第255話:流れる火
穂先で迫る触手を裂き。
返した柄で、
別の一本を弾き飛ばす。
だが。
一本落とせば、
その隙間から二本が伸びる。
終わりが見えない。
海王鯨は。
もう、
ほとんど動けなくなっていた。
全身へ巻き付いた触手が。
巨大な身体を、
少しずつ締め上げている。
青い紋様も。
ところどころ、
光を失い始めていた。
「毒が……」
歯を食いしばる。
海王鯨だけじゃない。
近衛達も、
触手の棘を受け。
次々と、
動きが鈍くなっている。
「隊列を崩すな!」
声を張る。
返ってくる声は少なかった。
状況は悪い。
皆、精一杯だ。
「父上!
このままでは!!」
カイルの声。
振り向く。
前へ、
出過ぎている。
その下。
海底の岩陰から。
黒い触手が、
音もなく伸びていた。
「カイル!!」
叫ぶ。
間に合わない。
触手が。
一斉に、
弾けるように広がった。
まとめて締め上げようと、
襲い掛かる。
その瞬間だった。
―――ゴォォォォォ……。
海が、鳴った。
「……?」
違う。
海そのものが、
流れを変えた。
海底。
さらに、
その下から。
暗い水の中へ。
青い光が、
ゆっくりと広がっていく。
誰も、
動かなかった。
いや。
何が起きているのか分からず、
動けなかった。
青い光が、
渦を描く。
周囲の海流が。
一つ。
また一つと、
そこへ集まっていく。
幾重もの流れが重なり。
形を作っていく。
やがて。
それは、
巨大な一頭の竜になった。
「……何だ」
誰かが息を呑む。
水だけじゃない。
荒れ狂う海流の奥。
その中心で。
赤い光が、鼓動するように。
脈打っていた。
水の竜は、
一声も上げない。
ただ。
真っ直ぐ。
あの化け物へ、
駆けた。
―――ザァァァァァッ!!
触手へ喰らい付く。
牙ではない。
押し寄せる激流そのものが。
黒い触手を、
引き裂いていく。
一本。
二本。
そのまま、
何本も。
切断された触手が。
水の中へ、
散っていった。
「嘘だろ……」
近衛の一人が、
呟く。
紫黒い怪物が。
初めて、
大きく身を震わせた。
カイルへ迫っていた触手も。
激流に巻き込まれ、
まとめて引き千切られる。
「助かった……?」
カイルが、
呆然と前を見る。
俺も。
水竜の向こうへ、
目を凝らした。
そこに。
一人の男がいた。
腕の中へ、
マリスを抱いたまま。
静かに。
海中へ、
浮かんでいる。
「……あれは…エアか?」
思わず
名が漏れた。
その身を見た瞬間。
息を呑む。
腕から、
首へ。
胸から、
頬へ。
濃い青の紋様が。
煌々と、
浮かび上がっていた。
ネレイディアの持つ、
波の紋様にも似ている。
だが、違う。
もっと古く。
もっと深い。
模様というより。
海そのものの流れが、
身体へ刻まれているようだった。
「エア……」
槍を握ったまま。
俺は、ただ。
その男を見ていた。
そして、
エアの瞳が。
ゆっくりと、
開いた。
ーーーーー
静かな海だった。
『止めようとしなくていい』
すぐそばで、
ネレイアの声が響いている。
『水は、押さえ込むものじゃない』
青い流れが。
俺の指先を、
包んだ。
『流すの』
ゆっくり。
本当に、
ゆっくりと。
一滴の雫が。
岩の上を、
伝っていくように。
『熱も』
『痛みも』
『毒も』
優しい声が続く。
『全部、流れる場所がある』
俺は、
目を閉じたまま。
腕の中のマリスへ、
意識を向ける。
身体の中。
黒い毒が見える。
血だけじゃない。
マリスの中を巡る、水。
その流れそのものへ、
黒いものが染み込んでいた。
『見えるでしょう?』
「ああ」
『なら、大丈夫』
ネレイアが、
すぐ近くで笑ったような気がした。
『あなたなら出来る』
俺は。
マリスの胸元へ、
そっと手を重ねた。
自分の中にある、流れ。
熱を巡らせ、
