第254話:届かない火
腕の中のマリスを、
近くの岩場へ下ろす。
「平気か?」
「……うん」
マリスが短く頷く。
大丈夫そうだ。
俺は前を見る。
正面には巨大な貝。
マリエルが言っていた底殻。
海王鯨の体当たりで、
大きく弾き飛ばされた巨体は。
それでも、
まだ動いていた。
―――コォォォォォォォォン!!
再び、
海王鯨が低く鳴く。
青い巨体が、
大きく旋回した。
向きを変え、
セルネレイアを背にする。
「……押し返す気か」
次の瞬間。
―――ドォォォォォンッ!!!
二度目の体当たり。
底殻の巨体が、
海底を転がった。
岩を砕き。
砂煙を巻き上げながら、
海墓域の方角へ押し戻されていく。
底殻は。
次の一撃が来る前に体勢を戻そうと、
何本もの触手を海底へ伸ばした。
「起き上がらせるな!!」
アーダが叫ぶ。
近衛達も、
一斉に槍を構えた。
触手を切り払いながら。
海王鯨と共に、
底殻を追う。
「このまま海墓域まで戻せ!」
「城下から離すんだ!」
海王鯨が、
再び旋回する。
―――コォォォォォォォォン!!
そして。
―――ドゴォォォォォォンッ!!!
三度目。
巨大な体当たり。
底殻が、
また大きく転がった。
「効いてる!」
「さすが海王鯨だ!」
近衛達から、
歓声が上がる。
セルネレイアから。
少しずつ。
少しずつ。
底殻が、
離れていく。
「このまま押し切れる!」
近衛達の顔にも、
希望が戻り始めていた。
海王鯨の背では。
マリエルも、
剣を握ったまま前を見据えている。
「もう少し……!」
海王鯨が、
再び大きく旋回した。
四度目の突撃。
青い巨体が、
一直線に加速する。
だが。
その時だった。
―――……ピシッ。
小さな音。
「……?」
俺は目を細める。
底殻の表面。
分厚い殻、そこに。
一本。
黒い亀裂が、
走っていた。
「殻が……?」
次の瞬間。
―――バギィィィィィィッ!!!
亀裂が。
一気に、
殻全体へ広がった。
「下がれ!!」
叫ぶ。
だが。
間に合わない。
―――ゴバァァァァァァッ!!
殻が。
内側から、
弾け飛んだ。
巨大な破片が、
四方へ飛び散る。
その奥から。
黒いものが。
ゆっくりと、
姿を現した。
「…………」
誰も、
声を出せなかった。
俺達が底殻だと思っていた、
巨大な殻。
その内側に潜んでいたものが…、
…姿を現した。
紫黒い、
巨大な肉塊。
表面には、
無数の眼。
そこから…。
何本もの触腕が、
蠢きながら伸びている。
そして。
その全身へ絡み付くように。
黒い影が、
脈打っていた。
「何だ……あれ」
レギスが息を呑む。
マリスも。
顔色を変え、
その姿を見ていた。
「違う……」
小さく呟く。
「あれが……中にいた……」
次の瞬間。
無数の眼が、一斉に開いた。
ぞろりと。
全ての瞳が、
海王鯨だけを見た。
―――コォォォォォォォォン!!
だが、
海王鯨は怯まない。
巨大な尾で水を押し。
そのまま、
正面から突っ込んでいく。
紫黒い肉塊から。
黒い触腕が、
一斉に伸びた。
一本。
二本。
十本。
さらに。
何十本。
海王鯨の身体へ、
次々と絡み付く。
「なっ……!」
青い巨体が。
海の中で、
ぴたりと止まった。
尾が動かない。
胸びれも。
何重もの触腕に、
締め上げられている。
―――コォォォォォォォッ!!
