第247話:地図を開いた夜
しばらく、
誰も口を開かなかった。
窓の外では、
白い波が岸へ砕けている。
潮風が部屋を抜け、
机の上に置かれた布が小さく揺れた。
「……そうね」
やがて。
マリエルが、
小さく息を吐く。
その声には、
さっきまでの張り詰めた硬さが、
まだ少しだけ残っていた。
「あなたの言う通りかもしれない」
膝の上で組んでいた手をほどく。
指先へ残っていた力が、
少しずつ抜けていく。
「……でも」
一度だけ、
目を閉じた。
何かを整理するように、
額へ手を当てる。
そのまま髪をかき上げ。
もう一度。
今度は少し乱暴に、
頭を掻いた。
「あぁ!もう!」
声が、
部屋へ響く。
マリエルは、
真っ直ぐ俺を見た。
「私も全部話すから!聞いて!」
ダルー達三人が、
顔を見合わせる。
次の瞬間。
揃って、
小さく笑った。
「七年前よ」
マリエルが、
静かに口を開く。
「私がセルネレイアを出たのは……」
小さく、
首を横へ振った。
「国が嫌いだったからじゃない」
少し間を置く。
「お母様が嫌いだったからでもない……」
視線が、
窓の外へ向く。
荒れた海は、
今も変わらず波を打っていた。
「あの日……」
小さく息を吸う。
「私は初めて、
お母様と喧嘩をしたの」
マリエルは窓の外を見たまま、
静かに続けた。
「昔から、私は地上が好きだった。
好きっていうより……」
少し笑う。
「憧れてた、かな」
波の音が聞こえる。
「交易で来る人達がね」
懐かしそうに、
目を細めた。
「地上の話をしてくれるの。
森があって、
山があって、
雪が降って。
火を囲んでお祭りをしたり、
屋台が並んだり」
少しだけ、
肩を竦める。
「今思えば、子供だったのよ。
聞くたびに、次はどんな話なんだろうって。
毎回、楽しみで」
俺は、
黙って聞いていた。
「だから」
マリエルは、
小さく笑う。
「お母様にも、
お父様にも何度も言ってた」
『いつか私も地上へ行きたい』
その笑みが、
ゆっくりと消えていく。
「最初は、
二人とも笑ってたの」
『いつかね』
『もう少し大きくなったらね』
「そう言って、
頭を撫でてくれた」
そこで。
マリエルの声が、
止まった。
窓の外から、
少し強い風が吹き込む。
「……でも」
マリエルは、
窓の外から視線を戻した。
「私が大きくなるにつれて、
周りの見る目も変わっていった」
部屋の中は、
静かだった。
「昔は」
少し笑う。
「『また地上の話?』って、
笑ってくれたのに……。
いつからかな。
『王女なのだから』って言葉が、
増えていった」
指先が、
膝の上で静かに重なる。
「勉強も増えた。
礼儀も。
政治も。
王族としての振る舞いも。
全部、
嫌だったわけじゃない」
ゆっくり、
首を振る。
「王女として生まれたんだから、
そのくらいは当然だって思ってた」
少し、
間が空く。
「でも」
マリエルは、
小さく笑った。
その笑顔は、
少し寂しかった。
「地上へ行きたいって言うたびに」
『もう子供じゃないでしょう』
『立場を考えなさい』
「そう言われるようになって」
静かに、
息を吐く。
「気付いたら。
誰も『いつかね』って、
言ってくれなくなってた」
窓の外では、
波が静かに砕けていた。
「そして」
マリエルは、
少しだけ目を伏せる。
「成人が近付いた頃。
とうとう、
結婚の話が出たの」
波の音だけが、
静かに部屋へ流れ込む。
「ネレイディア王家には、
昔から決まりがあるの。
王族は、
海王親衛軍の中から伴侶を迎える。
国と王家を支えるための……
昔から続く慣習」
小さく、
息を吐く。
「もちろん、
お父様もお母様もそうだった。
だから、それが普通なんだって。
ずっと思ってた」
指先が、
膝の上でゆっくり重なる。
「でも。
いざ自分の番になった時」
少しだけ、
苦笑する。
「急に怖くなったの。
私はまだ、
自分の足で地上も見てない。
知らないことだらけ。
旅にだって、
出たことがない」
マリエルの目は、
どこか遠くを見ていた。
「なのに。
この先の人生まで、
もう決まってるんだって思ったら……」
首を横へ振る。
「息が、
苦しくなった……」
誰も、
口を挟まない。
ダルー達も。
ただ、
静かに聞いていた。
「私は、お母様に言ったの」
少しだけ、
視線を落とす。
「まだ決めたくない。
一人で。
自分の力だけで、
地上へ行ってみたい。
帰ってきたら、
ちゃんと王女としての務めも考える。
だから。
少しだけ、
待ってほしいって」
部屋の空気が、
少しだけ重くなる。
「でも」
マリエルは、
静かに首を振った。
「お母様は――」
『あなたは王女です』
『王族には、
果たすべき務めがあります』
『国を支える者が、
自分だけの願いを優先することはできません』
その言葉を口にした瞬間。
マリエルは、
苦しそうに笑った。
「分かってた……。
お母様は、
間違ってない。
女王としては、
正しいことを言ってた……」
唇を、
僅かに噛む。
「だから余計に。
私は、引けなかった」
少しだけ、
声が強くなる。
「だって私は。
王女である前に――」
自分の胸元へ、
手を置いた。
「私だったから」
「……そうか」
短く返す。
マリエルは、
少しだけ不思議そうに俺を見た。
「お前は」
少し、
言葉を選ぶ。
「良い子だな」
