第239話:深海の底
身体が、
何度も岩へ叩き付けられた。
「がっ……!」
肩も背中も、
ぶつからなかった場所などほとんどない。
衝撃が、何度も全身を貫く。
それでも勢いは止まらず。
次の瞬間。
身体がどこかへ投げ出され、
そのまま何度か転がった。
「……っ」
手をつく。
柔らかい。
……砂だ。
膝が、
海底の砂を抉る。
「……はぁっ」
大きく息を吐いた。
左腕を見る。
腕輪は、
まだ青い。
だが。
規則正しく、
明滅を繰り返している。
俺はゆっくりと、
身体を起こした。
「……」
暗い。
何も見えない。
本当に、
何も。
目を凝らしても、
黒しかなかった。
上下の感覚すら、
分からなくなるほどの闇。
足を探るようにして、
立ち上がる。
足元にあるのは砂だけ、他は何もない。
少し沈む。
細かい。
柔らかい。
踏み締めるたびに、
砂が静かに舞い上がっていく。
足元を流れる水が、
ひどく冷たい。
だが。
それ以上に。
ここまで何もないことの方が、
妙だった。
「ここは……」
どれほど深い所まで、
流されたんだ。
答える者はいない。
聞こえるのは自分の呼吸と、
腕輪から漏れる微かな音だけだった。
俺は左手を前へ出す。
「……いけるか?」
火を流す。
次の瞬間。
荒々しい赤い火が、
手の上へ灯った。
―――ボコッ
同時に。
大量の泡が、
一気に生まれる。
―――ボコボコボコボコッ
赤い火は。
水の中でも、
消えない。
絶え間なく泡を吐き出しながら、
その中心で燃え続けている。
周囲の水が火を押し潰そうとする。
それでも。
俺の火は、
その全てを押し返すように燃えていた。
闇が赤く荒く照らされる。
改めて周りを見てみる。
白い砂。
黒い岩。
それだけだった。
海藻もない。
魚もいない。
貝殻すら、
落ちていない。
ただ。
どこまでも。
どこまでも。
静かな砂の起伏だけが、
闇の中へ続いていた。
「……」
気配がない。
生き物が動く音も。
水を掻く音も。
何一つ、
聞こえない。
静かすぎる。
まるで。
世界から、
音だけが抜け落ちたみたいだった。
俺は火を掲げたまま、
一歩踏み出す。
さらりと。
足元の砂が沈んだ。
舞い上がった細かな粒は、
しばらく水の中を漂い。
やがてまた、
静かに海底へ降り積もっていく。
「……」
気味が悪いくらい静かなのは変わらない。
…本当に。
さっきまでいた海と、
同じ場所なのか。
そう思うほどに。
何もない。
赤い火の灯りだけが、
闇を押し返していた。
歩く。
一歩。
また、
一歩。
どれくらい進んだのか。
時間も。
距離も。
少しずつ、
曖昧になり始めた頃だった。
「……?」
遠く。
暗闇の底で。
何かが、
光った。
青い。
淡い光。
一度だけ脈打ち。
また、
静かになる。
「……何だ?」
目を細める。
火を高く掲げた。
だが、遠すぎる。
輪郭までは、
見えない。
ただ。
青い光だけが。
一定の間隔で、
静かに明滅していた。
まるで。
そこに何かがあると、
知らせるように。
俺は、
そちらへ歩き出した。
砂を踏む音だけが。
静かな海底へ、
小さく響く。
「……ユーリス達じゃなさそうだな」
さらに近付く。
一瞬。
細長い何かが、
青い光の向こうへ浮かんだ。
「あれは……」
目を凝らす。
「アンカーか?」
遠い。
まだ、
はっきりとは見えない。
けれど。
淡い青の光が揺れるたび。
その奥で、
細長い何かが浮かび上がる。
俺は火を掲げたまま、
そちらへ歩いた。
一歩。
また一歩。
距離が縮まるにつれ。
その形が、
少しずつ見えてくる。
海底へ突き刺さる。
巨大な柱。
「……こんな所に」
足を止めた。
間違いない。
アンカーだ。
海の底にまで、
あれがある。
その時だった。
左手の火が。
一瞬だけ、
揺れた。
「?」
そして。
背後から。
赤とは違う光が、
俺の身体を照らした。
振り返る。
青白い光。
その真下で。
巨大な口が、
こちらへ開いていた。
「ッ!」
身体を捻る。
避ける。
だが。
水の抵抗で、
僅かに動きが遅れた。
間に合わない。
咄嗟に、
左腕を前へ出す。
―――ガチンッ!!
