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第243話:流れの中のネレイア


青い水の奥から。


誰かの声が、

俺を呼んだ。


ーーーーー


熱い。


息を吸っただけで、

喉の奥が焼けた。


煙。


灰。


焦げた木の匂い。


目の前で、

家が燃えている。


炎が屋根を舐め、

乾いた木を次々と崩していく。


人が走っていた。


誰かが叫んでいる。


子供の泣き声。


波打ち際へ逃げていく足音。


「逃げろ!」

「村から離れろ!」

「近付くな!」


声が重なる。


けれど…。


私の足は、

その声とは反対へ進んでいた。


燃えている場所へ。


炎の中心へ。


「ネレイア!」


誰かが、

名前を呼んだ。


振り返らなかった。


熱い。


腕を覆っていた布が燃える。


振り払う。


肌へ、

火の粉が張り付いた。


「っ……!」


痛い。


皮膚が焼ける。


それでも、

足を止めなかった。


炎の向こう。


崩れた家の前に、

一人の青年がいた。


膝をついている。


両手で頭を押さえ、

身体を小さく丸めていた。


その周りから。


火が、

噴き出している。


まるで。


身体の中から、

止めどなく溢れているようだった。


「違う……」


青年の声が聞こえた。


「俺じゃない……」


掠れている。


泣いていた。


「やめろ……」


炎が膨れ上がる。


地面を走り。


近くの家へ、

燃え移っていく。


「止まれ……!」


叫ぶほどに、

火が強くなる。


青年自身の腕も、

赤く焼けていた。


誰かを襲っているんじゃない。


自分の火に。


自分まで、

焼かれている。


「来るな!」


青年が、

私に気付いた。


赤く滲んだ目が、

こちらを向く。


「逃げろ!」


火が、

押し寄せる。


顔を腕で覆った。


熱が、

全身を叩く。


息が詰まる。


それでも。


一歩、

進んだ。


「来るな!」


もう一歩。


「死ぬぞ!」


足が震える。


怖い。


痛い。


逃げたい。


それでも。


目の前で、

泣いている。


誰も近付かない。


誰も、

手を伸ばさない。


だったら。


「大丈夫」


声が震えた。


何が大丈夫なのか。


自分でも、

分からない。


「大丈夫だから」


青年が、

首を横に振る。


「来るな……、

 来るなよぉ……!」


炎の中へ。


もう一歩、

踏み込んだ。


脚が焼ける。


髪の先が、

焦げる。


「大丈夫……」


手を伸ばす。


「……一人にしないから」


「や、やめろ!?」


青年の火が、

腕へまとわり付いた。


「っ……!」


痛い。


皮膚が裂けるように…熱い。


…それでも。


手を引かなかった。


指先が、

青年の肩へ触れる。


そのまま。


強く、

抱き締めた。


「……な」


青年の体が、

固まった。


火が、

私を包む。


肩。


背中。


腕。


脚。


どこも痛い。


焼けている。


涙が、

勝手に溢れた。


「離せ……!」


青年が、

私を押し返そうとする。


けれど。


その腕にも、

ほとんど力はなかった。


「お前まで……」


「離さない」


「死んでしまう……!」


「離さない!」


強く、

抱き締める。


青年の身体は。


炎の中にいるのに、

震えていた。


熱い。


苦しい。


もう、

立っていられない。


それでも。


この人の方が、

ずっと苦しかった。


誰にも触れられず。


恐れられ。


自分でも止められない火の中で。


ずっと、

一人だった。


それを知っているのは。


今、

ここにいる私だけだった。


「大丈夫」


もう一度、

言った。


声は、

ほとんど出なかった。


「私がいるから」


その時。


遠くで。


海が鳴った。


―――ざぁ。


炎の音とは違う。


波。


何度も聞いてきた、

海の音。


―――ざぁ。


足元へ、

水が触れた。


ここまで、

波が届くはずはない。


それなのに。


冷たい水が、

燃える地面を這っていた。


私の足首へ触れ。


脚を伝い。


焼けた肌を、

包んでいく。


「……?」


