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第246話:帰ればいい


窓の外で、

波が静かに砕ける。


寄せては返す音が、

部屋の奥までゆっくりと届いていた。


潮の匂いを含んだ風が、

半分開いた窓から吹き込み、

古い木の壁をそっと撫でていく。


天井の梁は長い年月で色褪せ、

壁板には幾つもの傷が刻まれていた。


どこかが軋むたびに、

ここが港町の宿なのだと改めて実感する。


「誰だ、それ?」


壁にもたれていた男が聞く。


俺は、

マリエルから目を離さなかった。


「仲間だ」


「仲間……?」


マリエルが、

小さく繰り返す。


「お前と同じ顔をしている」


「同じ顔……」


自分の頬へ、

ゆっくりと触れる。


まだ、

驚きが抜けていない。


「名前はマリス」


「……」


マリエルの目が、

僅かに揺れた。


「ネレイディアなの?」


「本人にも分からない」


「分からないって……?」


「学院に作られた」


部屋の空気が変わった。


大柄な獣人の笑みが消える。


小柄な女も、

黙って俺を見る。


壁際の男も、

口を閉ざした。


マリエルだけは。


何も言わず、

俺を見つめている。


「七年前に、

 学院で生まれたそうだ」


マリエルの顔が、

一瞬固まる。


「……その子は、

 今どこにいるの?」


「海の中だ」


「海の中って……」


「セルネレイアにいる」


その瞬間。


マリエルの顔から、

表情が消えた。


「……セルネレイア?」


「ああ」


「どうして……」


声が掠れる。


「どうして、

 あなた……あの国に?」


「マリスを連れて行った」


「あなたが?」


「海王鯨に乗ってな」


「……っな!?」


マリエルが息を呑んだ。


大柄な獣人達も、

今度は揃ってマリエルを見る。


「海王鯨って……」


小柄な女が、

戸惑ったように口を開く。


「マリエルが前に話してた、

 王家の……?」


「……」


マリエルは答えなかった。


俺の顔。


左腕にある腕輪。


その間を、

何度も視線が行き来する。


「その腕輪も……」


ようやく声を出す。


「セルネレイアで?」


俺は左腕を上げた。


光を失い、

ひび割れた腕輪を見せる。


「アーダから借りた」


「――っ!?」


マリエルの身体が、

ぴたりと止まった。


俺を見る。


左腕の腕輪を見る。


もう一度、

俺の顔へ視線を戻す。


口を開く。


閉じる。


また腕輪を見る。


「え……」


短く息を吸う。


「ちょ、

 ちょっと待って」


額へ手を当てた。


「……整理させて」


一つ、

指を立てる。


「学院で生まれたネレイディアがいて」


もう一本。


「王家の海王鯨に乗って」


さらに一本。


「その子をセルネレイアまで連れて行って」


腕輪を見る。


「しかも、

 その腕輪をお父様が貸した……?」


そこでようやく、

顔を上げる。


しばらく俺を見つめてから。


「……何があったの?」


少しだけ、

首を横へ振る。


「いや、それ以前に」


小さく息を吐く。


「あなた、何者?」


少し考える。


何者か。


そう聞かれても、

自分でもよく分からない。


「エアだ」


短く答えた。


「旅をしてる」


「いや、

 そういうことじゃなくて……」


マリエルが、

思わず額を押さえる。


「そこは分かるの」


大きく息を吐く。


「なんで父様を知ってるの?

 なんでセルネレイアへ行ってるの?

 なんで海王鯨に乗ってるの?

