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第245話:特別な人


アーダの声が、

部屋へ響いた。


「皆、まずは休め」


ユーリスが顔を上げる。


「でも……」


「その状態で何ができる」


厳しい声だった。


けれど。


アーダの視線は、

ユーリスとミリカの傷へ向けられていた。


「二人とも、自分がどれだけ傷を負っているか分かっていないだろう?」


「これくらいなら……」


ユーリスが言いかける。


その隣で。


ミリカの身体が、

僅かに傾いた。


「ミリカ!」


ユーリスが、

咄嗟に身体を支える。


「だ、大丈夫にゃ……」


そう言ったけれど。


耳は伏せたまま。


脚にも、

上手く力が入っていないように見えた。


「大丈夫ではない。

 見せろ」


アーダは短く言った。


ミリカの傷を確認し、

すぐに顔を上げる。


「傷も多い。

 念のため、毒も調べさせる」


それから。


セレスの腕輪を見る。


弱い赤い光が、

また一度明滅した。


「加護も間もなく切れる。

 客人用の部屋へ」


アーダは、

扉の外へ声を掛ける。


二人の侍従と、

近衛が部屋へ入ってきた。


「手当のできる者を、

 すぐに呼べ」


「はっ」


近衛が、

頭を下げる。


「でも、

 エアが……」


ユーリスは、

まだ動こうとしなかった。


「ユーリス」


セレスが、

静かに呼ぶ。


ユーリスが振り返った。


「……今のお前が戻って合流できたとしても、

 足手まといになるだけだ」


冷たい言い方だった。


でも。


聖杭槍杖を握るセレスの手は、

僅かに震えていた。


「私も休む」


短く続ける。


「加護が戻り次第、

 動けるようにな」


「……」


ユーリスは、

唇を噛んだ。


それから。


ゆっくりと頷く。


「……分かりました」


ミリカも、

力なく尾を揺らした。


「休むにゃ……」


「……マリス」


ユーリスが、

私を見る。


「エアは……、

 絶対に生きています」


「……うん」


「火竜が守っていましたから」


もう一度。


自分にも言い聞かせるように、

ユーリスは口にする。


「……絶対に」


私は、

小さく頷いた。


近衛に支えられながら。


ユーリスとミリカが、

部屋を出ていく。


セレスも、

その後に続こうとした。


けれど。


扉の前で、

一度だけ足を止める。


「マリス」


「……何?」


「今は動くな」


静かな声だった。


命令するような言葉。


でも。


少しだけ、

いつもとは違って聞こえた。


「お前までいなくなれば、

 あいつが戻った時に面倒だ」


「……」


エアなら。


確かに、

怒るかもしれない。


いや。


何も考えていないような顔で。


『何をしてるんだ?』


と聞いてきそうだった。


「……分かった」


私が答えると。


セレスは小さく頷き、

部屋を出ていった。


扉が閉じる。


部屋の中が、

少しだけ静かになった。


アーダは、

しばらくその扉を見ていた。


それから。


「……海墓域の件を、

 すぐに確認する」


低い声だった。


セレネリアが、

アーダを見る。


「底殻が生者を襲ったとなれば、

 放置はできません」


「あぁ」


短く答える。


「他の個体にも、

 異常が出ている可能性がある」


「海流の乱れとの関係も、

 調べなければならないわね」


アーダは、

部屋の外へ視線を向けた。


「うむ、皆を集めよう」


「私も行きます」


セレネリアが言った。


その声は。


さっきまで、

私を引き止めていた母親のものではなかった。


女王としての声だった。


「各地の流れを確認してください。

 それから、すぐに調査隊の選抜を」


「分かった」


「海墓域へ近付かないよう、

 周辺の集落にも伝えて」


「あぁ。

 もちろんだ」


アーダが頷く。


その隣で。


カイルも、

姿勢を正した。


「父上。

 私も同行します」


アーダは、

カイルを一度見る。


「来い」


「はい」


短い返事だった。


三人が、

扉へ向かう。


けれど。


セレネリアだけは、

途中で足を止めた。


振り返る。


「……マリス」


「何?」


「ここにいてね……」


また。


少しだけ、

母親の顔へ戻っていた。


「どこにも行かないで……」


「……はい」


そう答える。


でも。


セレネリアは、

まだ心配そうに私を見ていた。


その時。


「お母様」


リリシアが、

静かに口を開いた。


