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第244話:海墓域


目を開けると、

木の天井が見えた。


「……」


知らない場所だ。


遠くから、

波の音が聞こえる。


窓の外からは、

人の話し声と荷車の音が微かに届いていた。


身体を起こす。


少し重い。


だが、

動かせないほどではなかった。


腕。

肩。

腰。

脚。


触手が巻き付いていた場所には、

包帯が巻かれている。


「……あら?」


すぐ近くから、

声がした。


顔を向ける。


デカい…。


獣人、猫?、いや虎か。


椅子へ腰掛けていた、

大柄な獣人が目を丸くしていた。


「あらあら。

 あなた、もう起きられるの?」


手にしていた布を置き、

こちらへ身を乗り出してくる。


「丈夫ねぇ~。

 あれだけ毒が回ってたのに」


「毒……?」


海底。


岩の裂け目。


無数の触手。


紫色の血。


途切れていた記憶が、

少しずつ戻ってくる。


「大丈夫?」


反対側から、

小柄な女が近付いてきた。


俺の顔を覗き込み、

心配そうに眉を寄せる。


「無理してない?

 あなた、見付けた時は本当に死にかけてたんだよ?」


「そうなのか?」


「そうなのかって……」


女が困ったように、

大柄な獣人を見る。


「本人、全然分かってないみたい」


「まあ、あの状態なら仕方ないわねぇ」


少し離れた場所で。


壁にもたれていた男が、

鼻を鳴らした。


「まさか、こんなところで『火竜の槍』に会えるとはな」


「……火竜の槍?」


俺が聞き返すと、

男の眉が上がった。


「覚えてねぇのか?」


「獣人領域であんたが火竜を連れて、

 あの黒い化け物へ突っ込んでいっただろ」


黒い影。


雨。


結界。


巨大な火。


ユーリス達。


「ああ……、お前らみてたのか?」


男の顔が、

僅かに引きつった。


「おい。

 俺達もあの場にいたぞ」


「ユーリスちゃんと一緒に、

 影へ火を撃ってたのよ」


大柄な獣人が、

苦笑する。


「まあ、

 あの時のあなたは周りを見る余裕なんてなかったでしょうけど」


「……すまない」


言いながら、

額へ手を当てる。


頭は、

はっきりしている。


身体も、

思っていたより動く。


それなのに。


胸の奥に、

何かが残っていた。


深く。


暗い青。


波の音。


誰かの声。


そして。


腕の中へ伝わってきた、

形のない温もり。


「……」


頬を、

何かが伝った。


指先で触れる。


濡れている。


「……?」


涙だった。


一滴だけじゃない。


次から次へと、

頬を流れ落ちていく。


「ちょっと……」


大柄な獣人が、

心配そうに顔を覗き込んでくる。


「どうしたの?どこか痛む?」


「いや……」


俺は、

流れる涙を指で拭った。


「これは、何でもないんだ」


身体は痛くない。


傷も、

思ったほど疼いていない。


それでも。


涙だけは、

止まらなかった。


「嬉しくてな……」


胸の奥へ。


じわりと、

温かいものが広がり続けていた。


その時。


「……」


部屋の壁際。


深くフードを被った人物と、

一瞬目が合った。


顔は見えない。


何も言わず。


ただ、

こちらを見ている。


心配しているようにも見えた。


だが、近付いてはこない。


フードの奥から向けられる視線には、

僅かな警戒が混じっていた。


その目が一度。


俺の左腕へ落ちる。


歪み。


ひび割れた、

青い石の腕輪。


すぐに。


また、

俺の顔へ戻った。


「あっ、そうだわ」


大柄な獣人が、

思い出したように笑う。


「あの子が、

 あなたを助けたのよ~」


壁際のフード姿へ、

手を向ける。


「あなたの身体に回ってた毒。

 あの子が必死に抜いてくれたの」


「そうか……」


俺は、

壁際の人物を見る。


あの水だ。


意識の底で感じた。


あの優しい流れ。


自然と、

口が動いた。


「助かった」


一度、

息を吐く。


「ありがとう、マリエル」


部屋の空気が、

止まった。


「……え?」


大柄な獣人が、

目を丸くする。


「は?」


壁にもたれていた男も、

眉をひそめた。


小柄な女も。


驚いたように、

フードの人物を見る。


「えっ……、

 知り合いだったの?」


