第240話:海を喰うもの
―――ごぅ……。
重い音が、
再び暗闇の奥から響いた。
さらさら……。
足元の砂が、
ゆっくりと同じ方向へ流れていく。
「……」
その時。
「ユーリス…」
ミリカの声が、
少し低くなった。
「…さっきの光る魔物」
「はい」
「…逃げてるにゃ」
思わず、
息を止める。
「逃げている?」
「さっきまでこっちを泳いでたのに、
今はみんな流れと反対へ向かってるにゃ」
「反対……」
私には見えない。
だから。
今は、
ミリカの言葉を信じるしかなかった。
「魔物が逃げる相手なら、
近付きたくないですね…」
「普通なら、そうにゃ」
少し間が空く。
―――ごぅ……。
また。
海そのものが吸い込まれるような、
重い音が響いた。
「でもにゃ」
ミリカが、
小さく続ける。
「戻る道も分からないにゃ」
その言葉に、
私は唇を結んだ。
確かに、
そうだった。
このまま闇の中を彷徨っても、
帰れる保証はない。
「それに」
ミリカは、
前を見つめたまま言う。
「海が荒れてる原因が、
分かるかもしれないにゃ」
「……」
「マリエルの手掛かりも、
あるかもしれないにゃ」
私は、
杖を握り直した。
怖い。
それでも。
立ち止まっていても、
何も変わらない。
「……行きましょう」
少し間を置いて。
ミリカが、
笑った気配がした。
「やっぱり、
ユーリスはそう言うと思ったにゃ!」
「え?」
「怖いのに、
ちゃんと前に進むにゃ」
少し照れたように続ける。
「あたしも、
エアのために頑張るにゃ!」
ミリカが、
先へ進む。
私は、
その服の裾を軽く掴んだ。
暗闇では。
それだけが、
頼りだった。
足元の砂は、
流れに乗って絶えず前へ滑っていく。
―――ごぅ……。
穴の中で聞いたのと、
同じ音。
けれど。
さっきより、
明らかに大きい。
海水そのものが。
どこかへ、
吸い込まれている。
そんな音だった。
「……」
息が詰まる。
流れも、
先ほどより強くなっていた。
立っているだけで。
身体が、
少しずつ前へ引かれる。
「ユーリス」
ミリカが、
足を止めた。
声が、
僅かに強張っている。
「どうしました?」
返事がない。
代わりに。
ごくり、と。
唾を飲み込む音が、
聞こえた。
「大きいにゃ……」
「何が見えるんですか?」
「岩……じゃないにゃ」
少し間が空く。
「でも、
岩にしては……変にゃ」
私には、
何も見えない。
だから。
その言葉だけを頼りに、
さらに進む。
―――ごぅ……。
吸い込まれる流れが、
また強くなった。
足元の砂が。
さっきより速く、
前へ流れていく。
「……動いたにゃ」
ミリカが、
小さく呟いた。
「え?」
「今…少しだけ」
その瞬間だった。
―――ドン
鈍い音が、
海底へ響いた。
直後。
―――ゴォォォォォォッ!!
流れが、
一気に強くなる。
「っ!」
足が、
砂の上を滑った。
私は咄嗟に、
杖を海底へ突き立てる。
それでも。
身体は、
少しずつ前へ引かれていく。
「ユーリス!」
ミリカが、
私の腕を掴んだ。
「離れちゃ駄目にゃ!」
―――ごぅぅぅぅ……。
重い音が。
暗闇の底から、
響き続ける。
そして。
ミリカの震えた声が、
静かな海底へ落ちた。
「か……」
「……?」
「貝……にゃ」
息を呑む音。
「貝……?」
ミリカは、
掠れた声を絞り出した。
「山みたいな……
でっかい貝が動いてるにゃ!!」
言葉が終わるより、
早く。
―――ゴォォォォォォッ!!
海が、
唸った。
「きゃっ!」
身体が、
一気に前へ引かれる。
杖を握る手へ、
強い重さが掛かった。
砂へ突き立てた杖が、
ずるりと沈む。
「っ……!」
両腕へ、
力を込める。
それでも。
少しずつ。
少しずつ。
身体が、
前へ滑っていく。
「ユーリス!」
ミリカが、
息を切らしながら叫ぶ。
「殻が開いてるにゃ!」
「中は!?弱点はありそうですか!」
返事は、
すぐには返ってこなかった。
その代わり。
もう一度。
ごくり、と。
唾を飲み込む音が聞こえる。
「……真っ黒にゃ」
その一言で。
胸の奥が、
冷えた。
「何も見えないにゃ……」
ミリカの声が、
震える。
「真っ黒なのに……、
中だけ動いてるにゃ!!」
―――ゴォォォォォォッ!!
吸い込む音が、
さらに大きくなる。
「っ!」
杖が浮く。
支えていた砂が、
大きく抉られた。
「まずいにゃ!」
ミリカが、
さらに近付く。
腕を掴む力が、
強くなる。
それでも。
二人まとめて。
砂の上を、
滑り始めた。
―――ずるっ。
また。
―――ずるっ。
「止まりません!」
「駄目にゃ!」
ミリカも、
必死に踏ん張っている。
私も杖を砂に挿して堪える。
それでも、止まらない。
次の瞬間。
杖が。
砂から、
完全に抜けた。
「あっ……!」
体が、宙へ浮く。
一気に。
暗闇の先へ、
引き込まれる。
「ユーリス!!」
ミリカの叫びが響く。
何も見えない闇の中。
二人とも。
巨大な何かへ向かって、
吸い寄せられていく。
―――ゴォォォォォォッ!!