苦しそうな鳴き声。
触腕が、
さらに深く食い込んでいく。
全身の紋様が、
激しく明滅した。
青い光が。
少しずつ、
弱くなっていく。
「まずい……!」
紫黒い怪物は。
海王鯨を拘束したまま、ゆっくりと。
無数の眼をこちらへ向けた。
その瞬間。
海底全体へ。
ぞっとするような気配が、
静かに広がった。
ーーーーー
海王鯨の背。
私は剣を握り直す。
黒い触手が、
四方から押し寄せていた。
「サリス!」
「分かってる!」
サリスが、
短杖を掲げる。
「――燃えさかれ!」
火球が大量の泡をまといながら、
触手へ飛ぶ。
―――ボゴッ!!
黒い表面が焼けた。
けれど、
その隙間から。
新しい触手が、
また這い出してくる。
「きりがない……!」
私は剣を振るう。
一閃。
二閃。
迫る触手を、
次々と断ち切る。
「……右!」
背後から、
知らない声が飛んできた。
振り返らない。
言われた通り。
右へ、
剣を流す。
―――ザンッ!!
飛び掛かってきた触手が、
途中から裂けた。
「……危ない!」
今度は。
白銀の槍が、
私の横を走る。
海王鯨の背を這うように迫っていた触手を、
正面から貫いた。
「……前!」
一歩、
踏み込む。
剣を振るう。
正面から来た触手を、
まとめて斬り飛ばした。
気付けば。
私とあの子は、
背中合わせになっていた。
互いの顔を、
見る暇もない。
「へぇ……」
剣を返す。
「あなたが……」
また一本、
触手を斬る。
「左、お願い!」
「……分かった!」
白銀の槍へ。
白い火が、
灯った。
―――ドッ!!
突き出された一撃が。
左から迫っていた触手の束へ、
深く食い込む。
白火が、内側から走った。
―――ボゴォッ!!
黒いものが水中へ散る。
海王鯨が、弱く鳴いた。
―――コォォォォォ……。
「あぁ、もう!」
サリスが、
声を上げる。
「まだ巻き付いてる!」
海王鯨の胴体。
太い触手が。
何重にも、
絡み付いていた。
「全部、切ればいいんでしょ!」
私は、
海王鯨の背を蹴る。
その瞬間。
一本だけ。
細い触手が。
サリスの死角から、
伸びてきた。
「サリス!」
まずい。
私は別の触手を、
受け止めている。
間に合わない。
その前へ。
あの子が、
飛び込んだ。
白銀の槍を、
横へ構える。
―――ガンッ!!
触手を、
受け止めた。
だが。
その側面から。
針のように細い棘が、
何本も伸びた。
―――ブシュッ。
「っ……!」
一本が。
あの子の腹部へ、
突き刺さる。
「マリス!」
あの子――マリスは。
すぐに触手を、
切り払った。
片手で、
腹部を押さえる。
傷口の周囲が。
僅かに、
黒ずんでいた。
「平気……!」
顔をしかめながら。
それでも、
槍を構え直す。
「まだ……、
動ける……!」
その時だった。
海王鯨の紋様が。
大きく、
明滅した。
青い光が。
急速に、
弱まっていく。
―――コォォォォォ……。
苦しげな鳴き声が。
海底へ、
低く響いた。
ーーーーー
俺達も。
マリス達を追って、
戦線へ飛び込んだ。
「おどきなぁさぁあああい!!」
ダルーの大剣が、
唸る。
―――ザァァァンッ!!
迫ってきた触手を。
まとめて、
叩き斬った。
「まったく!。
レギスちゃん!!」
「分かってる!」
レギスが、
杖を突き出す。
「焼き尽くせ!、
炎斬!!」
杖の先から。
炎の刃が、
一直線に走った。
―――ゴォォッ!!