 なんで私のことまで知ってるの?」


一気に言い切る。


「普通、

 一つも繋がらないでしょう?」


その時だった。


「マリエル」


大柄な獣人が、

ゆっくり口を開いた。


「一回、落ち着きなさい」


マリエルが振り向く。


「でも……」


「気持ちは分かるわぁ」


穏やかな声だった。


「でも、一気に聞いたら、

 その人も何から話せばいいか分からなくなるでしょう?」


「……」


マリエルが、

口を閉じる。


「まずは深呼吸」


大柄な獣人が、

軽く手を叩いた。


「ほら」


マリエルは一つ息を吸い込み、

ゆっくり吐き出した。


「そうそう」


満足そうに笑う。


「はい、つづけてぇ~」


それから、

部屋を見回した。


「その間に、まずは自己紹介」


俺を見る。


「アタシはダルー。

 見ての通り、ぴちぴちのお姉さんよ~」


「どこをどう見たら、おっさんがそうなるんだよ!?」


壁にもたれていた男が、

間を置かずに突っ込んだ。


ダルーの笑顔が、

僅かに引きつる。


「あら?」


ゆっくりと、

男の方へ顔を向ける。


「何か言ったかしらぁ?」


声は柔らかい。


だが。


背中へ立て掛けてあった大剣の柄へ、

指先が触れていた。


男の口が止まる。


「……な、何でもねぇ」


「そう?」


ダルーは満足そうに、

俺へ向き直った。


「それで、

 あっちの口が悪いのがレギス」


「紹介が雑すぎるだろ!?」


男――レギスが、

壁から背を離す。


「レギスだ」


短く名乗る。


「見ての通り、

 こいつらのお守りをしてる」


「バカ兄貴が一番、

 皆に迷惑を掛けてるけどね」


小柄な女が、

横から静かに口を挟んだ。


「おい、サリス」


「違う?」


「……」


レギスは何か言い返そうとして。


結局、

口元を歪めただけだった。


小柄な女は、

俺へ向き直る。


「私はサリス」


軽く頭を下げる。


「バカ兄貴の妹。

 それから……」


全員の視線が、

自然とマリエルへ集まった。


「……」


マリエルは、

まだ額へ手を当てたまま深く息を吐いている。


「はい、次はあなたよ」


ダルーが逃がさないように、

その肩へ手を置いた。


「分かってる……」


マリエルは顔を上げる。


まだ少しだけ。


俺と腕輪の間を、

視線が行き来していた。


それでも。


姿勢を整える。


「私はマリエル」


一度、

言葉を切る。


「三人と旅をしてる、冒険者よ」


そこで。


僅かに迷うような間があった。


けれど。


「それと……、どうせ知ってるんでしょうけど」


俺を真っ直ぐ見る。


「七年前にセルネレイアを出た、

 第一王女よ」


少しだけ考える。


わざわざそこまで正直に言ってくれるのなら。


俺も、

答えた方がいいのかもしれない。


「俺はエアだ」


短く口を開く。


「お前達が勝手に祀って、

 エンラと呼んでいる男だ」


部屋が、

静まり返った。


「……は?」


レギスが、

目を瞬かせる。


サリスも、

言葉を失った。


ダルーだけが、

ぽかんと口を開けている。


マリエルは、

数度まばたきを繰り返し。


「……」


額へ、

もう一度手を当てた。


「……情報量が増えた」


ーーーーー


その後。


俺は、

ここまでの出来事を順を追って話した。


学院で槍を取り戻したこと。


竜の領域を目指していること。


獣族の領域を越え、

港へ辿り着いたこと。


そこから、

セルネレイアへ向かったこと。


アーダやセレネリアと会ったこと。


マリエルを探すために、

七年前の道を調べていたこと。


その途中で、

海墓域へ流され。


デカい貝に襲われ、

死にかけたこと。


そして。


意識を失った先で、

ネレイアから見せられた。


遠い昔の記憶まで。


誰も、

口を挟まなかった。


窓の外では。


相変わらず、

波が寄せては返している。


潮風が部屋を抜け、

古い木の壁が小さく軋んだ。


話し終えた頃には。


部屋の中は、

静まり返っていた。


「……なるほどねぇ」


最初に口を開いたのは、

ダルーだった。


腕を組み。


何度か、

ゆっくり頷いている。


「そりゃ、

 マリエルが混乱するわけだわぁ」


「混乱で済む話かよ……」


レギスが、

頭を掻く。


「俺も、わけが分からねぇ。

 神話の人物が目の前にいて。

 王家の海王鯨に乗って。

 しかも王家の連中と知り合いって……」


途中で、

言葉を切る。


「……いや。

 考えるだけ、無駄だな」


サリスも、

小さく息を吐いた。


「一度に起きることじゃないもの……」


俺は、

マリエルを見る。


さっきまでよりは、

落ち着いている。


それでも。


考え込むように、

視線を落としていた。


「次は、俺が聞く」


マリエルが、

ゆっくりと顔を上げた。


「……何?」


「お前はどうやって、

 セルネレイアを出た?」


部屋の空気が変わる。


ダルーも。


レギスも。


サリスも。


誰も、

