…」


地上へ行きたかった。


自分の人生を、

自分で決めたかった。


その気持ちは、

今も変わらない。


だから、

あの時の自分が全部間違っていたとは思わない。


でも。


何も言わず、

一人で消えた。


残された人達が、

どうなるのかも考えずに。


七年もの間、

何も伝えなかった。


それは、

私が選んだことだ。


「私も……」


声が震える。


「お母様なんて嫌いって言った…」


「……」


「本当は…、

 嫌いじゃなかったのに…」


視界が滲む。


今度は、

私の頬にも涙が伝った。


「ずっと……」


息を吸う。


胸の奥に押し込めていた言葉を、

今度こそ飲み込まないように。


「ずっと…、

 帰りたかった…」


お母様の表情が、

崩れた。


「マリエル……」


今度は、

止まらなかった。


足へ戻り切っていない身体のまま、

濡れた床へ手をつき、

お母様へ近付く。


向こうからも、

同時に手が伸びた。


身体を、

強く抱き締められる。


「……っ」


懐かしい。


匂いも。


腕の温かさも。


身体を包まれる感覚も。


小さい頃。


眠る前に、

何度も抱き締めてもらった時と同じだった。


七年離れていても、

身体は覚えていた。


「ごめんなさい……マリエル」


耳元で、

震える声が繰り返される。


「…おかえりなさい」


「っ…お母様」


腕を回す。


強く。


離れないように。


「ごめんなさい……お母様」


涙が止まらない。


七年間、

言えなかった言葉が、

次々と胸の奥から溢れてくる。


けれど、

どれも声にはならなかった。


今は、

それでよかった。


ただ、

互いに抱き締めたまま。


何度も。


互いの名を呼び続けた。

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