第250話:海は覚えている
宿を出る。
潮風が、
正面から身体へぶつかってきた。
空は低い雲に覆われている。
海は黒く濁り。
沖から押し寄せた波が岸壁へ砕けるたび、
白い飛沫が高く舞い上がっていた。
―――ゴォォ……。
風の音に混じって。
海の奥から、
重い響きが聞こえる。
昨日より、
荒れ方が強くなっている気がした。
港では、
船を繋ぐ縄が激しく軋み。
残っていた者達が、
慌ただしく桟橋から荷を運び出している。
沖へ出ようとする者はいない。
誰もが遠巻きに、
海を見ていた。
俺達が浜辺へ近付くと。
周囲の視線が、
自然とこちらへ集まった。
俺だけじゃない。
少し後ろを歩く、
マリエルにも向いている。
「……」
マリエルは、
深くフードを被っていた。
それでも。
風に煽られた隙間から、
青い髪が何度も覗く。
立ち止まる者。
目を凝らす者。
何かに気付きかけて、
隣の者へ声を掛ける者。
小さなざわめきが少しずつ、
広がっていった。
「やっぱり、目立つのかしら?」
ダルーがマリエルを隠すように、
横へ並ぶ。
「今さらでしょ?。
それに、目を引いてるのはもう一人いるし」
マリエルは普通に返事をする。
まるで、帰りながら夕飯の話でもしているように
こういう視線には、
慣れているのかもしれない。
けれど、
マリエルの指は。
外套の端を、
強く握っていた。
浜辺へ着く。
荒れた波が、
砂を深く抉っている。
足元まで届いた海水が。
すぐに、
沖へ引き戻されていった。
マリエルは。
その場から、
動かなかった。
「……」
海を見る。
その向こうにあるものを、
確かめるように。
長い間。
黙ったまま。
荒れた水面を、
見つめ続けている。
「マリエル?」
サリスが、
すぐ後ろから呼んだ。
「分かってる」
返事は、
早かった。
それでも。
足は、
前へ出ない。
海王鯨を呼べば。
こいつが戻ってきたことは、
セルネレイアにも伝わる。
もう。
知らないふりをして。
この港から、
立ち去ることはできなくなる。
「……呼べるか?」
俺が聞くと。
マリエルは、
少しだけ顔をしかめた。
「呼べるわよ」
すぐに言う。
「多分……」
「多分か」
「七年も、歌ってないのよ?」
マリエルは、
俺を横目で見る。
「それに」
海へ、
視線を戻す。
「それに……。
あの子が、
まだ私のこと覚えてくれてるか……」
「マリスは呼べた」
その言葉に。
マリエルの口元が、
僅かに歪んだ。
「それ、励ましてる?」
「事実だ」
「自分の血から作られたかもしれない子にできて。
本人にできなかったら、立ち直れないんだけど」
「なら、呼べ」
「簡単に言うわね……」
呆れた声。
けれど。
さっきまで握られていた指から、
少しだけ力が抜けていた。
マリエルは、
ゆっくりと浜辺へ出る。
一歩。
波が、
足元へ触れる。
もう一歩。
荒れた海水が膝近くまで押し寄せ。
外套の裾を、
大きく揺らした。
「……」
その背中を見ながら。
マリスが、
初めてここで歌った時のことを思い出す。
何も知らず。
自分が何者かも、
分からないまま。
それでも。
海へ向かって、
歌っていた。
今。
その元になったかもしれない女が。
同じ海の前に、
立っている。
だが。
マリエルは、
まだ歌わなかった。
「来てくれるかな……」
風に紛れそうな、
小さな声だった。
海王鯨のことなのか。
家族のことなのか。
俺には、
分からなかった。
「来るだろ」
マリエルが、
僅かに振り返る。
「何でそう思うの?」
「待ってるからだ」
海王鯨も。
あの国の者達も。
七年間。
こいつが帰ってくるのを、
諦めずに待ち続けていた。
「お前が呼べば」
荒れた海を見る。
「来ない理由がない」
マリエルは、
しばらく俺を見ていた。
やがて。
困ったように、
笑う。
「本当に……」
小さく、
首を横へ振った。
「あなたって。
何でも、簡単に言うのね」
「難しくする必要があるのか?」
「そうね……」
マリエルは、
僅かに目を伏せる。
「ないのかもね」
今度こそ。
海へ、
向き直った。
深く、
息を吸う。
潮風が。
青い髪を、
大きく揺らした。
「……」
最初の声は。
波に消えそうなほど、
小さかった。
けれど。
次第に。
透き通った歌声が、
荒れた港へ広がっていく。
知らない言葉。
それでも。