「なっ……!」


フードの人物が、

一歩後ずさった。


「な、なんで……!」


明らかに、

動揺している。


「なんで私の名前を知ってるの!?」


慌てて後ろへ下がった拍子に。


フードが、

肩から滑り落ちた。


「あっ……」


青い髪が。


さらりと、

零れ落ちる。


現れた顔を見た瞬間。


「……!」


俺は、

目を見開いた。


「……似てる」


思わず、

声が漏れた。


「マリスに……」


目元。


輪郭。


表情。


瓜二つどころじゃない。


同じだった。


一瞬。


マリスが、

そこに立っているように見えた。


「……え?」


マリエルも、

息を呑んでいる。


自分の名前を知っている。


そのうえ。


顔を見た瞬間、

俺が口にしたもう一つの名前。


「マリス……?」


部屋にいた三人は。


揃って、

首を傾げた。


「誰だ、それ?」


ーーーーー


扉が開いた。


「……!」


私は、

椅子から立ち上がる。


最初に入ってきたのは、

アーダだった。


その後ろには、

セレス。


そして。


「ユーリス」


「マリス……」


ユーリスの顔を見た瞬間。


胸の奥へ入っていた力が、

少しだけ抜けた。


ミリカもいる。


二人とも。


服が裂け、

身体のあちこちに細かな傷があった。


「……二人とも、傷が」


ユーリスは、

小さく頷く。


「はい……」


声に、

力がなかった。


ミリカも。


いつものように、

笑わない。


耳は伏せたまま。


尾も、

力なく垂れている。


「……エアは?」


口にした瞬間。


二人の表情が、

止まった。


「……」


誰も、

答えない。


胸の奥が、

急に冷たくなる。


「……エアは、どこ?」


もう一度、

聞いた。


ユーリスが、

ゆっくりと顔を上げる。


「分かりません……」


「……え?」


「途中までは、一緒だったんです…」


掠れた声だった。


「私達を助けてくれて……。

 そのあと、魔物に引きずられて……」


ユーリスの手が、

震える。


杖を握る指へ、

強く力が入っていた。


「追い掛けようとしたんです。

 でも……」


そこで、

言葉が詰まる。


ミリカが、

代わりに口を開いた。


「エアは火竜に包まれて、

 上へ向かったにゃ」


「火竜……?」


「見たにゃ」


ミリカは、

強く頷いた。


「暗いところから、

 赤い火が上がっていったにゃ」


ユーリスも、

顔を上げる。


「間違いありません」


目が、

赤くなっていた。


「エアの火でした」


「なら……」


声が震える。


「死んでない?」


「それは……」


ユーリスは、

苦しそうに言葉を詰まらせた。


でも。


すぐに、

首を横へ振る。


「いえ……」


今度は、

はっきりと言った。


「死んでません」


「……」


「火竜は、

 エアを守るように包んでいました」


「そのまま、

 海面へ向かっていったにゃ」


ミリカも続ける。


「だから、

 どこかにはいるにゃ」


「……」


胸へ、

手を当てる。


まだ。


安心はできない。


どこにいるのかも、

分からない。


それでも。


火竜が、

海面へ向かったのなら。


海の底へ沈んだままではない。


「……探さないと」


椅子から、

離れようとした。


その瞬間。


「駄目よ」


強い声だった。


振り向く。


セレネリアが、

こちらへ歩いてくる。


さっきまでの、

穏やかな顔ではなかった。


「でも……エアが」


「駄目」


もう一度。


今度は、

はっきりと言い切る。


「危険よ。

 あなたまで、いなくなるようなことはさせない」


「私は……大丈夫」


「そういう問題ではないの」


セレネリアは。


私の腕を、

両手で掴んだ。


強くはない。


でも。


離すつもりがないことだけは、

分かった。


「まだ何が起きているのかも、

 分かっていないのでしょう?」


「……エアがいない」


「分かっているわ」


声が、

少しだけ震えた。


「だからこそよ」


セレネリアの指へ、

僅かに力が入る。


「行方が分からない人を探すために、

 あなたまで危険な場所へ行って」


そこで一度。


言葉が、

止まった。


「また誰かが戻らなくなるなんて。

 …私は、許しません」


「……」


その顔を見て。


何も、

