第251話:帰る場所
―――コォォォォォォン。
低く長い鳴き声が、
城の外から響いた。
床が、僅かに震える。
窓際にいたセレスが、
すぐに外へ顔を向けた。
「今のは……」
私は窓へ近付く。
外を見る。
青い光が、
こちらへ向かって近付いていた。
「海王鯨か……?」
深い青の巨体。
全身へ刻まれた紋様を明滅させながら、
城の上を泳いでいく。
海王鯨は、
何かへ急かされるように進んでいた。
城の上を越え。
そのまま、
海面へ向かって上がっていく。
「どこへ行くにゃ?」
ミリカが、
窓へ身を寄せる。
誰も、
答えられない。
海王鯨は一度だけ、
城の方へ頭を向けた。
それから。
もう一度、
低く鳴く。
―――コォォォォォォン。
そのまま、
遠ざかっていく。
青い巨体は。
魚の群れを掻き分けながら、
さらに上へ。
「海王鯨も、何か感じ取ったんでしょうか……?」
ユーリスが、
小さく呟く。
「びびって逃げたにゃ?」
「……分からない」
でも。
胸の奥に、
何かが触れた気がした。
遠い。
海の向こうから。
誰かの声が、
ほんの一瞬だけ。
流れへ混じったような。
「……」
目を閉じる。
けれど。
もう、
何も感じない。
残っているのは。
乱れた海の流れと。
逃げ続ける、
魚達だけだった。
その時。
廊下の奥から、
再び声が上がった。
「底殻が進んでいるだと?!」
「城下外縁まで、あと僅かです!」
水を切る音が、
一斉に廊下へ響いた。
部屋の外を。
槍を携えた近衛達が、
次々と泳ぎ抜けていく。
「迎撃隊は城門前へ!」
「住民を中央区画へ避難させろ!」
「調査隊の生存者を先に運べ!」
城全体が、
さらに慌ただしくなる。
ユーリスが、
立ち上がろうとした。
だが。
肩を押さえ、
顔を歪める。
「……っ」
腕輪を見る。
淡い青の光は、
まだ弱い。
「加護が戻っていません……」
セレスも、
自分の腕輪へ目を落とす。
赤かった光は。
先程より、
少しずつ元の色へ戻り始めている。
それでも。
水中へ出られるほどではない。
「この状態では、外へ出られないな…」
低い声だった。
拳が、
僅かに握られている。
ミリカも、
寝台から降りようとして。
すぐに、
耳を伏せた。
「また溺れるにゃ……」
三人とも。
動きたいのに、
動けない。
私は、
扉を見る。
「私なら行ける……」
三人の顔が。
同時に、
こちらへ向いた。
「マリス?」
「……私は半分、ネレイディアだから」
自分の腕を見る。
淡い水色の模様。
今なら。
水の中でも、
自由に動ける。
「様子を見てくる……」
「待ってください!」
ユーリスが、
すぐに止めた。
「一人では危険です!」
「でも……」
廊下の向こうから。
また、
怒鳴り声が聞こえた。
「王配殿下が出られる!」
「カイル殿下も同行する!
道を開けろ!」
アーダ達が、
向かう。
底殻のところへ。
「アーダ達が行くなら……」
扉へ、
手を掛ける。
「私なら、追いつける……」
「だからといって、
お前まで行く必要はない」
セレスが、
鋭く言った。
けれど。
その目は。
私ではなく、
扉を見ていた。
自分が動けないことを、
押し込めるように。
「必要があるかは、
分からない……」
正直に答える。
「でも」
底殻。
影。
エアが、
戦った相手。
胸の奥へ残る、
冷たい流れ。
「私も、見た方がいいと思う……」
「……」
セレスは、
何も言わない。
ユーリスも。
すぐには、
止めなかった。
その時。
扉が開いた。
「マリス?」
聞き覚えのある、
声だった。
振り返る。
廊下に。
セレネリアが、
立っていた。
近衛達が、
その横を慌ただしく泳ぎ去っていく。
けれど。
セレネリアは、
私だけを見ていた。
「どこへ行くの?」
静かな声。
でも。
その手は、
衣の端を強く握っていた。
「底殻のところへ……」
答えると。
セレネリアの顔が、
はっきりと強張った。
「駄目です」
すぐに、
返された。
「ここにいなさい」
「でも……」
「駄目」
今度は。
少し、
強い声だった。
ゆっくりと。
私の前まで、
泳ぎ寄ってくる。
「あなたまで行く必要はありません」
「私は戦える……」
「許しません」
セレネリアは、
私の腕を掴んだ。
強い。
逃がさないように。
「アーダ達が向かっています。
近衛もいる。
あなたが行く必要はないの」
「……」