部屋が、
静まった。
「……え?」
「王女であることから、
逃げたかったわけじゃない」
俺は、
マリエルを見る。
「ちゃんと、
務めを果たそうとも思っていた。
それでも。
自分の人生も、
自分で選びたかった」
少しだけ、
考える。
「欲張りだが」
小さく、
首を振る。
「間違ってはいない」
マリエルは、
何も言わない。
ただ。
少しだけ、
目を見開いていた。
俺は続ける。
「マリスとは、
真逆だな」
「……マリス?」
「あいつは……」
少しだけ考える。
「いや。
会えば分かる」
それだけ言う。
「続きを、
聞かせてくれ」
マリエルは、
しばらく俺を見ていた。
何か言いたそうに、
口を開きかける。
けれど。
小さく息を吐くと、
苦笑して首を振った。
「……気になるけど」
肩の力を抜く。
「まあいいわ。
今は、私の話だし」
もう一度。
窓の外へ、
視線を向ける。
白い波が、
岸へ砕けていた。
「あの日」
その一言で。
部屋の空気が、
また静まる。
「お母様は、
女王として話してた……。
でも私は……」
膝の上で、
拳を小さく握る。
「……娘として、
聞いてほしかった」
少しだけ、
俯く。
「私は、
お母様に言ったの」
『私は王女じゃなくて』
『一人の私として生きたい』
「って」
マリエルは、
膝の上で握った拳へ目を落とした。
「お母様は、
少しも怒鳴らなかった」
静かな声だった。
「最後まで、
ちゃんと話を聞いてくれた」
少しだけ笑う。
「だから余計に、
つらかった」
窓の外で、
波が岩へぶつかる。
「私がどれだけ地上へ行きたいのか。
どれだけ、
外の世界を見たいのか。
……お母様は、
全部知ってた」
ゆっくり、
首を横へ振る。
「知ってたのに……」
少しだけ、
息を止める。
「最後まで。
返ってくるのは、
女王としての言葉だった」
『あなたは王女です』
『国を背負う者には、
果たすべき務めがあります』
『国より自分を優先することはできません』
部屋が、
静まり返る。
「その時」
マリエルは、
自分の胸元へ手を当てた。
「何かが、
切れちゃったの」
少しだけ、
視線を伏せる。
「私は聞いた」
『じゃあ、私はいつ、私になれるの?』
皆、静かに聞いている。
「でも」
マリエルは、
苦く笑った。
「返事はなかった……」
握った拳が、
小さく震える。
「頭では、
分かってた。
お母様は、
悪くない。
女王としては。
そう言うしか、
なかったんだって」
少しだけ、
声が掠れる。
「でも。
その時の私は」
ゆっくり、
顔を上げた。
「あの人に……」
僅かに、
唇が震える。
「女王じゃなくて。
お母様でいてほしかった…」
部屋の中へ。
波の音だけが、
流れ込む。
「だから…」
小さく、
息を吸う。
「私、言っちゃったの」
唇を噛む。
「あんなこと……」
少しだけ、
目を閉じる。
「『お母様なんて嫌い』って」
その言葉が落ちた瞬間。
部屋の空気が、
重く沈んだ。
「本心じゃなかった……」
すぐに、
首を横へ振る。
「そんなわけない…」
唇を、
強く噛む。
「…大好きだった」
目が潤む。
「誰よりも…」
小さく、
息を吐く。
「でも。…言っちゃった」
目を閉じる。
「あの時は、止まれなかった」
少し、
間が空く。
「お母様も……」
マリエルの声が、
少しだけ震えた。
『王女としての務めも果たせないなら……』
その先を。
一度、
飲み込む。
そして。
静かに続けた。
『好きになさい』
マリエルは、
膝の上で手を握り締める。
「その瞬間」
苦しそうに笑った。
「私はもう。
ここに居られないって、
思った」
誰も、
何も言わない。
「部屋を飛び出した」
少しだけ、
肩が震える。
「泣きながら、
廊下を走って。
誰にも会いたくなくて。
誰にも、
止められたくなくて」
ゆっくりと、
目を開く。
「……その日の夜」
窓の外を見る。
荒れた海が、
闇の中で静かに揺れていた。
「私は、
セルネレイアを出た」
少し、
間が空く。
「……もちろん」
苦く、
笑う。
「王城を一人で抜けられるほど。
私は、賢くも強くもなかった」
レギス達も、
黙って聞いている。
「昔から、仲良くしてくれていた行商人がいたの。
交易で、
地上と海を行き来していた人」
少し懐かしそうに、
笑う。
「子供の頃から、
地上の話を聞かせてくれた人だった」
目を伏せる。
「ある日。
その人に、言われたの」
『もし本当に覚悟を決めた日が来たなら』
『この地図を開きなさい』
『誰にも見せてはいけない』
『そこには、古くから王家に伝わる抜け道が記されている』
少しだけ、
間を置く。
「でも」
静かに、
首を横へ振る。
『その道を使った瞬間』
『あなたは王女としてではなく』
『一人の人間として生きることになる』
『その代償は』
『あなた自身が背負いなさい』
「そう言われた」
マリエルは、
ゆっくり息を吐き。
膝の上で、
手を重ねる。
「私は。
その地図を、
ずっと開かなかった」
少し、
間が空く。
「でも……」
窓の外で。
波が、
大きく砕けた。
潮風が吹き込み。
青い髪を、
僅かに揺らす。
「お母様と喧嘩した、
あの夜」
マリエルは。
膝の上で重ねた手を、
じっと見つめた。
「私は……」
少しだけ。
指へ、
力を込める。
「その地図を開いた」