前に聞いた歌と、
同じ響きだった。
マリスの声より、
少し強い。
どこか、
迷いを残した声。
海の奥へ。
届いてほしいと願うように、
響いていく。
港にいた者達が。
一人。
また一人と、
動きを止める。
縄の軋む音も。
荷を運ぶ足音も。
いつの間にか、
聞こえなくなっていた。
残ったのは。
荒れた波と、
マリエルの歌だけだった。
歌声が海へ溶けていく。
高く。
低く。
荒れた波の向こうへ。
何度も、
呼び掛けるように響いていた。
「……」
誰も、動かない。
ダルーも。
レギスも。
サリスも。
ただ。
浜辺に立つ、
マリエルの背中を見ている。
やがて。
歌が、終わった。
最後の声が風に流され。
荒波の音へ、
飲み込まれていく。
「……」
何も、起きない。
沖では。
黒い水面が、
激しく上下している。
白い飛沫が上がり。
また、
崩れる。
それだけだった。
港に集まった者達の間から。
小さなざわめきが、
戻り始める。
「……来ない」
マリエルが、
呟いた。
声は、
小さかった。
けれど。
荒れた波を見つめたまま。
もう一度、
息を吸う。
「待て」
俺が言うと。
マリエルは振り返らずに、
答えた。
「でも……」
「マリスの時も、
すぐには来なかった」
「……」
マリエルの肩が、
僅かに下がる。
波が、
押し寄せる。
濡れた外套が、
脚へ張り付いていた。
「忘れられたのかな……」
「まだ決めるのは早い」
「七年よ?」
今度は。
少しだけ、
声が強くなった。
「七年も、
呼ばなかった」
海を見たまま、
続ける。
「小さい頃は。
何度も、会ってたのに」
足元へ来た波が。
砂を削りながら、
引いていく。
「地上の話を聞かせてって言っても。
鳴くだけで、
何も教えてくれなかったけど」
少し笑う。
「それでも。
私が歌えば、必ず来てくれた……」
その笑みが。
すぐに、
消えた。
「なのに私は……」
言葉が、
止まる。
その時だった。
―――ゴォォォォォ……。
海の底から。
重く低い響きが、
ゆっくりと伝わってきた。
「……?」
俺は、
海を見る。
荒れた波が。
ほんの一瞬だけ、
不自然に静かになった。
そして。
沖の海面が、
ゆっくりと盛り上がる。
波じゃない。
何かが。
海の下から、
こちらへ近付いている。
「おい……」
レギスが、
思わず息を呑む。
サリスも、
目を凝らした。
「何かいる……」
次の瞬間。
―――コォォォォォォォン。
低く。
どこまでも優しい鳴き声が、
海の奥から響いた。
マリエルの身体が、
ぴたりと止まる。
「……来た」
小さな声だった。
沖の海面の下。
巨大な青い光が。
ゆっくりと、
こちらへ近付いてくる。
一度。
また一度。
深い海の中で。
古代文字のような紋様が、
脈打っていた。
港中から、悲鳴にも似た声が上がる。
「沖だ!」「何か来るぞ!」
「海だ……!」「またか!?」
荒れていた海が。
その巨体の進む場所だけ、
左右へ割れていく。
やがて。
―――ザバァァァァァァァァン!!
海が、
爆ぜた。
白い飛沫が、
天高く舞い上がる。
黒い水面を、
突き破り。
巨大な蒼い身体が、
姿を現した。
海王鯨。
港中が、
言葉を失う。
海王鯨はゆっくりと、
浜辺へ身体を寄せた。
深い青の瞳が。
真っ直ぐ。
マリエルだけを、
見つめていた。
「……」
マリエルの唇が、
小さく震える。
海王鯨も、
動かない。
マリエルも、
動かない。
七年という時間を越えて。
互いに。
ただ、
見つめ合っていた。
やがて。
海王鯨が、
ゆっくりと目を細める。
―――コォォォォォォォン。
さっきよりも、
近く。
胸の奥へ染み込むような。
優しい、
鳴き声だった。
「……覚えてた」
マリエルの声が、
震えた。
頬を。
一筋の涙が、
伝う。
「覚えてて……くれた」
海王鯨は。
ゆっくりと、頭を下げた。
ーーーーー
俺達が全員乗ると。
海王鯨が、
低く鳴いた。
―――コォォォォォン。
次の瞬間。
ゆっくりと、
海面へ沈んでいく。
「おい、ちょっと待て!?」
レギスが、
声を上げた。
「このまま潜るのかよ!?」
「そうだ」
「そうだじゃねぇ!!」
水面が迫る。
ダルーが慌てて。
サリスとマリエルを、
両腕で抱え込んだ。
「ちょ、ちょっとエアちゃん!?」
「大丈夫だ」
「説明、もっと早く欲しかったわぁ!