水は。


火を無理に消そうとはしなかった。


炎の中へ入り込み。


青年の身体へ触れ。


私の腕と、

彼の胸の間を流れていく。


冷たい。


けれど。


身体の奥は、

温かかった。


海が。


私の中へ、

入ってくる。


呼吸と共に。


血と共に。


心臓の鼓動へ、

重なる。


―――どくん。


胸の奥で。


何かが、

目を覚ました。


私の痛み。


彼の苦しみ。


燃え続ける火。


その全てを、

抱えたまま。


流れる。


止めるのではなく。

押し潰すのでもなく。


熱を運び。


冷たさを運び。


一つの場所に溜まったものを。


別の場所へ、

流していく。


炎が揺れた。


荒れ狂っていた赤が。


少しずつ、

形を失っていく。


腕の中で。


青年が、

顔を上げた。


「ネレイア……、

 君は……何を?」


「分からない……」


私にも、

分からない。


ただ。


この人を助けたい。


それだけだった。


水が、

広がっていく。


焼けた村を抜け。


海へ繋がり。


また、

私達の元へ戻ってくる。


大きな流れになって。


何度も。


何度も。


火の中を、

巡っていく。


リアの炎が。


少しずつ、

小さくなった。


赤い火が。


灰色の煙へ変わり。


最後に残った小さな火が、

リアの胸の奥へ戻っていく。


静かになった。


聞こえるのは。


波の音と。


二人分の、

荒い呼吸だけだった。


「……どうして」


リアが呟いた。


腕の中で。


まだ、

震えている。


「どうして……、

 逃げなかった」


私は、

答えようとした。


でも。


声が出なかった。


身体中が痛い。


力が抜ける。


リアを抱いたまま。


その場へ、

崩れ落ちた。


視界の端に。


自分の腕が見えた。


焼けた皮膚の上に。


淡い青色の線が、

ゆっくりと広がっている。


波が重なるような。


円が幾つも、

繋がっていくような。


不思議な模様。


それを見たところで。


私の意識は。


深い海の底へ、

沈んでいった。


ーーーーー


それから。


長い時間が流れた。


どれほど長かったのかは、

もう分からない。


私は、

海になった。


波になり。


流れになり。


雨となって、

地上へ降り。


川を通り。


また、

海へ戻った。


身体はない。


声もない。


手を伸ばすことも、

できない。


それでも。


水の中を巡る命は。


時折、

感じることができた。


私の傷を、

受け継いだ者達。


腕に。


肩に。


脚に。


あの日と同じ、

波の模様を持つ子供達。


多くの命が生まれ。


海で暮らし。


誰かを愛し。


やがて。


また、

流れへ還っていった。


私はただ。


それを、

見ていた。


触れることはできない。


声を掛けることも、

できない。


けれど。


一人の少女が生まれた時。


流れが、

ほんの少し揺れた。


淡い青色の髪。


身体に刻まれた、

波の模様。


そして。


海の上を見つめる瞳。


少女は何度も。


水面を、

見上げていた。


その向こうに、

何があるのか。


どうして、

空は青いのか。


地上にある火とは、

どんなものなのか。


飽きることなく。


周りの者へ、

問い続けていた。


その姿を見ながら。


私は。


遠い昔の自分を、

思い出していた。


少女の名は。


マリエル。


私は、

水の中から。


ただ静かに。


その子を、

見守っていた。


青い髪の少女が。


水面を、

見上げている。


遠く。


届かない場所を。


それでも、

諦めずに見つめていた。


その背中が。


少しずつ、

青い光へ溶けていく。


ーーーーー


景色が、

消えた。


残ったのは。


どこまでも続く、

静かな水だけだった。


「……そうか」


青い流れだけが。


俺の周りを、

ゆっくりと巡っている。


『これが、今の私』


声がした。


さっきまで、

聞いていた声。


炎の中で。


リアという青年を、

抱き締めていた少女の声だった。


「……ネレイア」


名前を呼ぶ。


姿は、

見えない。


けれど。


水が、

小さく揺れた。


『昔は、

