第238話:引き込まれる先
岩が近い。
顔のすぐ横に、
黒い岩肌がある。
身体を横へ向けなければ、
前へ進むこともできない。
私は片手を岩へ添えながら、
ゆっくりと奥へ進んだ。
少し先には、
ミリカの背中が見える。
耳は伏せたまま。
尾も、
身体へ寄せるように丸まっていた。
「大丈夫ですか?」
声を掛けると、
耳が小さく動く。
「だ、大丈夫にゃ」
返ってきた声は、
少しだけ上擦っていた。
「怖かったら、
すぐ戻ってもいいんですよ」
「…戻らないにゃ」
ミリカは、
前を向いたまま答える。
「…エアが入れなかったにゃ。
だから、私がちゃんと見るにゃ」
「……そうですね」
私も、
一度だけ後ろを振り返った。
けれど。
もう、
入口は見えない。
エア達の姿も。
外から差し込んでいた光も。
細い岩の隙間だけが、
暗闇の中へ続いていた。
「私達で確かめましょう!」
「その意気にゃ!」
ミリカは短く答え、
また前へ進み始めた。
通路は一本道だった。
分かれ道はない。
ただ…。
進むほど、
少しずつ下へ傾いている。
「……下に向かっていますね」
「そうみたいにゃ」
ミリカが、
岩へ爪を立てながら進んでいく。
足を着けられる場所は少ない。
身体を浮かせ、
壁を掴みながらでなければ。
少しずつ、
奥へ流されてしまう。
私は杖を岩へ当てないよう、
体へ寄せた。
前へ進む。
さらに奥へ。
すると、周囲の暗さが急に濃くなった。
「……」
さっきまでは、
僅かに岩の形が見えていた。
今は違う。
前も。
後ろも。
自分の手さえ、
ほとんど見えない。
「ユーリス?」
ミリカの声が、
暗闇の中から聞こえた。
「ここにいます」
返事をしながら、
杖を前へ出す。
火の灯りを使う。
そう考えて。
一瞬だけ迷った。
ここは、
水の中だ。
水の魔術なら。
さっき、
エアの傷を治す時にも使えた。
でも。
私が一番慣れているのは、
やっぱり火だった。
「少し離れていてください」
「分かったにゃ」
私は杖の先へ、
意識を集中する。
魔力を流す。
「揺らめく火よ……」
杖の先で。
小さな火が、
ぽっと灯った。
同時に。
細かな泡が、
激しく周囲へ広がる。
「……っ」
火が揺れる。
水に押し潰されるように形を崩し。
杖の先へ留めておくだけでも、
難しい。
それでも。
暗闇の中が、
僅かに照らされた。
黒い岩壁。
細い通路。
少し先で。
ミリカが、
こちらを振り返っている。
「火がついたにゃ!」
「一応は……」
答えながら。
杖へ意識を集中し続ける。
火は水の中で細かく震え。
絶え間なく、
泡を吐き出している。
地上なら。
もっと簡単に、
形を保てる。
けれど。
ここでは火を押し留めようとするたびに、
水がその形を崩していく。
「やっぱり、
水の中では使いにくいですね……」
「無理しない方がいいにゃ」
「大丈夫です。
少し周りが見えれば」
そう答えた直後。
火が、
大きく揺れた。
泡が一気に弾け。
ふっ、と。
光が消える。
再び、完全な暗闇が戻った。
「……すみません」
「謝らなくていいにゃ」
ミリカの声が、
少し近くから聞こえる。
「私なら見えるにゃ。
ユーリスは、あたしの尾を見失わないようについてくるにゃ」
「見えませんけどね」
「……それもそうにゃ」
暗闇の中で。
少しだけ、
張り詰めていたものが緩んだ。
私は杖を片手に持ち直し。
もう一方の手を、
前へ伸ばす。
やがて。
指先が、
ミリカの尾へ触れた。
「掴んでもいいですか?」
「優しくにゃ」
「はい」
尾の根元ではなく。
先に近い部分へ、
軽く手を添える。
ミリカが、
再び動き始めた。
私も、
その後ろを追う。
通路はまだ、
下へ続いている。
どこまで深くなるのか。
分からない。
水の流れも。
少しずつ、
変わっていた。
最初は。
岩の奥から、