ダルーが切り開いた先を。
炎が、
さらに焼き払う。
黒い触手が。
次々と、
崩れ落ちた。
「エア!」
「ああ!」
俺は、
踏み込む。
赤い火を纏った槍が。
一直線に、
走る。
一突き。
二突き。
触手を、
次々と貫く。
そのまま。
内部へ、
火を流し込む。
「邪魔だ!」
槍を、
大きく薙いだ。
赤い炎が。
水の中を、
横へ裂く。
焼けた触手が。
次々と、
崩れていく。
さらに。
槍から生まれた火竜が。
俺の周囲を、
大きく駆け巡った。
海中とは思えない勢いで。
黒い触手へ、
喰らい付く。
「すげぇ……!」
レギスが、
息を呑む。
「あらやだ、
かっこいいじゃない!」
ダルーも、
笑う。
俺達は。
そのまま、
海王鯨へ向かって道を切り開いた。
前では。
マリエル達も、
まだ戦っている。
触手は多い。
それでも。
こっちと挟めば――。
その時だった。
―――コォォォォォォ……。
海王鯨の鳴き声が。
急に、
弱くなった。
「……?」
同時に。
胸が、
詰まる。
「っ……!」
息が、吸えない。
俺達の身体を包んでいた、
海王鯨の加護。
薄い膜のような感覚が。
急速に、
弱くなっていく。
火竜が、
一瞬揺らいだ。
レギスも。
「な、何だ……?」
杖を、
落としかける。
ダルーも。
突然、
胸を押さえた。
「苦し……っ!」
水が。
急に、
重くなった。
いや。
違う。
「海王鯨の……、
加護が……!」
青い紋様が。
ゆっくりと、
消え始めていた。
「……っ」
息が、
入らない。
胸の奥へ。
口を閉じる。
それでも、
海の重さがのしかかる。
息が続かず、
体から力が抜けていく。
火竜の輪郭も、
崩れ始めた。
赤い顎が揺らぎ。
長い胴体が。
水の中へ、
散っていく。
「くそっ……!」
レギスが、
胸元を押さえる。
杖を握っていた指から、
力が抜けた。
「息が……できねぇ……」
ダルーも。
大剣を海底へ突き立て。
その柄へ、
身体を預けている。
「この子……限界よ……」
視線の先。
海王鯨へ絡み付いた触手が。
さらに、
深く食い込んでいた。
締め付けられた場所から。
紫黒い色が。
青い身体へ、
滲むように広がっている。
「……毒か」
あの色。
俺も、
受けた。
海王鯨の紋様が消えているのは、
ただ力を奪われているだけじゃない。
毒が。
巨大な身体へ、
回り始めている。
「エア……!」
マリスの声。
顔を向ける。
海王鯨の背。
マリエルと背中を合わせ。
触手を、
切り払っている。
だが。
マリスの動きが。
さっきより、
明らかに遅い。
白銀の槍を振るうたび。
身体が、
僅かに傾いていた。
「……っ」
腹部へ。
片手を、
当てている。
指の隙間から。
黒いものが。
水へ、
滲んでいた。
「マリス!」
声を上げる。
死角から。
触手が、
伸びていた。
「上だ!」
そこへ。
マリエルが、
割り込む。
剣を振るう。
一本は、
切った。
だが。
今度は、
下から。
さらに、
二本。
マリスの腕へ。
尾へ。
一気に、
巻き付いた。
「……っ!?」
白銀の槍が。
手から、
離れかける。
次の瞬間。
触手の表面から。
細い棘が、
次々と伸びた。
マリスの肌へ、
突き刺さる。
「マリス!?」
マリエルが。
剣を返しながら、
追おうとする。
だが。
その背後。
「……っ」
サリスが。
胸を押さえたまま、
崩れ落ちた。
短杖が。
海王鯨の背を、
滑っていく。
「サリス!」
マリエルの身体が、
止まる。
マリス。
サリス。
一瞬。
本当に、
一瞬だけ。
どちらへ行くのか、
迷った。
「俺が行く!!」
「でも!」
「お前はサリスと、
あいつらを頼む!」
マリエルが、
歯を食いしばる。
そして、サリスを抱き上げた。
さらに。
海底へ沈みかけている、
レギスとダルーへ。
水の流れを、
伸ばす。
二人の身体を引き寄せ。
そのまま。
まとめて、
城の方角へ向きを変えた。
「絶対、戻るから!!」
その声を背に。
俺は、
マリスを見る。
触手が、
マリスの身体を持ち上げていた。
そのまま。
紫黒い怪物の方へ、
引き寄せ始める。
「……マリス!!!」
槍を、
握り締める。
息が、
苦しい。
身体も、
重い。
それでも。
足元へ、
火を集める。
爆ぜさせる。
―――ゴォッ!!