足が。
完全に、
海底から離れた。
もう…。
…駄目かもしれない。
そう思った瞬間だった。
―――ジュウウウウウッ!!
赤い光が、
暗闇を裂いた。
「っ!?」
熱い。
海の中とは思えない熱が。
一瞬、
身体を包む。
次の瞬間。
力強い腕が、
私達をまとめて抱え込んだ。
「え……エア!?」
赤い火が、
周囲を照らす。
その光で。
私は、
初めてそれを見た。
山。
違う。
貝だった。
海底へ根を張るように横たわる、
巨大な殻。
その隙間が。
口のように、
ゆっくりと開いている。
中は、
真っ黒だった。
赤い火で照らされても。
その奥だけは。
底が、見えない。
そこへ向かって。
海そのものが、
吸い込まれていた。
「な……なんですか……あれ……」
言葉を失う。
その時だった。
……ぬる。
頬へ。
海水とは違う、
温かなものが触れた。
赤い。
血。
「……エア?」
見上げる。
エアの腕。
肩。
胸。
服はあちこち裂け。
その下にある深い傷から、
血が流れていた。
「エア!?その怪我!」
「話は後だ!」
短く言い切る。
体を包む赤い火が、
さらに強く燃え上がった。
「掴まってろ!!」
次の瞬間。
―――ボォォォォォォッ!!
エアの背中から、
赤い火が噴き上がる。
同時に。
足元からも、
炎が弾けた。
大量の泡と共に、
周囲の海水が押し退けられる。
三人の身体が、
巨大な貝から離れる方向へ加速した。
「っ!」
速い。
けれど。
―――ゴォォォォォォッ!!
吸い込む力は、
それ以上だった。
進む。
止まる。
また、
引き戻される。
エアの赤い火と。
巨大な吸引が、
正面からぶつかり合っていた。
「くっ……!」
エアが、
歯を食いしばる。
それでも。
距離が、
開かない。
「エア!」
「ユーリス!」
短く叫ぶ。
「後ろ、見えるか!」
私は肩越しに、
巨大な貝を見る。
真っ黒な口。
その奥だけが。
何かを飲み込むたびに、
脈打つように蠢いていた。
「見えます!」
「口の奥だ!撃て!!」
「はい!!」
杖を握る。
火は。
この水の中では、
まともに届かない。
なら。
今、
使えるものを。
杖へ魔力を流す。
「水槍!」
圧縮した水が。
一本の槍となって、
杖の先から放たれた。
周囲の流れに乗り。
さらに加速して。
一直線に、
真っ黒な口の奥へ消える。
次の瞬間。
―――ドォンッ!!
鈍い衝撃が、
海底へ響いた。
「……!」
―――ごぅ……。
吸い込む音が。
ほんの僅かに、
弱まる。
「エア!」
ミリカが叫んだ。
「今にゃ!!」
「分かってる!」
―――ボォォォォォォッ!!
背中から噴き上がる火が、
さらに強くなる。
背中と足元から。
赤い火柱が、
一気に爆ぜた。
「逃げるぞ!」
海水を押し退けながら。
三人の身体は。
巨大な吸引の流れから、
一気に飛び出した。
ーーーーー
岩肌へ。
身体ごと飛び込むように、
どうにか辿り着いた。
―――ドンッ!!
勢いのまま、
足を着く。
「はぁ……はぁっ……」
呼吸が荒い。
水の中で火を出し続けるのは。
やっぱり、
地上より消耗する。
左腕を見る。
腕輪は。
橙色へ、
変わっていた。
危険域。
もう。
…加護は、長く保たない。
「二人とも」
振り返る。
ユーリスも。
ミリカも。
腕輪は、
同じ橙色だった。
「腕輪が危険域に入った」
短く言う。
「ここからは、急ぐぞ」
二人が頷く。
俺は、
顔を上げた。
目の前には。
巨大な岩壁が、
闇の中へ伸びている。
ここを登れば。
少しは、
周囲の地形が見えるかもしれない。
帰る方向も。
何か、
掴めるはずだ。
その時だった。
「エア!!」
ミリカが、
鋭く叫んだ。
「来るにゃ!!」
「!」
振り向く。
暗闇の奥。
巨大な何かが。
こちらへ、
動いている。
「ちっ……!」
右手を、
前へ向けた。
火を集める。
広げず。
押し縮める。
セレスがやっていたように。
一点へ。
さらに、
圧縮する。
「……いけ!」
放つ。
巨大な火球が。
赤い尾を引きながら、
一直線に海底を走った。
―――ドゴォォォォォン!!
赤い爆炎が。
一瞬。
深海の闇を、
真昼のように照らし出す。
衝撃で。
海水が、
一気に押し退けられ。
その反動が、
激しい流れとなって戻ってきた。
爆炎の向こうで。
巨大な影が、
一瞬だけ動きを止める。
だが。
倒れてはいない。
―――ゴゴ……。
重い音。
巨大な殻が。
軋むように、
僅かに動いた。
「まだ動いてるにゃ!」
ミリカの声が、
震える。
「あの貝……
こっち見てるにゃ!!」
「……」
俺は。
炎の向こうにある、
巨大な殻を見た。
違う。
貝じゃない。
少なくとも。
俺達を追っているのは、
あの殻じゃない。
あの中にいる。
黒い何か。
「……影」
俺を追ってるのは…、
あの中の…“影”。