口を挟まない。


「そして」


続ける。


「何故、

 国を出た?」


マリエルの目が、

僅かに細くなる。


俺はそのまま、

言葉を重ねた。


「アーダとセレネリアは、

 今もお前を探していたぞ?」


マリエルは。


しばらく、

俺を見ていた。


やがて。


深く、

長い息を吐く。


肩から、

僅かに力が抜けた。


「……でしょうね」


短い返事だった。


驚いているようには、

見えない。


けれど。


膝の上へ置かれた手が、

服の布を強く掴んでいた。


「探してるだろうなとは、思ってた」


「なら、何故帰らなかった?」


「簡単に言わないで」


間を置かず、

言葉が返ってきた。


声は、

荒くない。


だが。


さっきまでより、

はっきりと硬くなっている。


マリエルは俺から顔を逸らし、

開いた窓の向こうを見る。


荒れた波が、

白い飛沫を上げていた。


「帰ろうと思ったことは、あるのよ?」


潮風に、

青い髪が揺れる。


「何度も」


「なら、なぜ?」


「帰ったところで」


俺の言葉を、

遮る。


「何を言えばいいの?」


指先が。


握った布へ、

さらに食い込んだ。


「お母様に、

 あんなことを言って」


少し間が空く。


「国を抜け出して」


窓枠が、

風に押されて小さく鳴った。


「何年も何も伝えず。

 好きなように旅をして」


マリエルは、

ゆっくりとこちらを向いた。


「今さら帰って」


唇が、

僅かに歪む。


「ただいまって言えば、

 それで終わると思う?」


「終わるだろ?」


マリエルの動きが、

止まった。


レギスも。


サリスも。


ダルーまで。


揃って、

俺を見る。


「……え?」


マリエルの口から、

間の抜けた声が漏れた。


「あのねぇ」


少し身を乗り出す。


「あたし、これでも王女なんだけど?」


少し考える。


怒られるかもしれない。

泣かれるかもしれない。


言い合いにも、

なるだろう。


「そうか……。

 まあ、全部が終わるわけじゃないか」


「でしょう!?」


マリエルが、

さらに身を乗り出す。


だが。


「それでも」


言葉を続ける。


「帰れば、喜ぶだろ?」


マリエルの口が、

閉じた。


窓の外で。


大きな波が、

岸へぶつかる。


湿った風が吹き込み、

壁板の隙間を低く鳴らした。


「アーダも」


俺は、

左腕の腕輪を見る。


あの男は。


七年前の道を、

今も調べ続けていた。


「セレネリアも」


マリスを抱き締め。


二度と離さないように、

泣いていた。


「お前が帰れば、喜ぶ」


「……そんな簡単な話じゃ」


「簡単だ」


マリエルが、

僅かに顔をしかめた。


「家族が帰ってくるんだ」


それ以外に。


何がある。


「嬉しいに決まってる」


「でも私は……!」


声が、

強くなる。


マリエルは何かを言い掛け。


そこで、

止まった。


膝の上の布を、

また強く握る。


「私は、

 お母様を傷付けた」


「お前も、

 傷付いたんだろ?」


「……」


「だから出た」


マリエルは、

答えない。


俺は、

その顔を見る。


「でも。


 戻りたいとも、

 思ったんだろ?」


指先が、

僅かに動いた。


「何度も」


「……そう言ったでしょう」


「なら」


俺は、

マリエルを見る。


「何をためらっている?」


マリエルの目が、

ゆっくりと俺へ向く。


怒っているようにも見える。


困っているようにも見えた。


けれど。


すぐには、

言葉が返ってこない。


「お前は」


続ける。


「帰りたくないのか?」


「違う」


答えは、

早かった。


「なら、

 帰ればいい」


「だから……!」


マリエルが、

立ち上がりかける。


その肩を。


ダルーが、

後ろから静かに押さえた。


「マリエル。

 最後まで聞きなさい」


「でも、

 ダルー!」


「この子」


ダルーは俺を見たまま、

少しだけ口元を緩める。


「多分。

 本気で、そう思ってるわよ?」


「……」


マリエルが、

もう一度俺を見る。


俺は、

首を傾げた。


「違うのか?」


「……あなた」


額へ手を当てる。


「本当に、

 何も分かってないのね」


「お前のことはな。だが」


アーダが、

探していた。


セレネリアは、

泣いていた。


リリシアも。


カイルも。


あの国の者達も。


皆。


マリエルの帰りを、

待っている。


「お前が帰ってくるのを」


俺は、

静かに続ける。


「あいつらは、

 ずっと待ってる」


マリエルの指が、

止まった。


「泣くぐらいにな」


「……」


「それだけは、

 分かる」


誰も、

口を開かなかった。


窓の外では。


波が、

静かに砕けている。


寄せては返す音だけが。


古い宿の部屋を、

満たしていた。

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