僅かに流れ出していただけだった。
今は違う。
身体の横を抜ける水が、
はっきりと奥へ向かっている。
「ミリカ」
「分かってるにゃ」
前から、
小さな声が返る。
「流れが強くなってるにゃ」
私も、
岩壁へ手を添えた。
押される。
少しずつ。
奥へ。
まだ。
戻れないほどじゃない。
けれど。
進むほど、
水の力が増している。
「もう少しだけ見て、
戻りましょう」
「分かったにゃ」
ミリカが答えた。
その時だった。
―――ゴゴゴゴゴゴゴゴ。
「……!」
遠く。
通路のさらに奥から。
低い音が、
響いてきた。
岩が崩れる音とも違う。
雷とも。
海が荒れる音とも、
違っていた。
重く深い。
何か巨大なものが。
暗闇の向こうで、
動いているような音。
「何にゃ……?」
ミリカが、
動きを止める。
音は消えない。
―――ゴゴゴゴゴゴゴゴ
ずっと続いている。
しかも。
少しずつ、
近付いているようにも聞こえた。
いや、違う。
音が近付いているんじゃない。
…水の流れが、
強くなっている。
「ミリカ!、戻りましょう!」
「分かったにゃ!」
ミリカが、
身体の向きを変えようとした。
だが、その瞬間だった。
水が、
一気に奥へ引かれた。
「ッ……!?」
身体が、
前へ持っていかれる。
私は咄嗟に、
岩へ手を伸ばした。
指先が触れる。
けれど。
―――ズルッ
掴めない。
滑る。
「ユーリス!」
ミリカの声。
次の瞬間。
手首を掴まれた。
ミリカが。
片手の爪を、
岩壁へ深く食い込ませ。
もう一方の手で、
私の腕を掴んでいる。
「掴まるにゃ!」
「はい……!」
私は杖を腕へ寄せ。
空いた手で、
ミリカの手首を掴んだ。
水が。
奥へ。
さらに奥へ。
際限なく、
吸い込まれていく。
髪が流される。
服が引かれる。
身体全体が。
暗闇の先へ、
引っ張られていく。
―――ガリッ…ガリッ
ミリカの爪が、
岩を削った。
細かな欠片が剥がれ。
一瞬で、
奥へ吸い込まれていく。
―――ゴゴゴゴゴゴゴゴ
音はまだ続いている。
長い。
あまりにも、
長い。
一度強まって、
終わる流れじゃない。
何かがずっと、
この先で。
海水を、
吸い込み続けている。
「ミリカ……!」
「離さないにゃ!」
ミリカの腕が震えている。
岩へ立てた爪も、
少しずつ滑っていた。
―――ガリガリガリッ
私も、
必死に掴む。
けれど。
水の力が、
強すぎる。
指が。
少しずつ、
ずれていく。
「ユーリス!、もう少し耐えるにゃ!」
「大丈夫です……!」
答えた瞬間。
ミリカの手を掴んでいた指が。
一本、
外れた。
「……っ!?」
もう一本。
さらに。
水が身体を引く。
手のひらが、
滑る。
「ッ……」
このままじゃ。
二人とも、
引き込まれる。
(せめて…)
ミリカだけでも、
エア達のところへ戻れれば。
そう考えた時だった。
「駄目にゃ!」
ミリカの声が響く。
掴み直そうと、
腕を伸ばす。
でも。
最後に残っていた指が滑り。
ミリカの手から、
完全に外れた。
「ユーリス!!」
体が一気に奥へ流される。
暗闇。
岩壁。
ミリカの声。
全部が。
後ろへ、
遠ざかっていく。
私は杖を抱え。
必死に、
岩へ手を伸ばした。
けれど。
何も掴めない。
「ミリカ!エア達に――!」
叫んだ時。
暗闇の向こうで。
岩を削る音が、
響いた。
「駄目にゃ!!」
続けて。
岩壁を、
強く蹴る音。
流れへ逆らうのではなく。
その流れへ、
飛び込むように。
ミリカが。
一気に加速した。
「ユーリス!!」
声が、
近付いてくる。
次の瞬間。
後ろから、
強く抱き締められた。
「きゃっ……!」
勢いのまま。
二人の身体が、
ぶつかる。
ミリカは、
片腕で私を抱え込み。
もう片方の爪を。
必死に、
岩壁へ伸ばした。
―――ガギィッ!!
爪が、
岩を引き裂く。
―――ギギギギギッ!!!
