第253話:王女の帰還
―――ゴォォォォォォォォッ!!
海が。
底殻へ向かって、
一気に流れ始めた。
「っ……!」
体が強く引かれる。
尾で水を押す、けれど。
押した先の水まで、
底殻へ吸い込まれていく。
「岩に掴まれ!」
アーダが叫んだ。
近衛達が、
一斉に海底へ槍を突き立てる。
岩へ。
割れた地面へ。
掴めるものへ必死に身体を固定する。
だが、
吸引は止まらない。
砂が舞い、
砕けた岩が転がる。
「ぐっ……!」
一人の近衛が、
岩へ爪を立てた。
腕が震える。
少しずつ。
少しずつ。
体が岩から引き剥がされていく。
「誰か!」
隣の近衛が、
その腕を掴む。
もう一人も加わる。
三人で、
引く。
それでも。
「駄目だ!」
掴んでいた岩肌が、
砕けた。
「うわぁぁぁぁ!!」
三人まとめて、
流れへ放り出される。
私は槍を伸ばした。
届かない。
三人の姿が。
黒い穴へ。
一瞬で、
飲み込まれた。
「……っ」
息が止まる。
助けられなかった。
その間にも。
吸引は、
さらに強くなる。
「全員離れろ!」
アーダが叫ぶ。
「底殻から距離を取れ!」
けれど。
もう遅い。
海そのものが、
底殻へ向かって流れている。
逃げようとしても。
泳ぐほどに、
吸い寄せられる。
「父上!」
カイルが叫んだ。
大きな岩へ槍を突き立て。
必死に、
耐えている。
アーダも。
尾を岩へ巻き付け、
身体を固定していた。
近衛達も、
同じだった。
誰も動けない。
動けば。
そのまま、飲まれる。
「……!」
視界の端。
一人の近衛が、
岩から離れた。
「うぁあああ!いやだぁあああ!」
底殻の吸引に、引き剥がされた。
考えるより、
先だった。
私は、
尾を返す。
「ッ!?、マリス様!?」
流れへ逆らい、
その人へ向かう。
「マリス!!よせ!」
アーダの声。
それでも、
手を伸ばした。
指先が、
届く。
腕を掴む。
「離さない……!」
白銀の槍を、
海底へ突き立てた。
穂先が、
岩へ食い込む。
止まる。
そう思った。
―――バキッ。
岩が砕けた。
「……!」
槍ごと体が浮く。
咄嗟に、
掴んでいた近衛を後ろへ投げた。
「受けろ!」
別の近衛が、
その身体を受け止める。
でも。
今度は。
私だけが、
底殻へ引かれた。
「マリス!!!」
アーダが叫ぶ。
伸ばされた手。
届かない。
体はどんどん、
黒い穴へ近付いていく。
殻の奥。
暗い。
何も、
見えない。
だが、その奥で。
黒い影が、
脈打っていた。
何層もの膜が。
呼吸するみたいに、
開いては閉じている。
そこへ。
岩が。
瓦礫が。
次々と、
飲み込まれていく。
砕ける音。
潰れる音。
何もかもが。
あの中で、
形を失っていた。
「……っ!」
尾を返す。
水を押す。
でも。
流れが、
強すぎる。
進めない。
白銀の槍へ、
白火を流す。
何かへ、
突き立てようとする。
けれど。
狙いが、
定まらない。
どこへ刺しても、すぐに崩れる。
吸い込まれる流れに、
体ごと振り回される。
その時。
黒い触手が、
殻の奥から伸びた。
そして、尾へ巻き付く。
「っ……!」
さらに一本。
腕へ。
腰へ。
身体へ絡み付き。
底殻の口へ、
引き寄せていく。
『マリス!!』
ルクナスの声。
『まずい!!』
分かってる、
このままじゃ。
…戻れない。
さっき、
約束したばかりなのに。
「帰るって……」
触手を、
槍で押し返す。
「約束したのに……」
その時だった。
―――コォォォォォォォォォン!!!