「ここにいて」
掴む指が、
僅かに震えている。
また。
重ねている。
私ではない、
誰かと。
でも今は…それを責める気には、
なれなかった。
「……セレネリアさん」
静かに呼ぶ。
「私は…マリエルじゃない」
その指が、
僅かに止まる。
「分かっています」
返事は、
早かった。
けれど。
腕は、
離れない。
「分かってるけど……」
言葉が、
途中で途切れた。
私は、
自分の腕を見る。
その手へ。
そっと、
触れた。
「私は戻ってくる……」
セレネリアが、
顔を上げる。
「エアも、そう言った……。
私は…それを信じいてる。」
少しだけ、
考える。
「私も、同じ……」
「……」
「それに。
勝手にいなくなったら、
エアにも怒られるから……」
少しだけ、
笑う。
上手く笑えているかは、
分からない。
「大丈夫。
だから、必ず戻る……」
セレネリアは、
何も言わなかった。
掴んでいた指から。
少しずつ、
力が抜けていく。
「……約束して」
掠れた声だった。
「必ず…」
私は、
頷く。
「うん……」
腕が、
離れた。
私は、
廊下へ泳ぎ出す。
後ろから。
ユーリスの声が、
聞こえた。
「マリス!」
振り返る。
「無理はしないでください!」
ミリカも。
寝台の上から、
身を乗り出していた。
「危なくなったら、
すぐ逃げるにゃ!」
セレスだけは。
少し遅れて、
口を開いた。
「……マリス」
言葉が、
止まる。
それから。
「無茶をするな」
私は、
小さく頷いた。
「分かった……」
そして。
アーダ達を追って。
水流を切りながら、
城の外へ泳いだ。
ーーーーー
城を出る。
冷たい海流が、
身体を包む。
遠く前方。
アーダ達の姿が、
見えた。
私は、
水を掻く。
追いつける。
そう思って。
少しだけ、
速度を上げた。
『急ぐんだね』
頭の奥で。
聞き慣れた声が、
響いた。
「……ルクナス」
『久しぶり』
「……うん」
『元気そうでよかった』
「ずっと、
いた……?」
『うん』
少しだけ、
笑う気配がした。
『君が話してるのも、
ちゃんと聞いてた』
「……そう」
『心配されてたね』
誰のことを言っているのかは、
聞かなくても分かった。
「私じゃなくて……」
少しだけ、
視線を落とす。
「マリエルを見てる」
『そうかな?』
「……そう」
すぐに答えた。
けれど。
ルクナスは、
少しだけ笑った。
『最初は、
そうだったかもしれないけどね』
「……」
『今はちゃんと。
君のことも、見てると思うよ?』
私は、
前を見る。
遠くを進む、
アーダ達の姿。
「ルクナスには……分からないでしょ?」
『分からないね』
あっさりと、
返された。
『僕は、セレネリアじゃないから』
「……なら、言わないで」
『でも』
少しだけ。
声が、
柔らかくなる。
『君があの人を嫌ってないことは、
分かる』
「……嫌いじゃない」
否定する理由は、
なかった。
「でも……私の母親でもない」
『うん』
「私も……マリエルじゃない」
『それも、分かってる』
海流が。
頬を、
撫でていく。
『だから、難しいんだろうね』
「……何が?」
『どちらも』
少しだけ、
間が空く。
『目の前にいる相手のことも、
放っておけなくなってる』
「……」
返す言葉が、
すぐには見つからなかった。
『まあ』
ルクナスの声が、
いつもの軽さへ戻る。
『君は君で。
勝手に危ないところへ、
行こうとしてるけど』
「……行けるのが、私だけだから」
『そうだね』
止める気は、
ないらしい。
少しの間。
ルクナスは、
何も言わなかった。
海流だけが。
身体の横を、
流れていく。
『ねえ、マリス』
「……何?」
『君は。
あの人に、どうしてほしいのかな?』
「……」
思ってもいなかったことを、
聞かれた。
泳ぐ速度が、
僅かに落ちる。
「どうしてって……?」
『マリエルとして見てほしくない。
それは、分かるよ』
ルクナスの声は。
いつもより、
静かだった。
『でも。
君は君として、見てほしいんじゃないかなぁ?って』
「……」
胸の奥へ。
さっき掴まれた腕の感触が、
もう一度蘇る。
震えていた指。
離したくないと。
そう訴えるような、
手。
「分からない……」
『うん』
否定されなかった。
『今すぐ。
分からなくても、いいんじゃない?』
「……」
『君は、マリエルじゃない』
少しだけ、