言えなくなった。


すると。


「陛下の言う通りだ」


アーダが、

短く口を開いた。


「今は、動くべきではない」


私は、

アーダを見る。


「火竜が海面へ向かったのなら、

 地上へ出れば見付かる可能性はある」


「けど……」


アーダはそのまま。


ユーリスとミリカへ、

視線を向けた。


「ここへ戻る途中で、

 二人から話を聞いた」


部屋の空気が、

静まる。


「岩の奥で、

 異常な海流が発生したこと。


 無数の触手を持つものに、

 襲われたこと」


アーダの声が、

少しだけ低くなる。


「そして……」


僅かに、

間を置く。


「その中心にいたのが、

 底殻〈そこがら〉だったことも」


「……底殻?」


聞き覚えのない、

言葉だった。


セレネリアが、

僅かに表情を変える。


リリシアも。


カイルも。


その名前を、

知っているらしい。


「海墓域に棲む貝だ」


アーダが答えた。


「海墓域……?」


私は、

聞き返す。


その名前も。


底殻という生き物も、

知らない。


アーダは、

静かに頷いた。


「海墓域は。

 ネレイディアが、

 死者を海へ還す場所だ」


部屋が、

静まり返る。


「役目を終えた海の生き物。

 寿命を迎えた者達。

 皆、流れに乗り、最後はあそこへ辿り着く」


私は、

息を呑んだ。


「そこで、

 ただ朽ちるわけではない」


アーダが続ける。


その言葉へ重ねるように。


セレネリアが、

静かに口を開いた。


「海墓域に棲む底殻や、

 海底に生きるもの達が骸を分解するの」


「海へ還すために」


少しだけ、

目を伏せる。


「命を巡らせるための、

 大切な場所よ」


「そして本来」


アーダが、

僅かに眉を寄せた。


「底殻は、

 生きた者を襲う生物ではない」


「……」


「死んだ者を海へ還す。

 それが、底殻だ」


ミリカが、

耳を伏せた。


「でも……」


小さく、

首を横へ振る。


「間違いなく、

 あの貝は私達を襲ったにゃ」


「はい」


ユーリスも、

すぐに頷いた。


「私達を吸い込もうとしていました。

 その後も、追ってきました」


アーダは、

重く頷く。


「あぁ。

 聞いた」


低い声だった。


「私も……、

 信じられん」


少しだけ、

目を閉じる。


「底殻が生者を襲ったという記録は。

 一つもない」


「では……」


セレスが、

口を開いた。


「何か別の要因がある、

 ということか?」


「その可能性が高い」


アーダは、

海図へ視線を落とした。


「海墓域そのものに、

 何らかの異変が起きている」


短く、

息を吐く。


「今ここで兵を出し、

 闇雲に探しても意味はない」


そして。


私を見る。


「原因を知らぬまま入れば、

 捜索隊まで帰れなくなる」


誰も、

反論しなかった。


ユーリスも。


ミリカも。


実際に。


あの海を、

見てきたからだ。


「……」


私は、

拳を握る。


それでも。


エアはまだ、

どこかで生きている。


そう、

信じたい。


その時だった。


「それと君達もだ」


セレスが、

静かに口を開いた。


「今すぐ動けない」


全員の視線が、

集まる。


セレスは、

左腕を持ち上げた。


そこには。


海王の加護を宿した、

腕輪がある。


だが。


もう、

淡い青い光ではない。


赤い光が。


弱く、

断続的に明滅していた。


「海の加護だ」


低い声で言う。


「先程まで海中で活動できたのは、

 この加護のおかげだった」


腕輪へ、

目を落とす。


「だが。

 もう残りは、僅かだ」


アーダも、

頷いた。


「すぐに、

 新たな加護を重ねることはできん。


 腕輪そのものを、

 休ませる必要がある」


セレネリアが、

静かに続ける。


「無理に加護を重ねれば。


 命を守る力そのものが、

 乱れてしまうわ」


部屋が、

静まり返った。


今すぐ、

探しに行きたい。


その気持ちは。


きっと、

ここにいる全員が同じだった。


それでも。


行けない理由だけが。


一つ。


また一つと。


目の前へ、

積み重なっていく。


「……エア」


私は。


小さく。


その名前だけを、

呟いた。

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