海を震わせる…、
…巨大な鳴き声。
「……?」
青い光が。
視界の横を、
一瞬で駆け抜けた。
次の瞬間。
―――ドゴォォォォォォォォォンッ!!!
山と山が。
正面から、
ぶつかったような衝撃。
海全体が、
揺れた。
底殻の巨体が。
横へ、
大きく弾かれる。
吸い込む流れが、
一瞬で乱れた。
巻き付いていた触手も。
何本かが、
衝撃で千切れ飛ぶ。
「……っ!」
私の身体も。
そのまま、
勢いよく弾き飛ばされた。
水の中を、
転がる。
一度。
二度。
何度も、
視界が回る。
その先で。
誰かに、
腕を掴まれた。
「マリス!無事か?」
聞き覚えのある、声。
顔を上げる。
赤い火が。
水の中で、
赤々と燃えていた。
「……エア?」
ーーーーー
海王鯨は。
滑るように、
海の中を進んでいた。
セルネレイア。
もう、
目の前だ。
「……」
最初に違和感を覚えたのは、
海の流れだった。
…おかしい。
海王鯨ほどの巨体が、
前へ進んでいるのに。
正面から受けるはずの水が、
ほとんど来ない。
それどころか。
周囲の海水が。
俺達の方向へ、
強く引かれている。
「何だ、この流れ……」
レギスでも気がついた。
透明な膜の外へ、
目を凝らす。
サリスも。
必死に泳ぐ魚達を、
目で追った。
「全部、
泳いでるのに……」
顔を強張らせる。
「引かれてる?」
俺も、
前を見る。
街の外れ。
建物の向こう。
山のような巨体が、
ゆっくりと蠢いていた。
「あれって……」
マリエルの顔が、
強張る。
「底殻?」
少しだけ、
声が低くなる。
「なんで……、
こんな所に……」
次の瞬間。
その目が、
大きく見開かれた。
「お父様!」
視線の先。
巨大な岩へしがみ付き。
必死に流れへ耐えている、
アーダ達が見え始めた。
「カイル!!」
カイルもいる。
近衛達も。
皆。
底殻へ吸い込まれまいと、
必死に耐えていた。
俺は槍を握る。
火を、
穂先へ宿す。
レギスも。
すぐに腰の剣へ手を掛け、
反対の手で杖を握る。
「おい!いけ!さっさと近付くぞ!」
「ちょっと、
待ちなさいって!」
サリスが、
底殻の周囲を見る。
「今飛び込んだら、
私たちまで吸われるって!」
「ちっ!」
ダルーも。
背負った大剣へ、
手を掛けた。
「だけど、話してる暇は、
なさそうねぇ……」
マリエルが。
海王鯨の背から、
飛び出そうとする。
その腕を。
ダルーが、
すぐに掴んだ。
「離して!」
「だからって、今出たら、
あんたも吸われるわよ!」
「でも!お父様達が!」
「だからよ!」
槍の火を、強める。
なら。
俺が先に出る。
そう思い。
身体を、
前へ傾けた。
その時だった。
―――コォォォォォォォォン!!
海王鯨が、
大きく鳴いた。
「……?」
動きを、
止める。
マリエルだけが。
はっと、
目を見開いた。
海王鯨を、
見下ろす。
「……え?」
しばらく。
何かを聞くように、
その鳴き声へ耳を傾ける。
次の瞬間。
「捕まって!」
「え?」
「みんな!
捕まって!!」
「今度は何だよ!?」
レギスが叫ぶ。
「いいから早く!」
何が起きるのか。
聞いている暇も、
なさそうだった。
ダルーが。
マリエルとサリスを、
両腕で抱え込む。
レギスも。
海王鯨の背へ、
しがみ付いた。
俺も。
槍を握ったまま、
身体を低くする。
次の瞬間。
海王鯨の紋様が。
一斉に、
青く輝いた。
巨大な尾が。
海を、
大きく叩く。
―――ドンッ!!