 そう呼ばれていた』


声には。


少しだけ、

笑っているような響きがあった。


『身体は、もうない。


 腕も。


 脚も。


 あの人を抱き締めた手も』


青い流れが。


俺の指先へ、

触れる。


冷たい。


けれど。


嫌な冷たさではなかった。


『私は流れになった。


 海を巡って。


 雨になって。


 川になって。


 また、ここへ戻ってくる』


水の向こうに。


さっき、

ネレイアが見ていた少女の姿が浮かぶ。


マリエル。


まだ、

幼い。


だが。


マリスと、

瓜二つだった。


海の底から。


何度も、

水面を見上げている。


「ずっと、

 あの子を見ていたのか?」


『うん』


短い返事だった。


『あの子だけじゃない。


 私の傷を受け継いだ子達を。


 ずっと見ていた』


生まれて。


笑って。


誰かを愛して。


やがて、

消えていく。


その全てを。


手を伸ばすこともできず。


声を掛けることも、

できないまま。


「……苦しくなかったのか」


しばらく。


答えは、

返ってこなかった。


青い水が。


静かに、

流れていく。


『苦しかった…』


やがて。


小さな声が、

返ってきた。


『何度も、

 手を伸ばしたかった。


 泣いている時も。


 傷付いた時も。


 一人で海面を見上げている時も』


水の中に。


マリエルの小さな背中が、

浮かび上がる。


けれど。


ネレイアの手は、

どこにもなかった。


『それでも』


声が続く。


『見ていることしか、

 できなかったから。


 見ていた』


その言葉に。


胸の奥が、

僅かに痛んだ。


分かる。


遠くから。

手を出せず。


ただ誰かを、

見続けること。


失っても。


届かなくても。


忘れられずに。


見守り続けること。


『だから、

 分かった』


水が。


俺の胸へ、

触れる。


『あなたが、

 どんな気持ちだったのか』


「俺が……?」


『遠い昔のあなたが。


 火を残して。


 世界を残して。


 それでも。


 その先へ手を伸ばせなかった、

 あなたが』


青い流れが、

静かに揺れる。


マリエルが、

笑った。


地上の小さな家を。


両手で、

大切そうに抱えている。


知らないものを、

知ろうとして。


何度も、

問い掛けて。


海の上へ、

憧れている。


『この子を』


ネレイアの声が。


少しだけ、

震えた。


『あなたに、

 見てもらいたかった』


「マリエルを?」


『うん。


 私が見守ってきた子。


 私と同じように。


 知らない世界へ、

 行こうとした子』


ネレイアは。


嬉しそうに。


誇らしそうに、

続けた。


『困っている誰かを見付けたら。


 止まっていられない子』


水の中のマリエルが。


誰かへ向かって、

泳いでいく。


迷わず。


真っ直ぐに。


『きっと、

 あなたなら』


ネレイアは、

静かに言った。


『この子を、

 見付けてくれると思っていた』


「……どういう意味だ?」


問い掛けようとした。


その瞬間。


周囲の水が、

大きく揺れた。


青い景色へ。


細い亀裂が、

走る。


水の向こうに浮かんでいた、

マリエルの姿も。


波紋に崩れていく。


『もう、

 戻る時間みたい』


ネレイアの声が、

遠ざかる。


「待て」


手を伸ばす。


だが。


指先は、

青い流れをすり抜けた。


『大丈夫』


声は、

穏やかだった。


『私は、

 ずっとここにいるから』


違う。


そういうことじゃない。


このまま戻れば。


もう二度と。


こいつに、

触れられないかもしれない。


身体はない。


姿もない。


残っているのは。


水の中を巡る、

意識だけ。


それでも。


ここにいる。


俺の声を聞いて。


俺を見付けて。


遠い昔の俺の気持ちまで。


知ろうとしてくれた。


「……そんなもの」


知らなくてよかった。


届かない場所から。


手を伸ばすこともできず。


大切な者達が生まれ。


生きて。


消えていくのを、

見続ける。


そんな苦しさを。


こいつまで。


知る必要なんて、

なかった。