「私が一緒にいます」


セレネリアが、

リリシアを見る。


「マリス様のそばにいますから」


「そう……、

 リリシア」


少しだけ、

安心したように息を吐く。


「お願いね」


「はい」


今度こそ。


セレネリアは、

アーダとカイルに続いて部屋を出ていった。


扉が閉じる。


「……」


急に。


部屋が、

広くなったように感じた。


さっきまでいた。


アーダ。


セレネリア。


カイル。


ユーリス。


ミリカ。


セレス。


全員が、

いなくなった。


残ったのは。


私と、

リリシアだけだった。


「……」


何を話せばいいのか、

分からない。


リリシアも。


すぐには、

口を開かなかった。


ただ。


閉じられた扉を、

見つめている。


やがて。


ゆっくりと、

こちらへ顔を向けた。


「……」


部屋には。


遠い波の音だけが、

静かに響いていた。


リリシアは、

しばらく黙ったまま私を見ている。


その視線に、

責めるような色はない。


でも。


まだ、

どこか距離があった。


やがて。


「……お母様は」


静かに、

口を開く。


「少し、落ち着かれたみたいですね」


「……うん」


小さく頷く。


「よかった」


その言葉は、

本心だと思った。


でも。


続く言葉には、

少し違うものが混じっていた。


「あなたのおかげで」


「……」


私は、

返事ができなかった。


「違うと分かっていても」


リリシアは、

目を伏せる。


「お母様は、あなたにお姉様を重ねてしまうから」


部屋が、

静かになる。


「……ごめんなさい」


思わず、

口をついて出た。


その瞬間。


リリシアが、

少しだけ目を見開く。


「……どうして謝るんですか?」


「私が…似てるから」


「だから?」


「あなたの、お母様が苦しんで……」


「違います」


少しだけ、

強い声だった。


私は、

顔を上げる。


リリシアは、

首を横へ振った。


「あなたが悪いわけじゃありません」


短く息を吐く。


「悪いのは、お母様でもありません」


窓の外を見る。


遠くで。


魚の群れが、

静かに流れていく。


「……だから、困るんです」


その声だけが、

少し震えていた。


「あなたを見ると」


僅かに、

間を置く。


「お姉様を思い出します」


「……」


「でも」


私を、

真っ直ぐ見る。


「あなたは、

 お姉様ではありません」


「……うん」


「頭では、

 分かっています」


少しだけ笑う。


「でも心は、

 そんなに器用じゃないんです」


「……」


私は、

何も言えなかった。


リリシアは、

ゆっくりと近付いてくる。


机の上にある絵本へ、

視線を落とした。


「さっき」


「……?」


「お母様とのお話が、

 聞こえてきました」


表紙を、

そっと撫でる。


「あなたが、

 『止まっているより、走っている方が似合う』って言ったと」


私は頷く。


「うん……そう思ったから」


「そうですか」


リリシアは、

少しだけ笑った。


でも。


その笑顔は、

どこか寂しかった。


「お姉様も、

 同じことを言いました」


「……」


「だから、

 一瞬だけ」


言葉が止まる。


「本当に帰ってきたんじゃないかって……

 思ってしまったんです」


俯く。


「そんなわけないのに」


静かな声だった。


「さっきも……

 期待した私が悪いんです」


私は、

首を横へ振った。


「違う」


初めて。


自分から、

はっきりと言葉が出た。


「期待するのは……悪くない」


リリシアが、

私を見る。


「私も」


自分の胸へ、

手を当てる。


「エアが帰ってくるって、

 信じてる」


「……」


「根拠なんてない。

 でも……」


少しだけ、

笑う。


「そう…信じたいから」


リリシアは。


しばらく、

私を見つめていた。


それから。


小さく息を吐く。


「……やっぱり」


「?」


「あなたは、

 お姉様じゃありませんね」


「……」


「お姉様なら」


少しだけ、

口元を緩める。


「そんな顔では、

 笑いませんから」


その言葉からは。


さっきまであった硬さが、

ほんの少しだけ消えていた。


リリシアは、

しばらく私を見つめる。


それから。


少し迷うように、

口を開いた。


「……一つ、

 聞いてもいいですか?」


「?」


「あなたは」


少しだけ、

言葉を選ぶ。


「エアさんのことが、