力を運び。
ずっと、
俺の身体を支えていたもの。
それを。
マリスの中の流れへ、
静かに繋ぐ。
青い光が。
触れた場所から、
身体の奥へ広がっていった。
黒い毒へ、
触れる。
押さえ込まない。
焼かない。
追い詰めない。
ただ。
流す。
「……」
黒い筋が。
少しずつ、
ほどけ始めた。
体の奥へ入り込んでいた毒が、
流れに押されるのではなく。
行き場を与えられるように。
傷口へ向かい、外へ。
黒いものが、
細い筋となって海中へ抜けていく。
一つ。
また一つ。
マリスの水紋様から、
黒ずみが消えていった。
「……」
呼吸が僅かに深くなる。
青黒かった頬に、
少しずつ色が戻っていく。
そこで初めて。
俺は、
火を灯した。
焼くためじゃない。
失いかけていた熱を。
もう一度。
身体の奥へ、
戻すために。
小さな火を。
胸の奥へ、
そっと繋ぐ。
どくん。
「……」
小さく。
心臓が跳ねた。
どくん。
もう一度。
マリスの胸が。
ゆっくりと、
上下する。
「……っ」
細い睫毛が、
震えた。
ゆっくり。
瞳が、開く。
焦点の合わない目が。
ぼんやりと、
俺を見上げた。
「……エア?」
掠れた、
声だった。
「マリス」
「それ……」
細い指が、
持ち上がる。
俺の頬へ。
そっと、
触れた。
浮かんでいる青い紋様を。
確かめるように、
なぞっていく。
「……綺麗」
小さく。
本当に小さく、
呟いた。
「海みたい……」
「……」
何も、返せなかった。
ただ。
その手を、
そっと握る。
そして。
「……おかえり」
マリスの瞳が。
僅かに、
細くなった。
そのまま。
安心したように、
もう一度目を閉じる。
今度は。
呼吸が、
聞こえていた。
静かな、
寝息。
「……」
海が。
もう、
重くなかった。
流れが分かる。
どこから来て、
どこへ向かうのか。
どこでぶつかり、
どこへ逃がせばいいのか。
今まで、
ただ周りにあった海が。
一つ一つの流れとして、
身体へ伝わってくる。
俺は、
腕の中を見る。
眠るような穏やかな顔。
もう。
黒い毒は、
残っていない。
その時だった。
―――ギィィィィィィィィィィッ!!
海底を裂くような、
嫌な咆哮。
顔を上げる。
底殻の中から現れた、
紫黒い怪物。
その全身を覆う影が。
怒り狂ったように、
激しく蠢いていた。
焼かれた触手が、
再び膨れ上がる。
潰れた眼。
焼け焦げた肉。
それら全てが、
ぶくぶくと形を作り直していく。
そして。
無数の眼が。
一斉に、
俺だけを見た。
―――ゴバァァァァァァッ!!
触手が。
海を埋め尽くすほど、
一斉に伸びた。
何十。
何百。
アーダ達ごと飲み込む勢いで。
こちらへ、
押し寄せてくる。
「エア!!」
遠くから、
声が聞こえる。
俺は、
動かなかった。
腕の中のマリスを。
岩陰へ、
そっと預ける。
そして。
右手を、
静かに横へ伸ばした。
呼ぶ必要は、
なかった。
もう。
分かっている。
背後。
巨大な水竜が、
身体をうねらせる。
その流れの中から。
一本の槍が。
吸い寄せられるように、
俺の手へ飛び込んできた。
柄を握る。
その瞬間。
水竜の身体が、
崩れた。
激流へ戻り。
槍の周囲へ、
一気に集まっていく。
青い光が槍を包む。
その中心へ。
俺の火が、重なった。
赤い火。
槍の芯を通るように、
一本の筋となって走る。
水は、
消えない。
火も、
消えない。
どちらかが、
どちらかを押さえ込むわけでもない。
流れの中を。
火が、
走っている。
火の熱を。
水が、
次へ運んでいく。
腕に浮かんだ紋様が、
さらに青く輝いた。
その隙間を。
赤い火が、
脈打つように巡っていく。
青。
赤。
二つの光が。
一つの流れとなって、
身体を巡っていた。
―――ギィィィィィィィィィィッ!!