笑う気配がする。
『でも、
マリエルじゃない君を心配してくれることまで。
拒まなくてもいいと思うけどね』
私は、
前を見る。
アーダ達の姿は。
少しずつ、
近付いていた。
「……よく、分からない」
『それでいいよ』
あっさりと、
返された。
『少なくとも君は。
ちゃんと戻ろうとしてる』
「エアに、怒られるから……」
『へぇ……』
少しだけ。
面白がるような、
声だった。
『ここで、エアなんだ?』
「……何?」
『いや』
笑う気配がする。
『やっぱり。
君にとって、特別なんだなって』
「……前にも、
言われた」
『誰に?』
「リリシア……」
『ああ。
そうだったね』
納得したような声。
『ふふ』
「何……?」
『君らしいなと思って』
少しだけ。
腹が立つ。
「ルクナスだって……分からないでしょ」
『分からないよ』
あっさりと、
返された。
『君の気持ちは。
君にしか、分からないからね』
「……なら、聞かないで」
『でも』
声から。
からかうような響きが、
消えた。
『君にとって。
エアが特別なのは分かるよ』
「……」
『エアは。
君を最初から、
マリスとして見てたから』
水を掻く手が、
僅かに緩む。
『器でもなく。
神器を扱うために作られたものでもなく』
少しだけ、
間が空く。
『マリエルでもない』
「……うん」
エアの声が、
浮かぶ。
『お前はマリスだろ?』
当たり前のように。
迷うこともなく。
そう言った。
「エアは……見つけてくれた。
…私を、間違えなかった。
自分でも…分からないのに」
『うん』
「だから……」
言葉が、止まる。
上手く、
続けられない。
エアがいなくなるのは嫌。
無事でいてほしい。
戻ってきてほしい。
それが何なのかは。
今も、
分からない。
「……エアには、
戻ってきてほしい」
『そうだね』
ルクナスの声は、
穏やかだった。
『でも、
エアも君には戻ってきてほしいと思うよ』
「……分かってる」
『へぇ』
また少しだけ。
面白がるような、
声になる。
『そこは、分かるんだ?』
「……うるさい」
ルクナスが、
小さく笑った。
『ごめんごめん』
全然。
悪いと思っていない。
それでも。
その声は、
どこか嬉しそうだった。
『でも。
よかったよ』
「……何が?」
『君が。
誰かに怒られることを、
気にするようになって』
「……そう」
静かに、答える。
ルクナスは。
それ以上、
からかってこなかった。
『帰りたい場所が、
できたんだね』
「……」
水を掻く手が。
僅かに、
止まりかける。
戻らないといけない場所。
学院なら。
ずっと、あった。
けれど。
あそこへ戻ることを。
こんなふうに、
考えたことはなかった。
命令。
役目。
言われたから、
戻っていただけだった。
必要なら。
壊れるまで、
戦う。
それが。
作られた私の、
役目だったから。
『今は』
少し、
間が空く。
『戻らなかったら。
怒る人がいっぱいだね』
セレス。
ユーリス。
ミリカ。
エア。
そして。
震える指で。
私の腕を、
掴んでいたセレネリア。
『帰ってきてほしいと、
思う人がいる』
「……マリエルと、
間違えてるだけ」
『全員が?』
「……」
答えられない。
『あの部屋にいた人達も。
君を誰かと、
間違えてたのかな?』
「それは……」
違う。
セレス達は。
私を見ていた。
マリエルではなく。
神器を扱う器でもない。
ただの。
マリスを。
『君は、マリエルじゃない』
ルクナスが言う。
『学院が作りたかった器でもない』
「……」
『君は君だよ』
あまりにも、
簡単に。
当然のことのように、
言われた。
エアと、同じだった。
「でも私は……作られた」
『うん』
否定しない。
『でもね?、作られたことは。
君が誰を大切にするかを、
決めない』
海流が。
身体を、
撫でていく。
『誰のところへ戻りたいかもね』
「……」
約束して。
そう言った、
声。
腕を掴んでいた、
手の温もり。
私は。
迷わず、
頷いた。
命令ではない。
役目でもない。
自分で決めた。
「……約束したから」
『うん』
「だから……戻る」
今度は。
誰かへ言い聞かせるためではなく。
自分で決めるように、
口にした。
ルクナスは。
少しだけ、笑った。
『それで、いいんじゃないかな』
私は、
前を見る。
アーダ達との距離は。
もう、
僅かだった。