砕けた石が、
一瞬だけ散り。
そのまま、
暗闇の奥へ吸い込まれていった。
「捕まえたにゃ!」
けれど。
流れは、
止まらない。
二人まとめて。
さらに奥へ。
暗い深淵へ。
引きずられていった。
ーーーーー
時間だけが、
過ぎていく。
「……」
静かに、
海藻が揺れていた。
その時だった。
「……?」
ふと。
左腕に、
違和感を覚えた。
視線を落とす。
淡い青だった腕輪が。
小さく、
明滅している。
「アーダ、
これは……」
俺が呼ぶ。
アーダも。
すぐに腕輪へ目を落とした。
その表情が、
僅かに変わる。
「……始まったか」
「何だ?」
「加護の残り時間だ」
アーダは、
短く答えた。
「青は安定。
明滅を始めたら、
残りは半分だ」
俺は、
腕輪を見る。
規則正しく。
青い光が、
脈打つように明滅している。
「橙へ変われば、
危険域になる」
「危険域?」
「空気の膜も。
水中で動くための力も、
急激に弱まる」
セレスも、
自分の腕輪を見つめる。
「戻れるのか?」
アーダは、
穴へ視線を戻した。
「半分もあれば十分だ。
だが――」
その瞬間だった。
―――ゴォッ!!
穴の奥へ向かう流れが。
突然、
強くなった。
海藻が。
一斉に、
穴の方へ大きく傾く。
巻き上がった砂が。
細い隙間へ、
次々と吸い込まれていく。
俺の身体まで。
僅かに、
穴の方へ引かれた。
「!」
穴の奥を見る。
さっきとは。
違う。
この流れなら。
身体ごと、
奥へ運ばれる。
岩で多少は身を裂かれるだろう。
それでも。
今なら――。
通れる。
「エア、やめておけ」
アーダが。
隣から、
俺の肩を掴んだ。
「……」
返事はしない。
左腕を見る。
腕輪は、
まだ青い。
けれど。
規則正しく、
明滅を繰り返している。
残り半分。
「セレス」
振り返らずに、
呼ぶ。
「……何だ」
穴の奥は、
暗い。
何も見えない。
けれど。
あの先には、
二人がいる。
「もし俺まで、
戻らなかったら」
一度だけ。
息を吸う。
「マリスと、
後のことを頼む」
背後で。
僅かな間が空いた。
「……必ず戻れ」
低い声が、
返ってくる。
「あぁ」
槍を握り直す。
手から離れないよう。
柄と腕を、
帯で固く結んだ。
流れは。
さらに、
強まっている。
奥へ。
奥へ。
俺の身体を、
引いている。
「行ける」
一歩、
踏み出した。
流れへ身体を預けながら。
岩へ、
手を掛ける。
ざらついた岩肌が食い込んだ。
身体を横へ向け。
肩を、
隙間へ押し込む。
「ッ……!」
最初に。
肩が、
岩へ擦れた。
布が裂ける。
すぐ次に。
肌が裂けた。
熱い痛みが、
走る。
歯を食いしばる。
……止まるな。
流れへ、
身体を預ける。
胸まで入る。
背中が、
岩へ当たった。
脇腹も。
腰も。
全身が、
岩へ挟まれる。
「っ……!」
息が漏れた。
岩の角が。
皮膚を、
次々と裂いていく。
肩。
腕。
脇腹。
太腿。
あちこちへ、
鋭い痛みが走った。
血が滲む。
温かい感覚が、
一瞬だけ広がり。
次の瞬間には。
流れに攫われ、
消えていく。
(まだだ、もう少しッ…)
さらに、
身体を捻る。
肩を押し込む。
腰を引く。
その瞬間。
流れが。
ぐっと、
身体を引いた。
「……!」
今まで動かなかった身体が。
一気に、
奥へ滑る。
岩が、
背中を削った。
腕が擦れる。
痛みが走る。
だが。
止まらない。
止まれない。
流れへ飲まれていく。
後ろから。
アーダの声が、
聞こえた気がした。
けれど。
何を言ったのかは、
もう分からない。
耳へ入るのは。
水が唸る音だけだった。
―――ゴォォォォッ!!
狭い岩の間を。
俺は、
一気に引きずり込まれ、暗闇が…。
目の前を、
…埋め尽くした。