「っ……!」
身体が、
後ろへ持っていかれる。
「速すぎるだろ!!」
レギスの声が、
響いた。
景色が遠のく。
違う。
海王鯨が。
周囲の景色が形を失うほどの勢いで、
加速している。
一直線。
底殻へ向かって。
「離すんじゃないわよ!」
ダルーの声。
山のような底殻が。
一気に、
目の前へ迫る。
そして。
―――ドゴォォォォォォォォォンッ!!!
海王鯨と底殻が。
真正面から、
ぶつかった。
海全体が、
大きく揺れる。
山のような巨体が。
横へ、
弾き飛ばされた。
千切れた触手が、
四方へ飛び散る。
「……!」
その中に。
一つ。
見覚えのあるものが、
あった。
青い尾。
白銀の槍。
「マリス!」
考えるより、
早かった。
俺は。
海王鯨の背を、
蹴った。
吹き飛ばされるマリスの軌道へ、
そのまま飛び込む。
次の瞬間。
腕の中へ。
軽い身体が、
飛び込んできた。
「マリス!無事か?」
強く、
抱き止める。
その勢いのまま。
水の中を、
滑っていく。
「……エア?」
俺達の周囲へ。
赤い火を、
一気に広げる。
押し寄せる水を押し退け。
身体へ掛かる流れを、
散らしていく。
「怪我は?」
「うん……」
マリスが、
短く頷く。
「大丈夫……」
「そうか」
その直後。
―――コォォォォォォォォン!!
海王鯨が、
もう一度大きく鳴いた。
「もう!無茶しすぎよぉ!」
「まだ突っ込む気か!?」
声へ顔を向ける。
海王鯨の衝突に合わせ。
ダルーとレギスも、
既にその背から水中へ出ていた。
二人は流れに耐えながら。
再び旋回していく、
海王鯨を見上げている。
巨大な青い身体が。
底殻から距離を取りながら、
大きく弧を描いた。
もう一度。
体当たりするつもりらしい。
「……」
俺も、
その動きを目で追う。
海王鯨の背。
サリスが、
衝撃に耐えるように低く身を伏せていた。
その前に。
一人。
立っている。
青い髪が。
海流の中で、
大きくなびく。
片手には。
いつの間にか抜かれた、
剣。
揺れる海王鯨の背で。
それでも、
姿勢を崩さず。
底殻だけを、
真っ直ぐ見据えていた。
マリエル。
七年前。
この国から、
一人で飛び出した王女。
けれど。
今。
俺の目の前にいるのは。
はなしで聞いていた少女じゃない。
地上を歩き。
仲間と旅をして。
自分の力で、
七年を生きてきた。
一人の冒険者だった。
「海王鯨が来てくれた!」
近くで、
近衛の声が上がった。
「上に乗っているのは……」
一人が。
海王鯨の背へ、
目を凝らす。
「誰だ……?」
「おい……」
別の声。
「よく見ろ……」
一人。
また一人。
近衛達の視線が、
マリエルへ集まっていく。
「第一王女……」
小さな声だった。
けれど。
次の瞬間。
「マリエル様……?」
ざわめきが、
一気に広がった。
「生きていた……」
「本当に……」
「マリエル様だ……!」
その声の中で。
アーダだけが、
動かなかった。
流れへ耐えるため、
岩へ槍を突き立てたまま。
海王鯨の背を。
ただ、
見上げている。
「……」
声も出さない。
けれど。
その目だけは。
一度も、
マリエルから離れなかった。
マリエルも。
周囲の声には、
振り返らない。
ただ。
剣先を、
底殻へ向ける。
海王鯨の紋様が。
再び、
青く輝いた。
―――コォォォォォォォォン!!
鳴き声と共に。
蒼い巨体が、
戦場を大きく巡る。