怪物が吼える。
触手が迫る。
俺は。
槍を、
後ろへ引いた。
静かに。
流れを見る。
そして。
一歩。
海を、
踏み込む。
「……行け」
投げた。
―――ドォォォォォォンッ!!
槍が海を、
一直線に裂いた。
その軌跡へ。
周囲の海流が、
一気に集まる。
巨大な水竜が、再び姿を現した。
槍を中心に。
海そのものを纏いながら。
紫黒い怪物へ、
一直線に駆ける。
次の瞬間。
その中心が。
赤く、
染まった。
―――ゴォォォォォォォォッ!!
炎。
水竜の内側を、
巨大な火竜が駆け抜けた。
けれど。
水を突き破って、
別のものになるわけじゃない。
火の周囲を、
激流が牙のように渦巻く。
赤い竜を。
青い流れが、
さらに加速させていく。
火と水。
二頭じゃない。
一つの流れだった。
―――ギィィィィィィィィィィッ!!
竜が怪物へ、
喰らい付いた。
そのまま。
激流ごと。
巨大な肉塊を、
押し流していく。
海墓域の奥へ。
怪物が暴れ、
無数の触手を伸ばす。
けれど、
触手が流れへ触れるたび。
荒れ狂う海水が、
巻き付いた。
捻り。
引き。
一本残らず、
根元から引き千切っていく。
―――ゴゴゴゴゴゴゴ……!!
海底全体が、
震えた。
さらに。
周囲の流れが、
集まっていく。
一つ。
二つ。
幾重にも、
巨大な渦が形を作る。
今度は一本の竜巻となって、
上へ伸びていった。
怪物がその中心へ、
飲み込まれる。
轟音。
白い泡。
赤い火。
青い海。
全てが。
巨大な渦の中で、
巡っていた。
誰一人。
声を、
出していない。
しばらく。
何も、
見えなかった。
荒れ狂う水。
舞い上がる砂。
砕けた殻の残骸。
その全部が。
巨大な渦の中を、
回り続ける。
「……」
俺は。
右手を伸ばしたまま、
遠くを見る。
槍の感触は。
もう、
手の中にはない。
それでも。
どこにあるのかは、
分かっていた。
渦の中心。
赤い火が。
まだ、
燃えている。
―――ギィィィィィ……。
遠くから。
弱い声が、
聞こえる。
さっきまで。
海底を震わせていた、
あの怪物の声。
今は、
流れへ飲まれ。
細く、途切れかけていた。
黒い触手が。
渦の外へ、
逃れようと伸びる。
一本。
また一本。
けれど、そのたび。
激流が、巻き付く。
根元から、引き千切る。
潰れた眼が開いた。
無数の眼が、
最後まで。
俺を、
見ていた。
「……」
流れの中心。
火竜が。
ゆっくりと、
顎へ力を込める。
―――ゴォォォォォォォォッ!!
赤い火が。
紫黒い肉塊の内側へ、
一気に流れ込んだ。
影が膨れ上がる。
身体の奥から。
一つ。
赤い亀裂が、
走った。
さらに。
二つ。
三つ。
瞬く間に。
無数の亀裂が、
全身へ広がっていく。
―――ギィィィィィィィィィィッ!!
最後の悲鳴。
そして。
―――ドォォォォォォォォォンッ!!
黒い本体が。
内側から、
弾け飛んだ。
海が、
白く染まる。
泡。
熱。
細かく砕けた、
黒い欠片。
それら全てが。
渦の中へ、
散っていった。
けれど。
一つとして。
元の形へ、
戻らない。
赤い火が。
細かな欠片まで、
焼いていく。
青い流れが。
残った黒を。
さらに深い海墓域の奥へ、
運んでいく。
やがて、
渦の中心から。
一本の槍が戻ってきた。
手を伸ばす。
柄が、手へ収まる。
「……」
青い光が、
静かに消えていく。
赤い火も。
槍の中へ、
戻っていった。
そして。
影は、
一片も残さず。
海の中から…消えた。
「……」
渦が少しずつ弱くなる。
荒れていた海流が時間を掛けて、
元の流れへ戻っていく。
舞い上がっていた砂が沈み、
白く濁っていた視界が。
少しずつ、
開けていった。
その先に。
もう。
底殻の姿は、
なかった。
残っているのは。
砕けた、
古い殻の破片だけだった。