水が、
弾けた。
前へ出る。
もう一度。
―――ゴォッ!!
さらに前へ。
火を噴くたび。
肺の奥が、
潰れそうになる。
息がない。
視界も、
暗い。
それでも。
マリスだけを、
見る。
黒い触手に捕まり。
力なく。
本体へ、
運ばれていく。
「離せ……!」
槍を振るう。
赤い火が。
触手を、
焼いた。
一本。
二本。
腕へ絡んでいたものが、
落ちる。
さらに、
踏み込む。
尾へ巻き付いた触手へ。
槍を、
突き立てた。
「返せって……」
火を流す。
「言ってんだよ!!」
―――ゴォォォォッ!!
黒い影が。
触手の内側から、
燃え上がった。
触手が、
激しく痙攣する。
そして。
マリスの身体が、
水中へ投げ出された。
槍を離す。
両腕を、
伸ばす。
「マリス!」
抱き止める。
軽い。
力がない。
腕も。
尾も。
俺へ預けられたまま、
動かなかった。
「マリス!?」
返事がない。
近くの岩陰へ、
飛び込む。
背中を岩へ預け。
腕の中を見る。
顔色が、
悪い。
白かった肌が。
僅かに、
青黒くなっている。
腹部。
腕。
尾。
棘が刺さった場所から。
黒い筋が。
淡い水紋様へ沿うように、
広がっていた。
「……マリス」
頬へ触れる。
冷たい。
呼吸は。
ある。
…けれど。
弱い。
「おい……」
肩を揺らす。
反応がない。
俺は胸元へ、
手を当てた。
火を、
小さく灯す。
「頼む……」
弱った身体へ。
少しでも熱を、
戻そうとする。
けれど。
黒い筋は、
止まらない。
それどころか。
火を流した場所から逃げるように。
黒いものが。
さらに深く、
身体へ広がっていく。
「違う……」
すぐに、
火を弱める。
それでも。
止まらない。
毒は。
血だけを、
巡っているんじゃない。
マリスの中にある水。
その流れにまで入り込み。
身体中へ、
広がっている。
これ以上。
俺の火を、
入れれば。
毒だけじゃない。
マリスまで、
焼く。
「……クソ」
黒い筋が、
止まらない。
「消えるな……」
返事はない。
火では、
助けられない。
土も。
槍も。
何も。
届かない。
「……またか」
小さく、
声が漏れた。
また。
俺の腕の中だ。
消えていく命。
ルゥ。
あの時も。
一度、
マリスを失いかけた時も。
俺は。
腕の中にいる一人を前にして。
何も、
できなかった。
「何が絶対神だ……」
笑いそうになった。
神話になった。
神と呼ばれた。
火の始まりだと、
語られた。
そんなもの。
全部。
何の役にも立たない。
腕の中の一人すら。
…守れない。
「こんな力があっても……」
拳が震える。
火がある。
槍もある。
今なら。
昔より、
ずっと強い。
それでも。
届かない。
「また……」
喉が、
詰まる。
「また俺は……」
その時だった。
海が。
僅かに、
揺れた。
『……違うよ』
「……?」
俺は、
顔を上げる。
誰も、
いない。
けれど。
その声だけは。
はっきりと、
聞こえた。