牙が、
腕へ食い込んだ。
「ぐっ……!」
鈍い痛みが走る。
目の前にいたのは。
深い海に棲む、
見たことのない魔物だった。
光など必要ないのか。
両目は、
白く濁っている。
額からは、
細い器官が伸び。
その先端だけが、
青白く光っていた。
魔物は。
俺の腕へ噛み付いたまま、
離れない。
「離れろ……!」
右手の槍を、
その頭へ向ける。
だが。
その後ろ。
闇の中に。
また、
同じ光が灯った。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに。
上にも。
横にも。
「……」
次々と。
青白い光が、
闇の中へ浮かび上がる。
そして。
一斉に。
大きな口が開いた。
「ッ!」
次の瞬間。
群れが、
襲い掛かってきた。
肩。
脇腹。
脚。
次々と、
牙が食い込む。
「がっ……!」
振り払おうとしても。
水の中では、
地上ほど身体が動かない。
噛み付かれたまま、
あちこちへ引かれる。
肉が裂け、血が流れる。
その血の赤へ、
反応したように。
闇の奥から。
さらに、
青白い光が近付いてきた。
「俺の血か……!」
岩へ叩き付けられた傷。
今、
食い裂かれた傷。
そこから流れ出した血が、
水の中へ広がって。
魔物達は、
それへ引き寄せられていた。
「……ならッ」
槍を握る。
だが。
振るう余裕がない。
腕にも。
脚にも。
背中にも。
何匹も、
食らい付いている。
「まとめて……」
身体の奥へ、
意識を落とす。
胸の奥。
さらに深く。
そこにある火を。
一気に、
全身へ通す。
「焼けろ!!」
次の瞬間。
全身から。
赤い火が、
一斉に噴き出した。
―――ボゴォォォォッ!!
大量の泡が、
爆ぜる。
食らい付いていた魔物達が、
一瞬で赤い火と泡に包まれた。
離れるより、
早く。
俺の火が。
その身体へ、
食い込んでいく。
一匹。
また一匹。
青白い光が、
次々と消えていった。
やがて。
最後の魔物が、
力なくそのまま砂へ落ちる。
「……っ」
全身から噴き出していた火を、
止める。
俺は、
その場へ膝をついた。
砂が沈む。
腕を見る。
深く残った、
牙の跡。
裂けた肉。
肩も。
脇腹も。
脚も。
噛み付かれた場所から、
まだ血が流れていた。
赤い血が、
水の中へ広がり。
ゆっくりと、
周囲を染めていく。
「……クソッ」
息を吐く。
腕輪を見る。
青い光は。
まだ、
明滅していた。
一度。
また一度。
そして。
その青が。
ゆっくりと、
橙へ変わっていく。
「…急がないと、
まずいな…」
ーーーーー
「……っ」
意識が、
浮かび上がった。
頭が痛い。
身体中が、
軋んでいる。
「ここは……?」
起き上がろうとして。
肩へ、
激痛が走った。
「っ……」
岩へ、
何度も叩き付けられたらしい。
私はゆっくりと、
身体を起こした。
「……」
腕輪の光が。
弱く。
点いたり、
消えたりしている。
それ以外は。
黒。
何も、
見えない。
「ミリカ……いますか?」
呼ぶ。
返事はない。
少しだけ、
声を強める。
「ミリカ!」
静寂。
何も、
返ってこない。
胸の奥が、
ざわついた。
手を前へ伸ばす。
杖もない。
何も見えないなら。
手で、
探すしかない。
指先へ。
柔らかく、
すり抜ける感触が触れた。
「砂……?」
さらり。
冷たい砂が、
指の間を流れていく。
岩。
また、
砂。
私は少しずつ。
周囲を、
手探りで探していった。
「ミリカ?どこに……。
せめて、杖があれば……」
さらに、
手を伸ばす。
その時。
指先へ。
柔らかな感触が、
触れた。
「!」
布だ。
私は慌てて、
そちらへ近寄った。
肩へ触れる。
「ミリカ!?」
身体を揺する。
「ミリカ!起きてください!」
返事はない。
もう一度。
「ミリカ!」
肩を揺する。
「お願いです!」
しばらくして。
「……ぅ」
小さな声が、
返ってきた。
身体が、
僅かに動く。
「……ユーリス?」
弱々しい声だった。
「よかったぁ……」
思わず。
大きく、
息が抜けた。
ミリカが、
ゆっくりと身体を起こす。
「……暗い」
その一言のあと。
少しだけ、
間が空いた。
「でも……ちょっとだけ見えるにゃ」
「見えるんですか?」
「少しずつにゃ」
獣人の目が。
私には何もない闇を、
じっと見つめている。
「ユーリス、
ちょっと待つにゃ」
砂を踏む、
小さな音が遠ざかる。