世界が。


さらに大きく、

揺れる。


青い光が、

薄れていく。


身体の奥から。


別の感覚が、

戻り始めた。


痛み。


冷たさ。


重い呼吸。


外へ。


現実へと、

引き戻されていく。


「まだだ!」


意識が、

浮かび上がろうとする。


それを。


無理やり、

押し沈めた。


身体へ戻ろうとする感覚を、

拒む。


光から背を向け。


もっと深い場所へ。


意識の底へ。


自分から、

落ちていく。


『……何してるの?』


ネレイアの声が、

揺れた。


遠い。


姿は、

見えない。


だから。


水を掴む。


流れを辿る。


海へ。


雨へ。


川へ。


幾つもの時代を巡り。


それでも、

今ここに残っている。


小さな意識へ。


「そこか」


何もない場所へ、

腕を伸ばした。


指先に触れたのは。


冷たい水だけだった。


それでも。


構わず、

両腕を閉じる。


抱き寄せる。


形のない流れを。


身体のない、

ネレイアを。


この世界に残り続けた。


一人の子供を。


腕の中で。


水が、

震えた。


『……どうして』


声が。


すぐ近くから、

聞こえた。


「見付けたかった」


『私には、

 もう身体がないのに』


「関係ない」


腕へ。


さらに、

力を込める。


何も、

掴めていない。


それでも。


ここにいる。


『すごく……

 あったかいね』


確かに。


ここにいる。


「よく見ていたな」


長い間。


誰にも気付かれず。


声も届かず。


それでも。


自分の傷を受け継いだ者達を。


一人も忘れず。


見守り続けていた。


「……つらかったな」


水が。


小さく、

震えた。


返事はなかった。


けれど。


胸元へ。


冷たい流れが、

そっと寄り添ってくる。


まるで。


抱き返す腕の、

代わりのように。


「そんな気持ちは」


喉の奥が、

詰まる。


「知らなくてよかったのに」


『でも』


ネレイアの声がした。


近い。


静かで。


どこか、

嬉しそうだった。


『知れたから。


 あなたのことも、

 見付けられた』


胸の奥が、

痛んだ。


それは。


毒の痛みではなかった。


『ずっと、

 会ってみたかった』


水が。


俺の頬へ、

触れる。


『私達の始まりにいる人に。


 私達が、

 ちゃんと生きてきたことを。


 見てほしかった』


青い流れの中に。


無数の姿が、

浮かび上がった。


笑う者。


泳ぐ者。


誰かと手を繋ぐ者。


子供を抱く者。


その中に。


海面を見上げる、

マリエルもいた。


「見た」


一人ずつ。


目に、

焼き付ける。


「お前達が、

 生きてきたものを」


ネレイアの気配が、

僅かに震えた。


「お前も」


炎の中へ走り。


焼かれながら。


それでも。


一人の男を、

抱き締めた。


その優しさが。


その傷が。


長い時を越えて。


今まで、

残っている。


「いい子だ」


言葉にすると。


水が、

大きく揺れた。


『……子供じゃないよ』


「俺からすれば、

 同じだ」


『ずっと昔の人なのに?』


「それでもだ」


少しだけ。


笑った気配がした。


俺はもう一度。


形のない身体を、

強く抱き締める。


父親が。


長い旅から帰ってきた子供を、

迎えるように。


「よく頑張ったな……」


少しだけ、

腕へ力を込める。


「ありがとう、ネレイア」


その言葉を、

口にした瞬間。


腕の中の水が。


細かく、

震えた。


『……うん』


声が。


少しだけ、

幼くなった気がした。


炎の中へ走った。


あの少女のまま。


長い長い時間。


誰にも抱き締められず。


海を巡り続けていた、

一人の子供の声だった。


『頑張ったよ』


「ああ」


『ちゃんと、

 見てたよ』


「ああ」


『みんな、

 生きてた』


「ああ」


それ以上は。


何も、

言えなかった。


ただ。


消えていく青い世界の中で。


俺は。


ネレイアを、

抱き締め続けた。

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