 好きなんですか?」


「……え?」


思わず、

声が漏れた。


何を聞かれたのか。


すぐには、

理解できなかった。


「す、好き?…」


「はい」


リリシアは、

真っ直ぐ頷く。


「違うなら、

 ごめんなさい。


 でも……」


少しだけ笑う。


「さっきから、

 エアさんのお話をすると」


私を見る。


「あなた、

 とても優しい顔をするから」


「……」


そんな顔を、

していたんだろうか。


私は、

少し考える。


好き。


その言葉が、

胸の中へ落ちる。


「……分からない」


小さく答えた。


「分からない?」


「うん……」


私は、

俯く。


「そういうの……

 考えたこと、ないから」


学院では、

必要なかった。


誰かを好きになることも。


好きと言われることも。


全部。


与えられた役目には、

関係なかった。


「でも……」


自然と、

口が動く。


「エアは……

 私をマリスって呼んでくれた」


胸へ、

手を当てる。


「器としてじゃなくて。

 私が、私だから」


『お前はマリスだろ?』


あの声が、

浮かぶ。


「それだけ……」


少しだけ笑う。


けれど。


その先の言葉が、

続かなかった。


「エアが、

 いなくなるのは嫌」


「……」


「無事でいてほしいって」


もう一度、

少しだけ笑う。


「それしか……分からない」


リリシアは、

黙って聞いていた。


そして。


小さく、

微笑む。


「……そうですか」


少しだけ考えるように、

目を伏せた。


「それが何という気持ちなのかは……」


私を見る。


「今はまだ、分からなくてもいいのかもしれませんね」


「……」


「でも」


少しだけ、

笑う。


「エアさんは、

 あなたにとって特別な人なんですね」


「……特別」


その言葉を、

小さく繰り返す。


私はまだ。


その意味を、

うまく理解できなかった。


リリシアが、

くすりと笑う。


「少なくとも、

 お姉様が結婚相手の話をしている時とは違いますから……」


少し首を傾げる。


「そうなのかなって」


私は、

首を傾げた。


やっぱり。


よく分からない。


その様子を見て。


リリシアは、

小さく笑った。


「でも」


窓の外を見る。


「エアさんは……

 本当に不思議な人です」


「……不思議?」


「はい」


静かな声だった。


「一国の女王。


 それも、

 お母様に向かって。


 あんなことを言える人なんて、

 この国にはいません」


少しだけ、

目を伏せる。


「怒らせることも恐れず。

 傷付けることも恐れず。

 それでも、お母様を助けようとしていました」


私は。


あの時のエアを、

思い出す。


『その子はマリスだ』


迷いなく。


そう言った。


「普通なら」


リリシアは続ける。


「王族だから近付きます。

 利益があるから助けます。

 恩を売ろうとする者だっている」


首を横へ振る。


「でも、

 あの人は違いました」


少し笑う。


「相手が女王だからでも。

 王族だからでもなく」


私を見る。


「泣いている人だったから、

 手を伸ばした」


「……」


「きっと、

 そういう人なんでしょう?」


リリシアに、

そう言われて。


思い浮かんだのは。


エアの手ではなかった。


腕。


胸元へ触れていた、

熱。


遠くで。


何度も、

私の名前を呼ぶ声。


『マリス』


『マリス……』


はっきり、

覚えているわけではない。


あの時。


私は、

ほとんど何も見えていなかった。


身体も動かなかった。


声も、

出せなかった。


でも。


抱えられていた。


落とさないように。


消えないように。


強く。


けれど。


痛くないように。


「……」


胸へ、

手を当てる。


あの時の熱が。


まだ少しだけ、

残っている気がした。


「うん……」


小さく頷く。


「……多分、

 そういう人」


誰かが傷付けば。


自分まで、

苦しそうな顔をして。


誰かが消えそうになれば。


何もできなくても、

諦めない。


最後まで、

手を離さない。


「……変な人」


小さく、

言葉が漏れた。


リリシアが。


少しだけ、

笑った。


部屋には再び。


静かな波の音が、

戻ってくる。


胸の奥だけが。


さっきよりも。


少しだけ、

温かかった。

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