「ミリカ?」
返事はない。
見えない。
どこへ向かったのかも、
分からない。
僅かに聞こえる足音だけが。
ミリカが近くにいることを、
教えてくれる。
一歩。
また一歩。
時折。
砂を探るような音が、
混じった。
「何をしているんですか?」
「探してるにゃ」
声は。
先ほどより、
少し遠い。
「何を……?」
その直後。
硬い何かが、
砂の上を擦る音がした。
「あったにゃ」
足音が、
戻ってくる。
近付くにつれて。
砂を踏む音が、
はっきりしてきた。
「ユーリス。
手を出すにゃ」
言われるまま。
私は、
前へ手を伸ばした。
何も見えない水の中を。
指先が、
彷徨う。
やがて。
硬く。
冷たいものが、
手に触れた。
「……!」
慣れた太さ。
指を閉じる。
「杖……!、
私の杖!」
「少し離れた所に、
落ちてたにゃ」
私は、
強く握り締める。
手の中へ戻ってきた感触に。
張り詰めていた胸の奥が、
少しだけ緩んだ。
「ありがとうございます」
「なくしたら、困るにゃ」
すぐ近くから、
ミリカの声が返る。
私は、
杖を握り直した。
これがあれば。
少なくとも、
周囲を照らせる。
先端へ、
意識を集中する。
「火よ――」
「待つにゃ」
不意に。
手首を、
掴まれた。
詠唱が止まる。
「ミリカ?」
「今は、火は出さない方がいいにゃ」
すぐ近くで。
抑えた声が、
返ってきた。
「でも、このままでは何も見えません…」
「ユーリス、見えないにゃ?」
不意に。
頭へ、
両手が触れた。
そのまま。
ゆっくりと、
顔の向きを変えられる。
「こっちにゃ」
ミリカの声が。
さらに、
小さくなる。
「遠くに。
青白い光が、いくつもあるにゃ」
「光……?」
私は。
何度、
目を凝らしても。
自分の腕輪が弱く明滅している以外、
何も見えなかった。
「魚みたいに、動いてるにゃ」
ミリカが。
息を潜めるように、
続けた。
「たぶん……魔物にゃ」
喉の奥が、
僅かに詰まった。
先ほどまで感じていた静けさが。
急に。
別のものへ、
変わっていく。
何もいないんじゃない。
見えていないだけ。
「火をつけたら……」
ミリカの手が。
私の手首から、
ゆっくり離れる。
「たぶん、
こっちに気付くにゃ」
「……」
「今はまだ。
向こうを泳いでるにゃ。
こっちには、来てない」
「すみません……。
助かりました」
杖を握ったまま。
火へ流しかけていた魔力を、
ゆっくりと引っ込める。
再び。
暗闇だけが、
残った。
自分の呼吸さえ。
大きすぎるように、
聞こえる。
「ひとまず……
戻りましょうか」
「来た方にゃ?」
「はい」
一度。
エア達と離れた場所まで、
戻れれば。
そう思って。
身体の向きを、
変えようとする。
そして。
止まった。
「……どちらですか?」
返事がない。
少しして。
ミリカの尾らしきものが、
脚へ触れる。
すぐに、
離れた。
「分からないにゃ」
低い声だった。
「流された時に。
何回も、身体が回ったにゃ」
私も、
同じだった。
岩へぶつかるたび。
上下すら、
分からなくなった。
今。
自分が向いている方が。
来た方向なのか。
さらに、
深い方なのか。
確かめる方法がない。
「匂いでは?」
「水の中じゃ無理にゃ」
ミリカが、
耳を澄ませているのだろうか。
しばらく。
何も、
聞こえなかった。
遠くで。
水が動く気配だけが、
微かに伝わってくる。
「音も。
全部、同じように聞こえるにゃ」
杖を握る手へ。
自然と、
力が入った。
戻る道が、
分からない。
火も、
簡単には使えない。
そして。
私には見えない場所を。
魔物が、
泳いでいる。
「……どうしましょう」
返事を待つ。
その時だった。
―――ごぅ……。
どこからともなく。
水が流れる音が、
聞こえた。
さっきも、流される前に聞こえた。
波ではない。
激流でもない。
…重い音。
「……これは」
思わず、
息を止める。
「ミリカ……?」
「静かにするにゃ」
小さな声。
そこにも。
僅かな緊張が、
混じっていた。
―――ごぅ……。
また聞こえる。
今度は。
足元の砂が、
さらさらと動き始めた。
「流れが……」
さっきまで、
静かに積もっていた砂が。
一定の方向へ。
ゆっくりと、
流れていく。
「何かが……」
ミリカの呟きが、
暗闇の中から届く。
「海を、吸ってるにゃ…」
その言葉だけで。
背筋が、
冷たくなった。