いやぁあ~!?アタシの毛並みがずぶ濡れにぃい~!!」
海王鯨の身体が。
そのまま、
海へ沈んだ。
大量の水が、
頭上から押し寄せてくる。
「息――!」
サリスが、
口元を押さえた。
だが。
海水は、
俺達へ触れなかった。
海王鯨の紋様が、
青く光る。
その光から生まれた透明な膜が。
背中全体を、
包み込んでいた。
膜の外を。
海水だけが、
勢いよく流れていく。
「……は?」
レギスが口を開けたまま、
固まる。
ダルーも。
サリスも。
目の前を泳いでいく魚を、
言葉もなく見つめていた。
頭上には。
遠ざかっていく海面。
砕けた光が。
幾筋もの柱になって、
水の中へ差し込んでいる。
「……すごい」
サリスが、
ようやく声を漏らした。
透明な膜へ、
手を近付ける。
指先が触れる、
その直前。
外側を泳いでいた小魚達が、
一斉に身を翻した。
「水の中なのに……」
ダルーが、
自分の頬へ触れる。
「息もできるし。
アタシの美しい毛並みも、
濡れてないわぁ……」
「大丈夫だっただろ?」
俺が言うと。
レギスが、
こちらを睨んだ。
「結果が同じなら、
何も説明しなくていいと思ってるだろ…」
「違うのか?」
「違う!」
声が空気の膜の内側へ響いた。
その時。
少し離れた場所から。
小さく、
息を呑む音がした。
「……っ」
マリエルだった。
胸元へ、
手を当てている。
呼吸が。
僅かに、
乱れていた。
「どうした?」
近付こうとすると。
マリエルが、
すぐに片手を上げる。
「ちょ、ちょっと……」
「苦しいのか?」
「違う……」
少しだけ、
身体を丸める。
外套の下。
脚の辺りへ。
淡い青い光が、
滲んでいた。
「久しぶりだから……」
マリエルは、
困ったように顔をしかめる。
「身体が……。
…海の姿に、戻りたがってる」
「海の姿?」
サリスが、
首を傾げる。
マリエルは。
三人を見る。
それから。
俺へ、
視線を向けた。
「……全員、
あっち向いて」
「何でだ?」
「いいから!」
声が、
強くなる。
ダルーが、
何かに気付いた。
すぐに。
俺とレギスの肩を、
まとめて掴む。
「はいはい。
男共は、向こうを見ましょうねぇ」
「俺もかよ」
「当然でしょう?」
身体ごと、
反対へ向けられる。
「サリスも!」
「私も?」
「お願い!」
背後で。
衣擦れの音が、
聞こえた。
留め具が外れ。
布が。
海王鯨の背へ、
置かれる。
「もういい?」
ダルーが、
尋ねる。
「まだ!」
少し、
間が空く。
その直後。
淡い青い光が。
背中越しにも分かるほど、
強くなった。
水が流れるような音。
布が擦れる音とは違う。
もっと、
柔らかい。
何かが。
ゆっくりと、
形を変えていくような音だった。
「……いいよ」
振り返る。
マリエルは。
外套を、
腰の辺りへ巻き直していた。
その下。
さっきまで、
二本あった脚はもうない。
腰から下が。
淡く透き通る、
青い鱗に覆われた。
一本の尾へと、
変わっていた。
大きな尾びれが。
海王鯨の光を受けながら、
ゆっくりと揺れている。
身体に刻まれた波の模様も。
さっきより、
鮮明に浮かんでいた。
「……」
ダルー達三人が、
揃って固まる。
マリエルが。
少しだけ居心地悪そうに、
眉を寄せた。
「何よ?」
最初に動いたのは、
サリスだった。
一歩、
近付く。
尾びれから顔まで。
何度も、
見比べる。
「……本当に、
ネレイディアだったんだ」
「今さら!?」
「だって」
サリスは。
青い尾を見つめたまま、
続ける。
「七年一緒にいても。
水中でなんて、見たことなかったから…」
レギスも。
ようやく、
口を開いた。
「お前……」
「何?」
「魚だったんだな」
その言葉に俺はミリカが思い浮かんだ。
マリエルの目が、
細くなる。
「魚って、あんたねぇ?」
「いや。
どう見ても――」
「レギスちゃん?」
ダルーの柔らかい声が。
後ろから、
落ちた。
「……綺麗な尾だな」
言い直す。
マリエルは。
まだ少し、
不満そうだったが。
「分かればいいのよ」
尾びれを、
小さく動かした。
その瞬間。
身体が。
思った以上に、
大きく横へ流れる。
「わっ……!」
サリスが、
咄嗟に腕を掴んだ。
ダルーも。
反対側から、
身体を支える。
「大丈夫?」
「久しぶりで、
少し感覚が……」
マリエルは。
自分の尾を、
見下ろした。
何度か。
ゆっくりと、
動かしてみる。
それから。
透明な膜の向こうへ広がる、
海を見た。
「……懐かしい」
小さな声だった。
さっきまでの緊張とは、
違う。
長い間。
触れることのなかったものへ、
ようやく帰ってきたような。
そんな響きだった。
海王鯨は。
そんなマリエルを、
待っていたように。
もう一度だけ、
優しく鳴いた。
―――コォォォォォン。
そして。
荒れた海の、
さらに深い場所へ向かって。
ゆっくりと、
潜り始めた。




